○ AERA(2004.8.16,23号)の岩井氏の記事について
皇室に関する記事を読んでいると,客観的な評論を装っているような場合でも、皇室に対するスタンスによって,既に内容が決まってしまっていることが多い。
このことは,決しておかしいというわけではない。
象徴という地位にある皇室については,その存在意義は,主観的な価値観で考えざるをえないからだ。
ただ,AERA(2004.8.16,23号)の岩井氏の記事については,一見して,その意図がつかみにくい。一つには「無媒介」という,よく分からない概念を用いていることであり,また,全体のトーンとしては,皇太子殿下に対して,敢えて愛の鞭をふるっているようにも見えるからだ。
しかし,じっくりと読んでみると,独特な戦略的意図を伺うことができ,うっかり,なかなか深みのある記事だなと思ってしまうと,妙な方向に誘導されるかのような恐れがなくもない。これは危ないのではないか。そこで,若干の批判を述べることとする。
まず,記事中の「無媒介」という概念は,例えばAという事実はAという事実を裏付ける関係性(Aの世界)において存在しており,Bという事実はBという事実を裏付ける関係性(Bの世界)において存在しているのであって,AとBとを単純に並べ,Aの世界とBの世界とを同一視するのはおかしいということのようである。そして,皇太子殿下に対しては,要するに公の世界と私の世界とを混在させてしまっており,どちらかというと「私」に手一杯である。公の世界についての自覚がなく,公的存在としては,何だかよく分からない人であるということを言いたいらしい。
しかし,このような批判は,フェアではないであろう。
記事中にも,芹沢俊介氏の「しかし,象徴化されて存在そのものが『私』であるとともに『公』である皇室の人たちや外交官にはリアリティーがある」という文章が引用されているが,開かれた皇室論をやかましく言い,本来私的な領域についてまでも,公的存在の論理で土足で踏み込んでいったのは,メディアである。そして,一方でまた,「天皇ご夫妻」という表現にみられるように,皇室に対して用いられるべき敬語を避け,公的存在感を薄めていったのもメディアである。朝日新聞などは,その代表格である。
そのような状況にある中で,公の世界と私の世界との区別,公的存在としての自覚の必要性を主張し,殿下を一方的に評価するのはフェアではない。少なくとも,メディアにその資格はないのではないだろうか。
また,この記事においては,「皇太子の登山には十数回ついて行った。印象に残っているのは,いつも山頂で,ヒマラヤの高峰について語る時の,はるか高く遠くを見る目だ」という記述があり,その直後の記述と合わせて,いかにも地に足のついていないような,理想を夢見てばかりいるかのような印象を与えているのであるが,山頂に登れば誰でも遠くを眺めるのは当たり前ではないだろうか。明らかに作為的なイメージ作りである。また,数多くの業績を上げながらも身軽な警備のシリントン王女と物々しい警備に囲まれた皇太子殿下とを対比させ,お金がかかっていながら何もできない無能な存在という印象を作り出しているが,身軽に移動できないということは,殿下に責任のある話ではなく,殿下の能力とも関係がないはずである。
こうして見てみると,決して愛の鞭なのではなく,かなり意図的に,皇太子殿下を攻撃するものであるということが,明らかになってくる。
5月10日の皇太子殿下の記者会見以来,皇太子殿下については,様々な批判も行われるようになってきた。そのような状況の中,将来天皇となられる存在である皇太子殿下の支持をなくさせるように図ることは,皇室の消滅を図る上では極めて効果的であると,そのような戦略的意図が垣間見えるような気がしてならない。
皇室に関する記事を読んでいると,客観的な評論を装っているような場合でも、皇室に対するスタンスによって,既に内容が決まってしまっていることが多い。
このことは,決しておかしいというわけではない。
象徴という地位にある皇室については,その存在意義は,主観的な価値観で考えざるをえないからだ。
ただ,AERA(2004.8.16,23号)の岩井氏の記事については,一見して,その意図がつかみにくい。一つには「無媒介」という,よく分からない概念を用いていることであり,また,全体のトーンとしては,皇太子殿下に対して,敢えて愛の鞭をふるっているようにも見えるからだ。
しかし,じっくりと読んでみると,独特な戦略的意図を伺うことができ,うっかり,なかなか深みのある記事だなと思ってしまうと,妙な方向に誘導されるかのような恐れがなくもない。これは危ないのではないか。そこで,若干の批判を述べることとする。
まず,記事中の「無媒介」という概念は,例えばAという事実はAという事実を裏付ける関係性(Aの世界)において存在しており,Bという事実はBという事実を裏付ける関係性(Bの世界)において存在しているのであって,AとBとを単純に並べ,Aの世界とBの世界とを同一視するのはおかしいということのようである。そして,皇太子殿下に対しては,要するに公の世界と私の世界とを混在させてしまっており,どちらかというと「私」に手一杯である。公の世界についての自覚がなく,公的存在としては,何だかよく分からない人であるということを言いたいらしい。
しかし,このような批判は,フェアではないであろう。
記事中にも,芹沢俊介氏の「しかし,象徴化されて存在そのものが『私』であるとともに『公』である皇室の人たちや外交官にはリアリティーがある」という文章が引用されているが,開かれた皇室論をやかましく言い,本来私的な領域についてまでも,公的存在の論理で土足で踏み込んでいったのは,メディアである。そして,一方でまた,「天皇ご夫妻」という表現にみられるように,皇室に対して用いられるべき敬語を避け,公的存在感を薄めていったのもメディアである。朝日新聞などは,その代表格である。
そのような状況にある中で,公の世界と私の世界との区別,公的存在としての自覚の必要性を主張し,殿下を一方的に評価するのはフェアではない。少なくとも,メディアにその資格はないのではないだろうか。
また,この記事においては,「皇太子の登山には十数回ついて行った。印象に残っているのは,いつも山頂で,ヒマラヤの高峰について語る時の,はるか高く遠くを見る目だ」という記述があり,その直後の記述と合わせて,いかにも地に足のついていないような,理想を夢見てばかりいるかのような印象を与えているのであるが,山頂に登れば誰でも遠くを眺めるのは当たり前ではないだろうか。明らかに作為的なイメージ作りである。また,数多くの業績を上げながらも身軽な警備のシリントン王女と物々しい警備に囲まれた皇太子殿下とを対比させ,お金がかかっていながら何もできない無能な存在という印象を作り出しているが,身軽に移動できないということは,殿下に責任のある話ではなく,殿下の能力とも関係がないはずである。
こうして見てみると,決して愛の鞭なのではなく,かなり意図的に,皇太子殿下を攻撃するものであるということが,明らかになってくる。
5月10日の皇太子殿下の記者会見以来,皇太子殿下については,様々な批判も行われるようになってきた。そのような状況の中,将来天皇となられる存在である皇太子殿下の支持をなくさせるように図ることは,皇室の消滅を図る上では極めて効果的であると,そのような戦略的意図が垣間見えるような気がしてならない。