不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

伯父の戦記_比叡と私(再掲)

2013-08-13 | 伯父の戦記



 小学館が発行する月刊誌<SAPIO>の9月号の特集に、<90歳になった帝国軍人25人「最後の証言」>という特集がありました。

 太平洋戦争中に兵役に就かれた方々の多くが亡くなられ、ご存命の方の年齢もほとんどが90台になります。SAPIOの記事で証言された方々の最年少が85歳、最年長が97歳でした。25名の方々の正に最後の証言集になるかもしれません。

 私の亡くなった伯父も海軍兵としてこの戦争で戦いました。その戦いの記録として書き残したものがあり、2007年頃にそれを私のブログで連載形式で記事にしていました。
 15日の終戦記念日を前に、今一度、その記録の一部を掲載します。実際の戦闘がいかに凄惨なものだったか、現場にいた伯父の文章から知っていただければ幸いです。
 タイトルは<比叡と私>。昭和天皇のお召艦でもあった戦艦比叡の最後に伯父は乗艦していました。その最後の記録です。9000字を超える長文で、文筆家ではなかった伯父の文章ですが、そのまま掲載します。

 

**************************************************************************************

 

 私は、昭和17年1月10日、年令20歳と2ヶ月のおり、極めて純真なる精神と大きな誇りをもって帝国海軍に入隊した。時、正に我が大日本帝国は開闢以来の国家存亡をかけての戦いが強いられていた。
 即ち、昭和16年12月8日、米英蘭に対し宣戦布告したその1ヶ月後のことである。若き私の胸中は米英蘭撃滅の気概に燃え胸をはって横須賀海兵団に入団したものである。

 3ヶ月余りの厳しい新兵教程を無事卒業、4月には連合艦隊第二艦隊第三戦隊で、その名を誇る戦艦比叡に乗艦を命ぜられた。この時の私の心境は、帝国海軍の一水兵としてお国のためにお役に立てる喜びと、栄誉ある戦艦比叡の乗組員となれた喜びで一杯であった。又それと同時に、その責任の重大さをひしひしと痛感したものである。

さて顧みれば、今日の私がこうして存在し、又一世一代の大戦に参加出来たのも、これ一重に慈愛と労苦をもって育ててくれた父母の目に見えない並々ならぬ養育の賜と深く感謝している。

 私達は、比叡に乗艦したその時から新三等水兵として、艦隊勤務の厳しい訓練の毎日が待っていた。しかし、この当時の戦況は勝敗を左右するような戦いが、随所において行われ一瞬の余裕も許されない。又私達新兵が一人前の兵隊となるまで待てる時間もなかったようである。

 17年5月には私達を載せた連合艦隊は、大作戦行動のため母港横須賀を出撃、6月には攻略部隊主力として、ミッドウェイ海戦に参加、引き続いて北方部隊支援のためアリューシャン作戦にも参加、7月には機動部隊の第三艦隊第11戦隊に編入されて、休養の暇もなく南方の前進根拠地トラック島に進出、それ以後はトラック島を基地として、敵機動部隊に備え幾度か出撃を繰り返したことだろう。
 こうした多忙の中でも、8月には第二次ソロモン海戦、10月には南太平洋海戦にと、矢継ぎ早に海戦に参加、そして、ついに私に取っては終生忘れることの出来ない強烈にして悲惨な死闘の戦場、世に言う第三次ソロモン海戦(昭和17年11月13~14日)を体験したのである。
 私は副砲分隊(5分隊)員であったが、唯々、自分の任務を全うする事が精一杯であった。従って、この海戦の全般的な経過など何一つわかろう筈もない。私がこれから述べようとする体験記は、飽く迄も私の身近で起こった数多くの戦闘場面を記憶を辿り綴ってみたものである。
 この作戦の目的等については、すでに多くの記録によりご存知の事と思われるのでここでは省略致しましょう。

