伯父の戦記 21 「海辺に立つ片足の兵隊_1」

2006-06-28 | 伯父の戦記



 伯父の戦記の新章です。前回の稿でも書きましたが、今回のお話は今まで掲載してきた伯父の文章と異なり、戦斗場面のものではありません。伯父が太平洋戦争の終盤近くになって、南方戦線で生き抜くために過酷な日常を強いられていた伯父と、名も知らない若い兵隊さんが関わったお話です。
 あの当時の戦地では、たくさんの傷つき、病んだ旧日本軍の兵士の方々がいらっしゃいました。伯父が出会った若い兵隊さんもそのお一人です。

 今回の写真は本文とは直接の関係はありません。母が所持している古い写真の中にあった一枚です。看護士(婦)さんの制服を着ていらっしゃるようですが、いつ撮られたものなのか、写っているのがどなたなのかもわかりません。母は日本赤十字社の看護学校に通っていたため、その学校の制服なのでしょうか。写真の状態などからは戦前のもののようですが、今となっては残念ながら詳細が解りません。

 お願い:今回の稿は連載形式を採ったものになっています。私のブログを初めてご覧いただく方は、このブログの左側のメニュー中のカテゴリーに「伯父の戦記」があります。そちらをご参照いただいたうえでこの稿をご覧いただければ幸いです。


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 時は昭和19年中頃、当「カビエン」地区も、今では敵の包囲網の中で孤立状態となり、内地からの輸送も完全に途絶えた。
 そのため、現在では部隊の編成替えを行い、迎撃体制に入る。
  (1)海岸線における水際戦斗準備
   (2)落下傘部隊に対する攻撃戦法
   (3)対戦車肉薄攻撃の訓練
   (4)夜間斬り込み隊の訓練
 等が伝達されていた。
 又、食糧の調達の欠乏等により兵達の体力は日増しに衰え、南方特有の病魔「マラリヤ」、「赤痢」、「熱帯潰瘍」等に苦しむ。薬も無く、介護の甲斐なく他界していく者続出。
 その対策として自活の道を求め、戦斗の合間を見ては食糧となる「甘藷」、「タピオカ」、「サクサク澱粉」、「塩」等の生産の発令あり。又、自らも生命の維持に努める。
 しかし、その農耕地等も敵機は容赦なく爆撃して行く。その被害は甚大であるばかりでなく、兵達の農耕作業に対する意欲も欠くことしばしば。そのためか食糧の確保も満足に得られず、空腹を抱えている。体力のある者は食するものを求め、東奔西走する日々が続く。
 今日もまた昨晩爆撃のあったジャングルに入る。そこには小鳥の他「コーモリ」、小動物等が爆死している。これ等は現在の自分たちには大きな栄養源となる宝物である。しかし今は足を棒にして探すも収穫は皆無であった。時折り野鳥の鋭い声で自分の現在地を確認しつつ歩を早める。
 突然静寂を破る爆発音がした。この爆発音は云う迄もなく、戦死者、或いは病魔に倒れ我が身の対処に苦しみ、自らの生命を絶った淋しくも悲しい心痛玉音である。
 又、ある兵は、椰子の実に短剣を刺したものの割ることもできず力尽き、そのまま息絶えていた。
 こうした情景を目にするも現在の自分たちは動揺もせず、人間としての何の感情も湧かず、尊い精神も崩壊していたのである。唯々これ等を無視しつつ食する物を求め歩き続けるのが日課になっている。
 ジャングルを這うように進む。そして何時しか潮の香りが鼻をつく。波の音がする。海だ、海だ。足は軽く弾むように浜辺に向かっていた。(以下、続く)
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