Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

邦坊の喜寿祝い

2007-09-30 15:54:11 | ローカルな話題

この日2007年9月29日の趣旨は、邦坊こと、もと仙台一高バレー部監督・早坂邦三郎先生の喜寿のお祝い、在仙メンバでささやかに。喜寿祝いウォーミングアップは2年前に。運動部は一年違えば一生の上下関係、違っても一生の友達。
であるからして出席者を上から記せば、以下の通り。本日出ていない方々の話題ポンポン出ていたが、諸兄の名誉のため記述は多少差し控えた...

早坂邦三郎先生:昭和5年9月25日うまれ。長男方志(まさし)氏、当時から特別ゲスト。
ゲスト:昭和44年バスケ卒:大橋氏
昭和42年卒:樋渡、星
昭和43年卒:佐々木、加賀谷、陳(江川)、佐竹
昭和44年卒:郡山、大内
昭和45年卒:櫻田

■大内(邦坊会万年幹事):先生とちょうど20違うから、喜寿だなあと気になってて、在仙メンバにお声かけました。先生からのお声がかりで、バスケット部だった松島町長の大橋健男さんにもおいでいただいております。
さて、私こそは、先生のお蔭で人生も大幅に...バレー指導では超えられなかったけど、先生見向きもしなかった校長やってま~す。いま高体連バレー部長、賞状渡す係なので、テレビ写りどうかなあ。まあ、これ全部、先生のご威光あってのことなのです...え~、ここ(青葉区上杉・「味吉祥」)は私の教え子の店ですから、なんなりと...場所はいつもここにしますか...
■加賀谷(一球会幹事):大学時代母校のコーチにこれなかったので、県庁に入ってから、週4日コーチをずっと続けました。櫻田以後の優勝がなく弱くなってたけど、ベスト4には2回いれた。五年かけてやっとインターハイ行けるチームを育てたのにホイッスルにやられた。こちらのトスは全部ホールディングにとられる、アシを引張る人いるんだよね。
先生が一女高のとき、ココ強くしろと言われ張りきっていったら、自分は仙台高に出ちゃった。コーチ五年やって最後の最後これでどうだとベスト8をかけたのが、一女と大内の多賀城と、先生の仙台高。一年生主体の仙高に負けちゃうんだよなあ。早坂マジックだな。先生のスゴさは先進性でしょ、バックトスや速攻という...
先生、バレーに見切りつけてからは今度はバスケだ。それ以来仙高は大橋コーチのバスケが華やか、全国上位常連に。

先生:コーチングでは加賀谷にかなうの、いねェな。オレのあとのガンコのとこで、よくやってくれたよ。
塩釜女子では退職願ふところに禁止の県外合宿。上もハラハラでとうとう追い出されたんだな。バレーは二度とやるまいとおもったがね...
お迎え来るのも近いから言っとくが、みんなの人生狂わしたのはオレだ。入学早々の六月でバレー部脱走すれば、東大に行けて仙台市長になれただろう。でも、かわいいちゃ、あのこ自分でバラスんだからや~、ハハハ。


■星(ヒゲ):センセーは、よくマサシを学校に連れて来た、センセーにしごかれた分、マサシをかわいがってやったよな、体操マットにくるんで。あれっ、金子だっけ、やったの...
先生が着任された年、バレー部弱くなってドースッペ!?という時に、一高にボクは入った。この年は、二年上の新人戦予選敗退だった吉野さんの代、前年国体出場・新人戦優勝の仙台工に総体の死闘で勝ってベスト4に残った。
先生には、ゴシャガレて、オモシャグねえけどバレーするしかないからや~、先輩やみんなの力で、ボクも最後インターハイにいけた。ボクのその後のバレーの原点は優勝して、しかもインターハイに出たことだな、まあ、飲めや。

櫻田(左4人目):ははっ、ところで、樋渡さんの愛宕中は、金子、駒板、都竹先輩、同期には内海やマーボーこと伊藤君がいて優勝できた。一高バレーへの貢献おおきいですね。あと章は五橋ね、だから工藤史郎さんに似てますね...私の代はぞろぞろやめてしまって背水の陣のチーム、それでもコーチの水戸さんに3年毎に優勝するのだ、とハッパかけられて..
ここじゃ一番わかいのですが今56才、わが人生一番の思い出は、二女高体育館でやった総体決勝、相手は仙台高、あの時だけ自分が急に大バケして!、なんでも決まっちゃったんです!

■星:あのね~みんな、先生も、これから先いくばくもなさそうだしよぉ~、...

先生:なに、いいから星、あとは言わねでケロ。ど~れ、み~んなに一言いっとくか、オレの葬式は、大和田(後輩、東北福祉大教授)が葬儀委員長、教え子代表は大内だな。
星:んじゃ、棺オケかつぐのは、オレと、樋渡、佐々木に陳か?、マサシ、おめェ、なんにもしなくていいからな、やってやっから!
大内:棺おけに入れるものエンジ色の優勝ユニホームやら、もう用意してありますから...
陳:あれれ、喜寿なんて平均寿命だから、センセーまだまだ90,100までネ、仙台市から5千円もらった?ボクの患者さん、皆もらったって言うよ。おめでとうでいこうね~、その前に、星さんこそ、死んでだめよ~


■佐々木(左最前):たしかに早いもので40年ですか。人生一番楽しいのはいつでも今の時ですが、同じ経験をした頃なつかしい。先生は、ボクの代の小型チームを優勝させたかったんだと、ずっと思ってきた。残念、そうはいかなかったけど、金子、陳、加賀谷、千葉、...下の郡山にも助けてもらって、皆、ボクの財産です。先生、長生きしてくださいね。今日も、あったかい雰囲気だなあ~。

先生:このひとは天才だヨ、教えなくともすごいタイミングで出来るセンス持ってた。それからすっと千葉なんか身体障害まがい(の運動神経)、よくもまあ、あの速いバレーにと。もうちょっとだったっけなあ...おまえらも...