  昭和17年11月9日と言えば、日本内地は秋風が吹いている頃である。戦艦比叡(本艦)は、他に戦艦1隻、軽巡1隻、駆逐艦11隻を率い特攻隊の旗艦として、根拠地トラック島を出撃、直ちに戦闘配備をもって一路南下、ガダルカナル島目指して突進していったのである。
 私は副砲砲台員であるのにどうした事か、海戦突入の数時間前迄は電報取次の当直員を命ぜられた。その任務は、入電した種々の暗号電報等の通信文を、艦橋の首脳陣である司令官、幕僚及び艦長等にお届けするのが役目であった。そのために海戦突入の11月13日15時頃迄の敵味方の行動の一部を知り得る事ができたのである。
 例えば、①敵艦隊十数隻は輸送船団を伴いガ(ガダルカナル)島に接近中なり。②我が特攻隊首脳陣は見方偵察機からその後の連絡を待つ。③敵艦隊の動向を考慮しながらもガ島への艦砲射撃の目的完遂に執念を燃やしている首脳陣の動き。④ガ島の日本軍に対し、特攻隊より敵飛行場南側に「ノロシ」を上げるよう指示。⑤これを了解した旨の返信あり。⑥敵艦隊はルンガ沖泊地に兵員武器弾薬等の揚陸作業を開始した。⑦敵艦隊は、ガ島の残存日本軍に対し、艦砲射撃を開始した。今尚続行中なり。

 こうした情報が飛び交う中、私は次の当直員と交代し、本来の戦闘任務に復帰した。そして、ついに11月13日(金曜日)敵にとっても、味方にとっても共に運命の別れ道に突入していったのである。
 23時頃に我が特攻隊全艦は戦闘配備に就き、ガ島に肉迫しつつあった。艦内(居住区)には、薄暗い電灯が一つ、我々兵員の真白い戦闘服をことさら白く鮮やかに見せていた。そして、そこに見る兵員の顔はみんな緊張と興奮のせいか、青白くこわばり物凄い形相である。

 こうして今迄体験した事もない雰囲気の中、砲撃開始のブザーを今か今かと唾をのんで待っている。艦内は物音一つしない静かさである。外舷に砕かれる艦首波の音のみが不気味に耳につく。正に嵐の前の静けさとはこのことであろう。軍歌の一節にある「たとえ敵艦多くとも何恐れんや」の気魄が満ちみちて、若き血潮が体中に張っていた。冷静で無我の境地とでも言うのであろうか、それ以外の何ものでもなかった。我々の胸中は一途に成功を祈るのみである。

 23時41分頃と記憶しているが、トップ(副砲射撃指揮所)より「射方始め」・・・・・・のブザーが艦内にけたたましく鳴り響いた。その瞬間、主砲、副砲、高角砲の全砲が一斉に火を噴いた。目の前がその閃光でパーと明るくなり、まるで無数の「フラッシュ」を一時に浴びたようである。艦は一斉射撃の反動で振動と共に大きく揺らぎ傾斜した。と同時に初弾命中の声を耳にした。

 その時である。敵砲弾も又、比叡に命中してきた。この時私は数時間前に首脳陣が予測していた敵艦隊との交戦である事を直感した。

 轟音、振動の激しい連続の中、我が砲台も数斉射砲撃をしていた時である。激しい轟音の一瞬我が砲台にも敵弾が命中炸裂した。射手は断片を腹部に受けて即死した。直ちに死体を砲側から引き下ろそうとしたが、上下半身がちぎれそうでどうにもならない。すでに私の戦闘服は鮮血に染まり、手は血と腹の臓物で生ぬるく感じ異様な臭いが鼻をつく。急遽死体を居住区の片隅まで運んだ。
 こうした僅かな時間にも交代したばかりの予備射手が目をやられ重傷、今度は一番砲手が射手に代わるという目まぐるしさ。敵味方の砲撃戦は一段と熾烈さを増していった。
 比叡は砲撃の度毎に轟音と共に傾斜、頭上では上甲板の建造物や艦橋等が敵砲弾で破壊されているのか、炸裂音と崩壊する騒音で、天地を引っ繰り返したような凄い音である。隣の居住区(砲かく)でも弾片が暴れまわっているのか、鉄壁に激突し「ガランガラン」と音をたてている。又他の居住区(砲かく)では敵弾が外舷より艦内に突入、砲側にあった弾薬?を貫通、その中の火薬に点火し一瞬にして居住区(砲かく)内は火の海と化してしまった。周囲はまるで数百個の「バケツ」をムチャクチャに叩いているような騒音である。肉片は飛び散り血の海となり、地獄の惨状を呈していた。

