ーー ナンジャラホイ 中華思想 ーー
唐土にない「中華思想」が、列島で人々に語られているのは、 日本に思想らしきものが無い為に、「中華思想」を借用してる 事を意味する。
ーー 正体不明の 中華思想 ーー
ーー 中華の原点 ー「華夏」 ーー
ーー 人はなぜ歴史を偽造する ーー
ーー 国破れて 山河在り ーー
ーー 論語読みの 論語知らずで、日本人は「中華思想」
を知らずに、言葉を弄んでいる ーー
ーー そして、恥を晒している事ですら知らない、
哀れ,としか言いようが無い。 ーー
ナンジャラホイ、という日本語がある、が、日本人に意味するところを聞いても、うまく説明出来る人はまず居ない。それは歌の囃子(はやし) だから, これと言った意味はない、という答えをするのが精一杯のようである。
試しに辞書をめくってみたが、ナンジャラホイという言葉はどこにも出ていない。所が、「ナンジャラホイ」をウエブで検索した際、なんと、約 13,500,000件 の厖大なる記事が掲載されていた。
つまり、昔も今も、ウエブの辞書には、ナンジャラホイという言葉の解説はなく、ただ、記事だけが沢山掲載されているだけだという事になる。
ところが意外にも、その「ナンジャラホイ」という文句に、深長なる意味が込められていると云う人が居る。
日本人とユダヤ人は同じ民族だという日ユ同祖説がある。それも一つだけでなしに複数の説がある。その中の一つである、牧師、ヘブル語研究家 川守田英二という人の説によると、ナンジャラホイはヘブライ語でちゃんとした意味があると云う。
彼の説によると、日本人は確かにユダヤ人で、その証拠に祭りの囃子 言葉などはすべてヘブライ語なのだそうだ。
《《 たとえば 「ヤートセー」は「ヤホバ放棄せり、敵を」だし、「ヨー イヤナ」は「エホバ祈りに応えませり」で、「ナンジャラホイ」は 「天子をエホバは守りたまえり」なのだそうだ 》》
そういわれても、たいていの日本人は困ってしまうだろうが、時々、 膝を叩いて 「そうだったのか!」と叫ぶ人がいるから、なお困って しまう。まことにもって、ナンジャラホイ である。
昨今の日本列島で、「白髪三千丈」と並んで、「中華思想」という文句が流行り言葉になっている。所が、皮肉な事に、列島で「中華思想」だと言って、「中華」の名を冠しているのに、肝腎の本家の中国には「中華思想」という言葉が無い。
「ナンジャラホイ」は日本語だが、日本語で解釈出来ない、ヘブライ語でなら、ちゃんとした意味を持つ、と言うのに似たようなもので、唐土にはない「中華思想」が、列島にある。困った話である。それで、列島で流行語となっている「中華思想」について、一寸語ってみたいと思った次第。
ウエブで、試しに「大和思想」を検索してみると、14、600、000 件 と結構多いが、それについて語る ブログ は 僅かの 8 件 しかない。
一方、「中華思想」を検索してみると、ウエブ記は、1、260、000 件で 大和思想の十分の一以下だが、ブログ記事はその六百倍弱の4、672 件もある。このような極端な数字の違いは何を物語っているのだろうか。 なぜ、大和語らずに、中華を語る。
恐らく、自分の事よりも、他人の事が気になって仕様がないという列島の「お節介」性格の具体的は表れであろうと思われる。
更に、少なからず意外に思ったのは、ウエブに「辞書」という欄があるので、各々の「思想」の定義の違いを、「辞書」欄で検索してみたところ、定義が出ているのは「中華思想」だけで、「大和思想」には一切定義が出て居ない。
すると、中華やら、大和やら、それらの「思想」の中身はただ一つしかない、という事になるのかも知れない。
又、この外に興味をそそるのは、大和と 中華 を抱き合わせた「大和の中華思想」という記事が 240、000 件あるという事である。
列島と唐土、この二つの異なる国の名前を併記した「思想」は、果たして何を意味するものであろうか。しかし、記事はあるが、これもウエブ辞書に定義は出ていない。