郡山(左2人目):親父にバレーやめろといわれて、先生がやりあってくれて続けられたんです。私のときは決勝で負けて、13−15、11−15、ここぞというところで、3連続でサーブをだぶったりして、おまえらホントは勝ってたじゃないか、と先生にボールを顔にぶっつけられた。でも、ああいうのがあって、その後これまで人生乗り越えられました。
■陳(左3人目):(佐々木のチームで)あのときネ、沼倉のいた祇園寺に二高は勝ちそうになった、二高が出てきてくれれば(相性で)勝てる、でもそうはならなかった。
先生と出会って、あんな熱中できるバレーに会うなんて、ハタで見ればクレージー、理不尽な高校生活、今となってみるとホントに財産。
インターハイも羨ましくはないの、優勝できればもっとよかったけど、でも、がんばったことが、僕にとって青春そのもの。いい先輩、友達、後輩にめぐり逢って、人生二度楽しんでいるような感じ、生まれてきてよかった。

先生:オレの主治医だから言うんじゃないけど、この人、いったんジャンプして又さらに上がるバネでのライト攻撃、それでこの身長でブロックアウトもできたんだヨ。
(あれっ、レフトは、いねがったのがや?...星さんのおことば)

佐竹(左最前):卒業間際に親父死んで普通の大学に行けなかったので、ボクの学歴は一高バレー部卒業だろね。先生のクルマ磨きやら、先生入院中の連絡、はては毎日体育教官室の吸殻掃除まで、みなやらされてましたから、先生のやり方と、あっ、世渡りへたなところから糖尿病まで、全部受け継いでこれまで生きてこれました。あの頃エバッテた先生、今にして思えば若手の三十半ばだった、考えられんことですね~


■樋渡(左):オマエら、絶対に勝つためには、7:3の力の差をつけなければ、と先生は言った。先生、塩釜女子高で全国ベスト8の実績だが、ヤリタイホーダイで気仙沼高に出されたらしいよ、こんどは無名高を甲子園に連れていった。そして、おれら入学時に来たんだね。
おれは、マネージャが権限もって練習計画やらみな立てたし、先生の言う事を聞いたけど、みんな文句は態度で、ストライキよ。勝てもしないでと、叱られ役の星がいなければ、あのメンバおわってたな。センセイも上手だから直接叱ってフテルのには、オレに言わせるんだよなあ...
思うに、全国制覇するようなチームは1年生の12月に自覚が出来ればあとは成る。でも、このこと、櫻田のあとは、いえなくなったわけよ、なんせ、ふだん練習で出来なかったことを、あの決勝に限ってできたんだもの。全部オレに持ってこい、なんて、ほんとに全部決めやがった...

先生:ところで、樋渡や。あの八戸インターハイでは3回戦までいってんのに、この辺で負けッかと、おまえら思ってたべェ? 生徒たち早く帰って受験勉強しようってコンタンだ。たいだい、前の日3年生パチンコ行ってんだからな...
樋渡:うーん、先生、目標ちがうわけよ、オレらの頃は3年の自分の代でインターハイに行くことが目標、あとはオマケで勝つ気ねえんだもの、でも、新居浜、高知に勝ってベスト16寸前の3回戦山口防府、2セット目簡単にひっくり返してあの試合も勝てたのに、3セット目おわってみれば0-15...みんな青森ねぶたの宿も取ってたしなあ...

■(きょう、特別参加の大橋氏は、大内、郡山と同級。バレー部の隣のコートでやってた一高バスケ時代は、全国ベスト4。コーチとしても、全国優勝までする仙台高バスケを育てた。)

大橋氏(右):行政の経験生かしてと思ったけど、議会やらのほうはどうも人種人柄、ずいぶん違うのね。最初に出たときは選挙というものもわからず、たいへん。早坂先生からは「必勝」という酒、電話で励ましもいただいた。
こんどは、前のかたの騒動のあとで誰も出ず、「あなた、このままでいいの」という妻のことばで奮起、二度目のチャレンジ、とうとう町長になってしまった。でも、宮仕えを止めて一時は無職、子供は4人、たいへんでしたねえ~
(やったね、おめでとう~、「松島」といえば、宮城県は「世界遺産」候補にと文化庁に提案したよね~、伊達政宗建造の国宝瑞巌寺本堂含む江戸時代の建物群と、貝塚群に見る縄文の原風景)



■方志氏(左):(ズーット、正座もされてましたから。大内校長と、教育界のことでも?)
弟重行を通し大内先生にお誘い受けて東京から飛んできました、一言お礼がいいたくて。もう40年もたってるんですね、私ももう47、皆さんに可愛がってもらったのが6、7歳小学一年のころ。
さて、わが父親は、いい教師だったのか!?
(「ハテ、それは...モンダイ多かったな~...」と、みな一斉に!)
んっ、どんな教師モデルであっても、みなさん、それを糧として吸収して成長されたのが、父親にとってもありがたいことです。私は教育心理学、弟も、ともに教員になりました。バレーには縁がなかったのですが、息子と娘はバレーをやっていて、じいさん孝行になってます。




先生:ハハハッ、ところでおまえら来年から毎年還暦祝い続くんだな、こりゃ当分いっしょに楽しめるな....じゃあな~また来年ッ!!
(ひところ元気なかったが、教え子ドクターの放射セン治療で、喉もすっかりなめらかになり、ついでに毒舌も復活してしまった...)
では、はいッ、一本締め、パ~ン!!

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