新しい風を 起こそう!   ~日本をよい国に~

一人ひとりの願いを大きな風に変えて・・・
今 動き出そう!



 

技量 と 器量

2010-05-25 07:30:12 | 日記
「百論をひとつに止めるの器量なき者は謹み惧れて匠長の座を去れ」


西岡常一氏。
法隆寺を復興した最後の宮大工。
代々伝わる法隆寺大工の口伝。
そのひとつがこれだ。

“工人や職人の意見を一つにまとめられなかったら棟梁を辞めよ”
ということだ。
大工というプロ集団。
様々な技量、様々なこだわり、そして自信と誇り。
それらを一つにまとめあげるのが、上に立つ者の役割。
責任逃れしたり、他の人のせいにするのは、もってのほかだ。
一つにまとめる器量のないものは、誰に言われるまでもなく、自らやめろ、との口伝。
腕がいい。計算ができる。素晴らしいものを作り上げることができる。
それだけでは足りない、という。
その技量があって、さらに職人たちへの思いやりと、心をまとめる器量が棟梁には必要なのだ。

会社や組織のリーダーにも言えるだろう。
ましてや国のリーダーには。

技量だけでなく、上に立つ者としての器量・・・それがなき者は謹み惧れて長の座を去れ。
今の日本の状況を考えてみる。
どこからか、西岡棟梁の声が聞こえるような気がした。
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品格 ふれあい 心の時代

2010-05-24 07:27:50 | 日記
品格
ふれあい
こころの時代


ある人が言った。
「最近多用されている言葉です。なぜよく使われるか分かりますか?」

品格本が流行り、あちこちで“品格”の文字を見かけるようになった。
“ふれあい広場”“ふれあいコンサート”あちらでもこちらでも“ふれあい”状態。
「現代は心の時代だ」「心を大切に」「心の教育を・・・」そんな言葉もよく聞く。

“品格”も“ふれあい”も“心”も大切なものだ。
大切なものを頻繁に言葉にすることは悪いことではない。
ただ、“なぜ、頻繁に使われるのか”という背景は考えねばならない。

「なぜ多用されるか?それは、それができていない、なされていない社会だからです。」
続けてこんなことを仰った。
「こころの時代と言い始めたのはいつごろでしょうか。最近のこと?いえ、私が思い出せる限りでは、もう40年も前から言い続けているように思います」

40年間、言い続けている。大切だと思い続けている。そんな社会を求め続けている。
願うことは大切。
求めることも大切。
口にだすことも大切。

でも、もっと大切なことは“実行すること”
本気でやらねば変わらない。
思いと、言葉と、行いが一致することが大切なのだ。



  昔は、“品格”って言葉が流行ったんだってね。
  ずいぶん当たり前のことが、言われていたんだね。

そんな風に、昔を懐かしむ“品格のある未来”は来るだろうか。
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古本屋

2010-05-23 08:23:47 | 日記
小さな古本屋にぶらりと入る。
背表紙を眺めるのが好きだ。
ときどき背表紙がこちらを見ている気がする。目が合うのだ。

一冊の本を手にとった。
何気なく開いてみたページ。

そこに書かれていた一節。

「人間性の尊重とは、具体的には、言い表そうと思っていても、容易に表現できないでいるその沈黙状態への愛だといってよかろう。あるいは、その人が口に出して言った言葉だけでなく、その言葉を通して、言い表そうと悶えている心情への、鋭敏な感受性だといってもよかろう。ここに生ずる様々なニュアンスを私は尊重したい。ニュアンスを抹殺するのが、人間性の冒涜ということではあるまいか。」

亀井勝一郎氏のことば。

じっと聞く。言葉だけでなく、その人の内に悶えている心情まで。
それが、目の前にいる人への尊重ということだ。

人間性の尊重。人間性の冒涜。
今、世の中で行われていることは、どちらが多いのだろうか。

手にとった一冊。
書棚には戻さず、レジに向かった。

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命がけの志

2010-05-21 07:35:04 | 日記
“命を忘れて法を弘むる志、ひとえに利益衆生のためなり”
真如親王・・・命がけで、人々の幸せを求めた人。



鶴岡八幡宮の銀杏が倒れてしまったニュースを覚えておられるだろう。
鶴岡八幡宮といえば、源実朝。暗殺の地。
歴史で教わるのは、このような事件や出来事。
“そのあと、残された実朝の妻は・・・”ということまでは習わない。
いや少しは習ったのかもしれないが、私には記憶のかけらもない。
最近ようやく、試験のための学びでなく、人生を豊かにするための学びの意味、面白みが少しずつわかってきた。
その中で出会ったのが、実朝の妻。

実朝の妻は、夫を亡くした後、尼僧になった。
そして、80歳になったときに遺言を書いた。
 「戒律を守ること。そして三論宗を学ぶこと」
いろんな宗派が有る中で、なぜ三論宗を選んだか。
それは、真如親王が学んでいたから。
真如親王は、もともと皇太子であったが、訳あって東大寺の僧侶になり、空海の弟子にもなった。
正しい仏法を求めて、中国へ、そしてインドへと向かった。
仏法を求めてインドに渡ろうとした最初の日本人である。
それが、人々の幸福につながると信じ、命がけの行動であった。

その生きざまを尊敬し、敬愛したのが、尼僧となった実朝の妻であった。
   “命を忘れて法を弘むる志、ひとえに利益衆生のためなり”
その生きざまを、自身も求め続けたのであろう。
そして、素晴らしい尼僧としての道を貫いた。

日本の歴史の中には、命がけで人々の幸福を求めようと行動を起こした人がいた。
その生きざまを尊敬し、大切にし、生きる指針とした人もいた。

いろんな生きざまがある。
日本の歴史の中に、まだまだ素晴らしい“志の人”がたくさんいるに違いない。
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切なさの理由(わけ)

2010-05-20 16:35:39 | 日記
目覚まし時計の乾電池がきれた。
近くのスーパーに買いに行った。

高齢のご夫婦が買い物をされていた。
持ち切れないほどの大量の食料品を買われた。

“どうやって持って帰るのかな?”
気になった。

車で来られているらしい。
荷物を車まで運ぶお手伝いをした。

おじいちゃんが運転。
おばあちゃんが助手席。
仲良さそうに乗り込まれた。

発進後まもなく、小さな子供が車の前を通りすぎようとした。
“危ない!”
間一髪のところで、車は止まった。

若い人ならば、難なくすぐに止まれる距離だった。
でも、高齢のおじいちゃんには・・・
とにかく事故が起きなくて良かった。



おじいちゃんとおばあちゃん。
二人暮らしなのかな。
近くに買い物のできるところがないのかな。
車の運転・・・危なそうだからやめた方がいいのにな。
でも、自分たちで運転して、買い物しなきゃ生活できないんだろうな。
重い荷物も大変だろうな。
車の運転も大変だろうな。
便利な世の中になったようで、本当は二人にとっては不便なんだろうな。

帰宅途中の車の中・・・何だか切なくなった。
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