 それから数分後のことである。我が比叡の射撃が急に中断してしまった。射手や旋回手は「トップ(射撃指揮所)はどうしたのか、何をしているのか」と必死で叫ぶ。だが何の応答もない。この時、既に比叡の中枢である艦橋や副砲指揮所、高角砲台、及び機銃砲台等が壊滅的打撃を受け、火災発生して上甲板は修羅場と化していたのであった。
 敵艦隊はこの炎に包まれた比叡に対し、四方八方から容赦なく十字砲火と魚雷をもって攻撃して来たのである。まるで帆船時代の海戦かと思われた。振動と爆発音の交錯である。
 私達砲員は、射撃が中断されている事に苛立ちと焦りを感じていた。その間にも居住区の隅にいる負傷者が、いや戦死者迄もが何か不安気に我々を見守っているかのように見えた。その目には、戦友愛、兄弟愛からくる労わりと励ましの、そして又、何かを祈っているような目つきであった。

 突然、砲側伝令が大声で鋭く怒鳴った。「各砲、砲側照準」となせ、遂に指揮官の命令なく各砲は単独で敵艦との一騎打ちの戦いとなった。

 これで砲員の表情は再び活気を取り戻した。射手・旋回手は直ちに照射孔を開き、敵艦発見に全神経を集中、敵艦影を求めた。敵か味方か、数隻の艦艇が炎上し夜空を真赤に焦がしていた。
 数秒後、旋回手が「反航する敵」と叫んだ。と同時に射手は速やかにこれを確認、その一瞬轟音と共にこの敵艦を砲撃した。「命中命中」と叫ぶ。この時、私達砲員は、先輩下士官の腕前に驚嘆し、且つ喝采もした。その時である。揚弾薬機孔より弾薬が揚がって来なくなった。
 私は中部弾薬通路の弾薬員に対し、「弾薬はどうした」と叫んだ。するとその弾薬員は、「俺の所にも弾薬庫から揚がって来ないんだ」と苛立ちの声で回答があった。その時である。中部弾薬通路にも敵の一弾が飛び込んで炸裂し、一瞬にして火の海と化した。そして、そこには先程迄言葉を交わしていた弾薬員の姿も無く声も無い。
 硝煙の臭いのみが強く鼻をつく。このような舷々相摩す乱戦は更に続けられていった。轟音騒音震動音の中、突如真赤な炎の機銃弾が居住区(砲かく)内に飛び込んで来た。これは正に敵駆逐艦が比叡に対し肉迫、魚雷攻撃中の転舵射撃の乱射であった。敵も中々勇敢である。

 比叡の火災は更に激しく、我が砲台にも消火の為の海水が濁流となって流れ込んできた。その水は血と重油とが混入した一種独特の悪臭がしていた。

 この頃である。艦内の狭い通路を戦闘服を鮮血に染めた兵隊が何やら怒鳴り乍ら艦首の方に走って行くのを見た。その後にこれも鮮血に染まった重傷者が戦友の肩を借り、又或る者は担架で運び出されていった。恐らく戦死者であろうか?この一瞬私の脳裡を何か不吉な予感がかすめていった。「ああこれで、この俺も21才の若き肉体をこの比叡と共に南海の水漬く屍と化すのではないか」と。