以上のように、列島の人々は、自国の「大和思想」よりも、他国の「中華思想」に強い興味を持っている事が、はっきりと、ウエブや、数字や辞書に出ている。
列島に、「中華ラーメン」と名乗っている汁そばがある。使っているお椀、麺、チャーシュー、豚骨スープなどは紛れも無く「中華」だが、 僅かに 鳴門 や やきのりなどの「大和」を申し訳程度に入れて、形ばかり、中華と大和のちゃんぽんになっている。このような ラーメンは中国に無い。
つまり、日本で「中華」と名乗っても、それは必ずしも純然たる「中華」を意味する事にはならない、というのが実像である。この実像は、勿論、「中華思想」の場合にも、そのまま当て嵌まるものと思われる。
以上の基本概念を踏まえて、列島に於ける「中華思想」の味を逐次吟味して行きたい。
ーー 「華夏」の意味 は 山 と 河
古い昔、中国の呼称は夏、華、あるいは華夏と云はれていた。これが元になって、後日、「中華」という名称が生まれることになる。
この「華夏」について、日本辞書の解釈は、次のようになっている。
「華」は、花、はなやか、文化のはなやか、などの意。
「夏」は、大きい、盛ん、などの意。
従い、「華夏」というのは、中国人が自国を誇っていう語である、としている。
このような解釈は、感覚的な、文化意識というものを重点に置いているもので、本場中国版の解説とかなり違う。ラーメンに例えると、醤油スープと豚骨スープほどに違う。
中国の有名な文人魯迅が師と仰ぐ国学者章柄麟又の名を章太炎ともいう学者は、「中華民国解」という権威著書の中で、次のように「華夏」を解説している。 (原文は漢文、仁目が日本語に訳した)
「 我が国の民族は古く、雍、梁二州 (今の陝西、甘粛及び四川
一帯)の地に居住して居た。東南が華陰で、東北が華陽、すな
わち華山を以って限界を定め,その国土の名を「華」と曰
く。その後、人跡の到る所九州に遍 (行人偏)(あまね)き、華
の名、始めて広がる。華は本来国の名であって、種族の号で
はなかった。
「夏」という名は、実は夏水 (河の名前)に因って得たるもの
なり、雍と梁の際(まじは)りにあり、水に因って族を名付け
たもので、邦国の号に非らず。漢家の建国は、漢中(地名)に
受封されたときに始まる。(漢中は)夏水に於いては同地であ
り、華陽に於いては同州となる故、通称として用いるように
なった。本名(華夏)ともうまく符合している。従い、華と云
うのも、夏と云うのも、漢と云うのも、そのうちどの一つの
名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。
漢という名を以って族を表している、と同時に、国家の意味
にもなる。又、華という名を国に付けたと同時に、種族の意
味にも使はれているのはそのためである 」
(原文は漢文、日本語は仁目訳)。
以上の如く、太炎文録の記載説明に依れば、「華夏」の華は華山という山の名前、夏は夏水という河の名前から由来したことになる。つまり、意識的な思想の裏付けのない、単なる地理上の概念から「華夏」の名称が生まれたものになる。
振り返って古代を考えると、人間の定着する所は山や河のある土地に決まっていた。山河という自然の地理条件は、人類を含む動物の生存に欠かすことの出来ない必須条件であるが、思想は生存の必需品ではない。だから、人類の歴史は、地理上の概念が常に思想より遥かに先行し、発達していた。
黄河は、その大河の中流流域にある黄土台地の黄土を侵蝕して流れる水が常に黄色い色をしているので、「黄河」という名が付けられ、その北側の地域が「河北」、南側が「河南」と称されるようになった。中国最長の河は「長江」という。長いからである。昔の人は、このように、呆気ないほどに素朴単純であった。
「国破れて山河あり」という、人口に膾炙している古い文句がある。「国破れて思想あり」という言い方はしていない。華、あるいは夏、という名前は矢張り「山」と「河」から取ったものだと見るのが妥当であろう。
