新しい風を 起こそう!   ~日本をよい国に~

一人ひとりの願いを大きな風に変えて・・・
今 動き出そう!



 

“膝をくっつける”自由

2010-11-27 09:07:15 | 日記
電車に乗り、座席に腰掛けた。
ふと前を見ると、向かい側に座っているのが全員女性だった。

高校生もいる。
これから仕事に向かうであろう人もいる。
高齢の人もいる。

みんないろんなことをしている。

お化粧をするひと。
携帯電話を眺めるひと。
音楽を聞いているひと。
眠っているひと。

一つ共通点があった。
みんな膝がゆるんでいる。
膝をくっつけて座る人がいない。
背中を丸めながら、膝を力なくゆるめて座っている。




『武士の娘』(杉本鉞子著)の一節を思い出した。

“武士の娘は眠っている時でさえも、身も心もひきしめていなければならないと教えられたものでございます。・・・女の子は必ず穏やかな中にも威厳をそなえた「き」の字なりにさせられました。”

“お稽古の2時間のあいだ、お師匠さまは手と唇を動かすほかは、身動き一つなさいませんでした。私もまた、畳の上に正しく坐ったまま、微動だもゆるされなかったものでございます”

“居心地よくしては天来の力を心に受けることができないということになっていました”




座り方、眠り方、歩き方。
人それぞれの自由?
もちろん自由であろう。
でも自由の中に潜むものを知っておかねばならない。

たびたび自由の中に潜む魔物が私を襲う。
甘ったれた心が魔物を呼び寄せる。

“自らを鍛錬すること。そのことによって得られる精神の練磨”
それを選ぶ自由もある。

“膝をくっつけて端正に座る”自由。
そんな自由を当たり前に選べる女性でありたいものだ。
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たらこスパゲティ

2010-11-24 22:18:15 | 日記
「たらこスパゲティあるんか?」「えっ!ない?」「ここスパゲティ屋やろ?」「たらこスパゲティもないんか?」「たいした店とちゃうな!」「もうええわ 帰るわ!」

ある年配の男性が怒鳴り口調で店員に話しかけていた。
結局、その男性は何も注文せず、出て行った。
よほど、たらこスパゲティが食べたかったのだろうか。
それにしても、そんなにも怒らなくていいのに・・・。

そのお店は、現地の味、本場のメニューにこだわったイタリア料理店だ。
それがお店の売りであり、それを楽しみにくるお客さんも多い。
残念ながら、たらこスパゲティはメニューになかった。

男性が“たいした店とちゃうな!”と言った瞬間、他のお客さんに嘲笑の空気が流れた。
“本物のパスタの味、イタリア料理を知らない人だな・・・”
と言った風だった。

ゴルゴンゾーラ
ペスカトーレ
フェデリーニ
等の言葉が並ぶメニュー。

“たらこスパゲティがないスパゲティ屋なんて、たいした店でない”と判断した男性。
えらぶって、店を見下して、怒って出ていってしまった男性。
他のお客さんは、その態度に気分を害したと同時に、嘲笑もしていた。



ちょっと自分を振り返った。
こんなことって・・・私にも・・・あるかもしれないな?

知らないがゆえに、何かを批判したり、勝手に駄目だと判断したり、相手が何も悪くないのに怒ってみたり・・・
自分の無知に気づきもせず、自分が正しいと思ってみたり・・・

物事の判断は、いつも“今の自分の尺度”で行うもの。
尺度は本当に正しいの?
もっと違う尺度もあるのかも・・・?