 しかしこうした予感も目前の光影にすぐ掻き消された。我が比叡は今尚敵艦隊の集中砲火を浴びつつあった。炸裂音震動音も凄まじい。
 誰が言うともなく操舵室にも命中弾があったとか。その為比叡(本艦)は操舵不能となっていた。艦長は直ちに人力操舵に切り替えるよう命令を下していた。兎に角、早朝になればガ(ガダルカナル)島の敵飛行場から敵機の来襲があるのは明らかである。一刻も早くこの戦場から脱出しなければならない。

 人力操舵への切替え作業は兵員の必死の作業である。それにもかかわらず未だもって修復できないとは。時間は容赦なく進むのみ。ガ島の島影は墨絵のように見えた。今の比叡は敵の湾内において絶体絶命の運命にさらされていた。夜が明ければこの重傷の比叡に対し、敵機は群がる禿鷹のように襲いかかって来るであろう。暗夜の海上では尚も砲声が轟いている。

 私は薄暗い電灯の下でじっと自分の運命に逆らわず耐えていた。それは少年時代、父からよく聞かされていた「軍人としての最後の姿」のことである。
 日清日露の海戦当時、不幸にも自分の艦が沈没に遭遇した時、潔く艦と運命を共にする事であった。勿論、今の私にもそれなりの覚悟は出来ていたが、しかしよく考えてみると何か割り切れない気持ちが心の奥にただよっている。死を恐れているのではないが、無傷の俺が再び戦場に立つことが出来るからかもしれない。

 今の比叡は静寂の中に取り残されている。どこの破孔口から流れ込んでくるのか、海水の音ばかり悪魔が呼んでいるかのように無気味に聞こえてくる。艦は5度程の傾斜を保っている。みんなは無言のままでそれぞれが比叡のなりゆきや、自分の運命はと心配しつつ配置に就いていた。その姿は微動だにもしない。

 この時主計兵が戦闘食(乾パンとミルク)を居住区(砲側)に放り込んでいった。それでもそれを食べようともしなかった。やはり、昨夜来の激しい戦闘と、そして目前の戦友の無惨な死体や、疲労から来る脱力感、修羅場と化した周囲の惨状、血と重油、そして硝煙の臭いなど体験者でなければ理解出来ない。それが食欲減退の原因であったのだろう。今は静かであり、時計の鼓動が時の経過を知らせている。

 さて、この辺で一寸比叡を中心とした日米艦艇乱戦の中で、米艦隊とその乗員の悲惨な光景の一部を、著者相良俊輔氏の書「怒りの海」から引用してみよう。

 比叡の主砲に叩きのめされた「アトランタ」は170名が一挙に屠られ、重軽傷者は300名に達した。

 更に「ジュノー」は700名の乗員のうち400名が戦死した。
 行動不能となった「ラフェイ」の生存者は海中に飛び込んだものの、艦体の爆発で飛散し全員即死したと言う。
 「カッシング」も亦、弾薬庫の誘爆で、数十名の負傷者を残したのみで生存者無しと言う状態であった。
 特に悲惨を極めたのは、我が駆逐艦「夕立」の魚雷攻撃で沈んだ「バートン」の乗員であった。尚隊列の後尾にいた「モンセン」は比叡に5本の魚雷を放ち、果敢な攻撃振りを見せたが、逆に比叡の副砲による集中砲火を浴び反転を計ったが、その時、燃える「バートン」から逃れ、海中に飛び込んだ300余名の真只中に艦首を突っ込んでしまったので、漂流中の「バートン」の乗員の殆どが「モンセン」の舷側で砕かれ、また高速で走る波に巻き込まれた挙句、スクリューで切り刻まれると言う惨状を呈した。
 断末魔の絶叫が海面につんざき、逃げまどう水兵と手足のちぎれた死体が折り重なって悲愴な地獄図の光景を繰り広げたと言う。
 又こうして数百名の仲間を一瞬にしてした「モンセン」も、その直後誘爆を起し、乗員諸共海底に呑み込まれてしまったそうだ。
 この40数分間の戦闘で、米艦隊は12隻を撃沈破され、5千数百名の将兵を失ったのである。
 正に近代海戦における大量殺戮の凄まじさを如実に見せつけたのである。