ーー 日本語「中華思想」の意味は、
島国人、百人百色 の 空想妄想 ーー
従来、日本の一般の辞書は、「中国」あるいは「中華」を拡大解釈して、「世界のまん中の国」という中国人の自称であるとしているのが結構多い。「まん中の国」、略して「中国」という解釈は成り立つ。問題は、「世界の中心」という部分はどこから割り出して来たのか大いに疑問が残る。もともと、中国という国は、古い昔から、自分で一つの世界を作り上げ、自分以外の別世界にはさ程関心を持っていなかった。
「漢字文化圏」というのがある。漢字の出現から三千余年、儒教思想の出現から二千余年が経った今日、この漢字文化圏という文化地域の範囲を見てみると、アジア、しかもその一隅である極東の日本、韓国、東南亜の台湾、越南辺りから一歩も外に出たことがない。二千年弱のキリスト文明が、今日全世界の隅々にまで浸透している状態と比較すれば、漢字文化圏というのは全く取るに足らない程の辺境文化圏でしかない。このように見て来ると、
「中国が世界の中心であり、その文化、思想が
最も価値のあるものであると自負する考え方」
であるとする日本語解釈の根拠が何処にあるか、大なる疑問が生じて来る。恐らく、単なる空想妄想であろう。
ーー 正体不明 の 中華思想 ーー
「中華思想」という単語は、誰が生んだでしよう?という質問がウエブに出て、それに対する回答が二つ載っている。一つが「ベスト回答」で、今一つは「その他回答」となっている。
所が、ベストに選ばれた回答は出だしに下記のような断りが付いている;
《 「中華思想」という単語や、その世界観について広めた切っ掛けは、もちろん確信はありませんが、1793年(乾隆58年)に、イギリス特使として清の乾隆帝に拝謁した「マカートニー」ではないでしょうか、、、、、 》
回答者自身が、最初から、「もちろん確信はない」、「、、、、ではないでしようか」と断わっている回答がベストになるのは全然可笑しい。 況して、イギリス人を生みの親にしている、荒唐無稽な内容、 何で、ベスト回答 ? 、、、、、 ふざけも良いところ。
それで、今一つの「その他回答」を見てみる。それは下記のような 内容であった; (要約)。
《《 元々、「中華」という言葉は、中国人が自民族の事を指す「夏華」( 華夏 ) という言葉が、詩経の中で用いられた地理的中心という意味の「中国」という言葉と結びついて出来たもの。
中国には「中華」という言葉はありますが「中華思想」という言葉はなく、中国人には「華夷思想」と言い直さなければ通じません。
「中華思想」という言葉は、主に日本でのみ用いられ、欧米でも殆ど用いられない言葉ですので、日本で作られた造語でしょう。
誰が作り出した言葉かというのは明確には分かりませんが、「中華思想」という言葉が成立したのは明治以後のことでしょう。
日本で「中華」という言葉が大きな問題になったのは、「中華民国」が成立したときの事で、この時、大日本帝国は「中華」という言葉に反発して、中華民国という国号を一時認めませんでした。
そのとき、日本側は中華民国に対して以下のように述べていて、ここで「中華思想」という言葉が出てきます。
「中国従来の中華思想を反映したものであるが、中国を華とし外国を夷と見下すに等しい国号は国際上、列国に対して失礼、不敬となる恐れがある。従って別の適当な国号に改称するのが穏当である」
従って、中華思想という言葉は、日本において19世紀後半~20世紀初頭までに日本の知識人の誰かによって作られた造語という事になると思います。
福沢諭吉が脱亜入欧を主張し、儒教批判をしていることから、福沢諭吉と近い思想傾向の人間によって作られた言葉である可能性はあります 》》
上述の二つの回答は、明らかに、二つ目の「その他回答」が、正解であるのに、一つ目の、イギリス人を生みの親にしている、荒唐無稽な回答が、ベスト回答になっている、なぜ ?
