伯父の戦記_58_カタツムリの大群農園を襲う

2007-11-13 | 伯父の戦記


 伯父の戦記の27話め、「カタツムリの大群農園を襲う」です。 前回までの伯父の記録で、自力で芋を生産し、食糧調達を計っていたものの、野豚に農園を荒らされた話がありました。今回は農園を襲ったもう一つの生き物の話です。
 野豚もカタツムリも伯父達の食糧を狙う敵でしたが、彼等も伯父達の食糧ともなった生き物でした。「口に入るものは何でも食べた」という伯父の話ですが、見た事もない生き物を食べるという行為は、現代に生きる私達には相当な勇気が必要かもしれません。

 「伯父の戦記」は今編が最後です。 今回のお話は昭和19年の後半頃の記録だと思います。伯父はこの後、終戦までこのお話の舞台となった「カビエン」に駐留し、昭和21年の4月までオーストラリア軍の捕虜となりました。日本に帰国できたのは昭和21年5月のことです。
 日米開戦間もない頃に海軍兵となり、終戦まで戦地に居た伯父の軍歴は、太平洋戦争の戦歴に沿っています。始めの1年程は西太平洋の北から南まで戦歴を重ねていた伯父達も、後半は「カビエン」から動くことが出来ず堪え忍ぶ戦歴でした。
 昭和17年1月に始まり約4年半に渡る海軍生活を記録した「伯父の戦記」は断片的なものです。伯父には書き残したかったことがまだまだあったかもしれませんが、伯父は今年の春に他界しました。もう少し私も記録のお手伝いをしてあげたかったと思い、残念です。

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 最近このカビエンに、見た事もない大きなカタツムリが突然異常発生し、毎夜芋畠を何反歩と云う広範囲に渡り食い荒らし始めた。これは敵機の爆撃、野豚の被害より大きな打撃であった。
 芋畠は私達の生命の維持に欠く事の出来ない唯一の食糧である。芋が無くては今では生きて行けない土壇場に追いつめられている。
 そのため毎日毎日精根尽きるような過酷な重労働に明け暮れていた。時には病を押して迄農耕に加わり、鍬を握ったまま倒れ死んで行く者も居た。
 私達はこうした大きな犠牲を払いながら、灼熱の太陽の下で今日も明日もと想像を絶するような辛苦を重ねている。
 ところが不幸にも此の度のカタツムリの襲撃は、精神的にも大きな打撃となった。とにかく何千、何万と云うカタツムリの大群から畠を死守しなければならない。 足で潰したり、採取して焼却したり、手を尽くしたが焼け石に水である。翌朝には他の畠が何反歩に渡り食い尽くされていた。正に自然界の予期せぬ恐ろしさを知らされたのである。

 軍隊と云う集団には様々な知恵者が居る。そこでカタツムリは太陽に弱いとか、水分の無い所に弱いとか、考えたのか思い出したのかは定かではないが早速作戦に出た。
 先ず畠とジャングルに間の3米程の距離を伐採し焼いた。彼等はその習性から夜明け迄にはジャングルに帰る事になっているが、3米の距離を渡り切る前に強い太陽の直射を浴び死んでしまう。結果的にはこの作戦は成功し、何千何万と云う死骸を太陽に晒していた。 しかし発生率が高いのか、その後数日間作戦を繰り返して行った。その結果、徐々に被害は減少して行った。

 現在の私達は輸送も途絶えた孤島にあって悪戦苦闘の中、而も食糧等の自給自足の体勢で頑張り続けているが、被害続きもあって食糧は日増しに不足し、体力の衰えに極限が見えて来る。 そして戦死者より病に倒れ死んで行く者が続出した。時には労働意欲が失われる事もあった。しかし私達は強かった。負けなかった。 豚にしろカタツムリにしろ、最後は彼等を私達の栄養不足を補う食糧とし、この苦境を乗り越え、果てしなき生への道を前進していたのである。

 ※カタツムリの食し方
  鍋にてボイルし、殻から身を引きだし不要物を取り除き、後は油と塩或いは辛子をもって味付けし食する。油・塩全て現地製造。
 (完)

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6 Comments

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高級食材? (Pepper)
2007-11-13 21:27:31
、とか言うのは不謹慎でしたね。

大戦末期の日本兵の窮状は安易に語られているような気がします。
戦闘で亡くなるのではなく、飢えや病気で亡くなっていった先人の無念を伝えるべく、「叔父の戦記」を広く伝えるのはnon_bの使命だね。
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Unknown (チビタンママ)
2007-11-14 16:54:05
上記にあるpepper様のおっしゃる通り、日本兵の窮状がどれほど過酷であったか私達にはほとんど知らされていないと思います。
代わりに売国奴のような著名作家による捏造してまで日本兵を貶める著作の数々。
偏向マスコミによる日本バッシング。
日教組によるとんでもない洗脳教育。
私のような者でも脳天がぶち切れそうになるほど腹立たしいのですから、今年の春まで存命されていた伯父さまのお気持ちはいかばかりであったことでしょう。
この先のご苦労や心情をもっと拝見させていただきたかったと非常に残念で悔しく思います。

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Pepperさんへ (non_B)
2007-11-14 21:09:36
伯父の戦記を読んでくれてありがとう。

伯父は、インターネットという理解しがたい媒体で、見ず知らずの方が自分の文章を読んでもらえることを不思議に感じていたようです。
でも、いただいたコメントを読んでとても喜んでいました。

ブログでの連載という形態をとって公開してきましたが、違う形での公開も考えてみます。
書庫的なホームページにするか、同じような文章を公開していらっしゃるサイトの場をお借りできれば、それも良い形かもしれません。
何らかの形で、改めて伯父の体験記を発表したいと思っています。
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チビタンママさまへ (non_B)
2007-11-14 21:35:04
チビタンママさまがご指摘のように、著名作家も、その多くは自ら体験したことを述べているわけではありませんから、作家の思想・信条が出てきますよね。
しかも一見、説得力がありそうだから困りモノです。

伯父は戦後続いている「日本軍の誤り」をあげつらう空気には嫌気をさしていたと思います。
それは、一度だけ伯父と二人で痛飲したときに語っていました。
「何のために自分たちは闘ったのか」、日本軍が槍玉にあがる度に感じていたかもしれません。
伯父が自分の体験記を書いたのは、そんな空気に抗う気持ちがあったのだと私は思っています。
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Unknown (チビタンママ)
2007-11-14 23:06:06
pepper様へのお返事にあるような新たな公開に期待します!!!
伯父様の実体験とその時の心情には、何者も介入出来ない真実があるのみです。
これからは、今までのような戦争で亡くなられた方の遺書や手紙だけでなく、生き残った者の心の叫びを広く伝えていく時が来たのだと思います。
戦後60年を迎えたあたりから、戦争体験を語るお年寄りが増えたことは事実ですが、その方々も次々と鬼籍に入られ、多くのことが風化していく寂しさを覚える今日この頃です。


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チビタンママさまへ2 (non_B)
2007-11-16 22:52:33
ありがとうございます。

戦争体験を伝えたいというお気持ちをお持ちのお年寄りは潜在的にはとても多いと思います。
インターネットは個人が情報を発信することができる点では、そのようなお考えをお持ちな方にとってはとても良い媒体だと思います。
私はその点を伯父に伝え、自分のブログで発表していくようになりました。
太平洋戦争での戦闘を体験した方々の年齢も80代以上になっています。ご自身がその体験を語ることは、今後は増々難しくなっていきます。
私が伯父の晩年に伯父の文章に接することができたのは、とても幸運だったかもしれません。その機会を活かせるような形を考えていきます
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