 ・・・さて、心配していた時刻は無情にも迫って来た。夜が明けると比叡の運命は自分の運命である。一段と深刻な事態を迎えねばならない。居住区内に一層の緊張感が増す。心を改めて覚悟を決める。

 そして朝はしらじらと明けてゆく。昨夜来のスコールも夜明けと共にやんでしまい、すっかり晴れて今朝はうそのような天気である。眼前の「ガ(ガダルカナル)島」は美しい。本当に美しい。こんな美しい島を中心に悲惨な戦闘が、無情にも繰り広げられているとは思えない程である。
 しかし現実には、血みどろの戦いで数多くの将兵が死んでいるのである。愚かにも思えた。一日も早くこんな戦いから逃れたいと念じるのみであった。しかし戦いという歯車は留まる事を拒み、回り続けるのである。

 早朝5時頃と記憶するが、予想通り敵機は航行不能となった比叡に対し、爆撃機と雷撃機をもって攻撃して来た。
 比叡は残存火砲をもって敢然と応戦したが、この時の苦闘する比叡の姿は、痛ましく又壮絶にして悲愴な光景を呈していた。敵機は比叡に止めを刺すべく一波二波と、波状攻撃で襲って来た。
 その度に比叡は蛇行運動を繰り返し、敵機の攻撃から身をかわす。周囲の味方駆逐隊は、対空火砲をもって比叡を守ってくれた。涙が出る程嬉しかった事を覚えている。幸い敵機の技倆は未熟なためか、今の処爆弾も魚雷も命中しなかった。しかし敵機は、質より量で第三波第四波と繰り返し我が砲火の網の目を潜り抜けて攻撃して来た。
 こうして数時間の戦闘が続く中、気分的に多少のゆとりが出て来たのか、空襲の間にも何時、誰とはなしに戦闘食の乾パンやミルクを口に運ぶようになった。そこには笑い声さえ出て来たのである。戦場の心理と言うものはおかしなものである。
 しかし再び対空戦闘が始まると又緊張する。轟音震動の連続の中、遂に爆弾数発と魚雷の命中を受けるに至った。この瞬間、比叡はまるで高級車が壁に激突した時のように、大きく上下左右に踊った。それはあたかも最後の?きにも似た感があった。これで比叡は完全に戦闘不能に陥ったのである。

 この凄愴苛烈な戦闘は10時間の死闘を経過し、正に近代海戦の常識を超えた海戦と聞いている。又この海戦で比叡は敵砲弾だけでも命中弾80発以上、その上来襲敵機70機以上に及んだ。

 さて、戦闘不能となった比叡(11戦隊首脳陣)は、連合艦隊司令部との間で様々な議論を交わしていた。曳航か、放置か、囮りとなるか、味方駆逐艦隊の魚雷で処分するか、であった。

 しかし比叡はこれら全てを拒み続け、最後は自らの手(自沈)で命を絶つことになる。


 そして、ついに時間は定かではないが、生存者に総員退艦の命が下された。戦闘配置を離れた兵員は決められた順に整然と後甲板に集合を始めた。艦内から出てくる兵の姿は皆鮮血に染まり、顔は硝煙で真黒となり、頬は落ち目は窪み別人の如くである。
 さもあろう、昨夜来の戦闘で全神経と体力の限りを消耗し、精神的な打撃は計り知れないものがあった。兎に角、人相の変貌には驚きの声すら出なかった。
 周囲には次々と鮮血に染まった重傷者が運び出されて来るし、その中には爆風で戦闘服は剥ぎ取られ全身大火傷の兵もいた。自分の分隊の者と誰も顔を見ただけでは判別が出来ない。膨れた顔は皆同じ顔である。背中は「リュック」を背負ったように水膨れし、手は指先迄が「ゴム」の手袋をしたようである。従ってこの負傷者の氏名を調べるには褌に書いた氏名で判別したのであった。