何だか無性にたらこスパゲティが食べたくなった。


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新嘗祭

2010-11-23 09:12:14 | 日記
11月23日 「新嘗祭」
  天皇陛下が神さまにその年の新米をお供えになり
  祝詞をあげ
  神さまのエネルギーのこもったお供物を
  神さまといっしょに食されるお祭り



天孫降臨のときに、天照大神が“斎庭の稲穂”をニニギノミコトに渡されました。
 “国民を飢えさせてはなりませんよ。これで民の命をつなぐのですよ。任せましたよ”

日本書紀に書かれたこの一節。
これが、日本の農業の原点でもあるといいます。
神話の時代からお米を大切にし、国民の命を保ち、国民の幸せを祈ってきた・・・日本。



薬師寺の高田好胤師は、生前こんなことを仰っていたそうです。
「陛下は11月23日に初めて新米をお食べになる。陛下より先に新米を食べたら罰が当たる」

神嘗祭も新嘗祭も知らない頃は、何も考えずお米をいただいていました。
知ったからこそ、湧き上がる“感謝”の心があります。
知ったからこそ、できる行動があります。

私も、今日ようやく新米の袋を開けました。
ありがたく食事をいただけることに、心から感謝して・・・「いただきます」
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儚いこだわり

2010-11-22 19:00:31 | 日記
子供のころ、大切にしていたもの。
  お気に入りの絵本
  手触りのよいぬいぐるみ
  精一杯のおしゃれの日にはく靴

でも少し成長すると、それらは子供っぽくて、自分に似合わないものに思えてくる。

成長し、大人になり、歳を重ね・・・
私たちは、どんどん価値観が変化しながら生きてきたことに気付く。

こだわり。
執着。

歳を重ねても、なかなか“こだわり”の心はなくならない。
でも・・・
  “こだわり”は、永遠ではない。
  “こだわり”は、いつか変化し、いつか消える。
  “こだわり”は、自分の心がつくりだしているだけの儚いもの。
それが、分かるようになる。

そして、変化してしまう“こだわり”と、本当にこだわり続けなければならない大切なものが、歳を重ねることで見えてくるのだと思う。

90歳を超える飄々と生きる人に出会った。
本当に大切なものだけを、そっと胸に抱きながら生きる・・・
いらないものが自然に削ぎ落とされた美しさ。

こだわりを滅するのではない。
こだわりを削ぎ落とし、凝縮させ、人間として大切な“こだわり”だけを、そっと抱いているのだ。

歳を重ねるとは、素敵なことだ。

コメント (2)
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従兄弟の死

2010-11-14 10:10:29 | 日記
叔母が泣きじゃくる姿が今も脳裏にやきついている・・・

従兄弟が亡くなった日のこと。
私がまだ子供の頃の記憶だ。

まだ立ち上がることも話すこともできない幼い命。
その命の火が消えた。

ようやく授かった子供を失った母親の悲しみ。
それは子供だった私の心にも突き刺さるように伝わってきた。


  ※ ※ ※ ※


奈良時代。
聖武天皇と光明皇后の間に生まれた基親王。
一歳の誕生日をむかえることなく薨去された。

その悲しみの大きさ・・・深さ・・・

東大寺の歴史の第一歩。
それは聖武天皇がわが子の菩提を弔うための御心から始まったと言われる。

幼い命が失われる。
それは昔も今も辛く悲しいできごとだ。
“なぜ、なんのためにこの世に生を享けたのか”
“生まれてきた意味はあったのか”

立つことも歩くことも話すこともできないまま、この世の命を終える。
彼らは社会のために役立つことはなかったのだろうか?

私はそうは思わない。
基親王が生まれ、そして幼い命を精一杯輝かせて亡くなった。
その命の輝き、輝いた命が早過ぎる死を迎えたことによって、今、私達は毘盧遮那仏を拝することができるのだと思う。
その命にも、その死にも意味があった。

今年、基親王のご命日にお墓参りに行った。
どんぐりや松ぼっくりを拾ってお供えした。
“生まれてきてくれてありがとう。”
静かに手を合わせ、幼い命を思った。


  ※ ※ ※ ※


私の従兄弟も、きっと生まれてきた意味がある。
まるで桜の花のように儚い命だったけれど・・・
この世での命は輝いていたに違いない。
すべての命・・・授かったことに意味がある。
生きとし生けるもの、すべての命が輝いている。

そう、今目の前にある、すべて。
この地球に広がる様々な命。
すべての命は輝いている。
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