 戦友達はこうした兵隊を風が当らぬようにと周りを囲んでいた。しかしこうした兵隊達の殆どは、無気力で人間としての表情も失われ、唯々茫然としている。
 座る事も横になることも忘れている。目は虚ろで或る一点をじっと見つめている。言葉をかけても何の反応もない。正に蝋人形のようである。戦友よ、魂は何処へ行ってしまったのか。せめて痛いとか、苦しいとか言ってくれ。頼む、たのむ。
 昨日迄苦楽を共に語り合った戦友のこの変わり果てた姿を見て、戦争の残酷さと悲惨さをまざまざと見せつけられたものである。本当に涙なくしては語れるものではない。

 退艦は順調に進められている。今尚味方駆逐艦隊は対空戦闘を続行している。私は改めて周囲の惨状を見て愕然とし、自分の目を疑った。それは、主砲はビクともしていないが上甲板以上の構造物(艦橋及び周辺)は大損傷を受けていた。又主砲を除く火砲(副砲、高角砲台、機銃砲台)等の殆どは全滅に等しい惨状を呈していた。

 天を仰いだままの砲もあれば水面、或いは左右を向いたままの無惨な姿である。機銃砲台では残りの弾薬が誘発を起し、時折り「ドカーンドカーン」と爆発している。艦橋周辺は火災のあとも生々しく焦土と化していた。そのあちこちには手足首、上下半身バラバラの戦死者が散乱し、肉片が飛び散りこびりついている。地獄図を見ているような惨状である。

 こうした中にも部下の消息を、或いは上官の消息はと、呼び交う声が痛く哀しく私の耳に入って来る。海上では味方駆逐艦から発進した内火艇が荒波にもまれながらも本艦(比叡)の乗員の救出を続行している。この頃になると、味方駆逐艦も損傷を受けていることがわかってきた。

 生か死かの岐路に立つこの数十分、やっと副砲分隊員の退艦の時が来た。この時、私の心の底に何か言うに言われない淋しさと孤独感が襲って来た。何故か、それは傷つき倒れ死んでいった戦友を置きざりにして戦場を離れる事か?或いは又、例え人間が造った艦(比叡)であろうとも、火達磨となり火を噴き傷つき、共に戦い苦しんだこの艦が一個の鉄の固まりだけとしては考えられない。もっと何か尊い生きものであったような思いがしたのである。

 今一つは私が艦に残してきた私物である。これも何か私の分身に思えた。これらを見捨てて戦場を離れる事に卑怯者か臆病者の様な自分を見た感があり、苦悩したものである。その結果がこうした淋しさに現れたのであろうか。

 さて、比叡の生存者を救出した各駆逐艦は、急速で戦場から離れ北上をしたが、夜間再び元の戦場に戻って来た。その時は比叡の姿は已に海上から消え去っていた。じっと目を閉じると、内火艇で比叡を去る時のあの最後の痛ましい艦影が脳裡に焼きついてなかなか消えようとしなかった。いや、この姿は私が生きている限り消えないであろう。
 今こうして北上を続けている駆逐艦内では、負傷者が手厚い看護の甲斐もなく次々と死んで行く。その亡き骸は礼砲が波間にこだまする中、丁重に南の海に水葬をもって永遠の別れを告げたのである。戦友の面影は何時迄もその波間から消えようとして消えず、私達の後を追って来るかのような錯覚さえ感じられた。

 以上が、第三次ソロモン海戦における私の体験記である。最後に、共に戦ったあの、今は亡き比叡乗組員の御冥福を心からお祈りするとともに、比叡よまた安らかに眠れ。


Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 10月にベースを弾きます。 | TOP | Cafe Roju (東京都八王子市) »
最新の画像もっと見る

post a comment

Recent Entries | 伯父の戦記