イギリス人を生みの親にしているのは、「中華思想」論に「箔 はくを付ける」、つまり、重みを加える、貫禄をつける為 だとしか考えられない。
先の対米戦争で、軍部は、先ず、「鬼畜米英」の洗脳から始めた。米英人は鬼畜ではない。が、当時、実際に、米英人を知っている日本人は、殆んど居なかった、だから、洗脳出来る。桃太郎物語を好む衆愚は、鬼退治に躍起となり、あとからあとからと太平洋に飛び込んだ。
「中華思想」は、明らかに、日本人の造語である。それに、中国人は自大であるという意味を持たせている。
梅棹忠夫は 「文明の生態史観」の中で、次のように語っている。
《《 「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。ほんとうの文化は、どこかほかのところで作られるものであって、自分のところは、なんとなく劣っているという意識である。
おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうと思う。」 》》
つまり、自分自身の文化を展開出来たのが「中華」で、その一大文明の辺境諸民族のひとつ、というのは「日本」という事になる訳で、そこから「劣等感」が生まれ、その僻みで、中国への嫌がらせに利用する為に、「中華思想」の日本版をデッチげたものであろう。 米英を鬼畜に仕立てたのと、異曲同工の、巧な「職人日本芸」とも言える。
という訳で、世界広しと言えど、「中華思想」を云々しているのは、日本人だけで、「孤掌鳴らし難し」の諺があるように、日本の一人芝居だけでは、鳴らしようがないので、「中華思想」を英語の「sinocenterism」に結び付けている。が、残念な事に、これは、語学音痴の見当違いに終わるようである。
英語ウエブサイト wikipedia の「Sinocentrism」記事を見ると、概要 と 文脈 が次のように出ている。
Overview and context
Depending on the historical context, Sinocentrism can refer to either the ethnocentrism of the Han society and culture, or the modern concept of zhonghua minzu. popular among the Chinese elites up to the final demise of the Qing dynasty. The concept came to an end in the 19th century and suffered several more blows in the 20th century, and as a result is not as widely popular among Chinese people in the present day.[1]
In pre-modern times, it often took the form of viewing China as the most advanced civilization in the world, and external ethnic groups or foreign nations as being uncivilized to various degrees, a distinction known in Chinese as the Hua–Yi distinction.
ーー 以下訳文 ーー
概要 と 文脈
歴史的文脈に依るならば、Sinocentrism は、漢民族の社会と文化、若しくは、現代観念の中華民族の 自民族中心主義 (ethnocentrism)、について言及するものである。
清代王朝滅亡までの中国人エリートに人気があった、この概念は、十九世紀に到り、終わりを迎え、そして、二十世紀に到り、幾つかの更なる打撃を受け、その結果、今日では、中国人の間でも、広い人気があるわけではない。
前近代に於いて、それは、常に、中国が、世界で最先端の文明を有すると見なす、という形になる。そして、外部の民族グループ若しくは、外国は、さまざまな程度に文明化されていない, と見なされ, その区別は、中国語で「華夷之別」(Hua–Yi distinction)として知られている。
ーー 訳文完了 ーー
これで分かるように、Sinocentrism は、自民族中心主義で、漢民族とその他民族 、即ち、中国内部の、華と夷の関係に言及する言葉であって、世界とは関係なく、且つ、「中華思想」という言葉も無い。
日本は、何を根拠にして、Sinocentrism は 中華思想と言うのだろうか ?
はっきりしているのは、日本で言う、「中華思想は、自分が世界の中心」である概念は、世界中で、日本にしかない概念で、実態は、日本人の空想妄想である、と言った方が正しい。
日本製「中華思想」は、中国が「自分が世界の中心であると自称している」点を核心にしている。 実際は、日本がそうありたいという「概念」である。
先ず、 日本人の意識、思想を日本のウエブで検索してみると、下記のような非常に興味深い結果が出ている。 (2017年検索)
日本が世界の中心 5,580,000 件
中国が世界の中心 1,950,000
中華が世界の中心 507,000
米国が世界の中心 577,000
ロシアが世界の中心 926,000
フランスが世界の中心 464,000
ヨーロッパが世界の中心 414,000
論より証拠で、日本人意識と思想の 世界の中心は、日本が一番で、中華は五番目になっている。 日本 5,580,000 件 対 中華の507,000 件だから、全く、比較にならない。
なのに、なぜ、日本人は、口先では、中華が世界の中心だと、言うのだろうか。
日本は、大国中華の隣にある痩せ馬のような形をした「辺境島国」で、影は薄い.。その’為、古来より、中華に対し、僻みと妬みを感じ、快く思って居なかった。 人間は、僻みと妬みを反転させると「傲慢」の形になって現れる。国も似たようなもので、中華を貶す、見下すような態度を取るのは、辺境としての不快感の稀釈に役立つ、のみならず、僻み根性の隠蔽にも役立つ。言うなれば,一種の自己欺瞞工事である。
米国には、似たような問題はない。だから、wikipedia に Sinocentrism の記事はあっても、「華夷之別」(Hua–Yi distinction)を語るのみで、「中華思想」には全く触れていない。
触れていないという事は、そのような「思想」が無い、という事を意味している。
中華思想と言う「思想」は、中国に無い、のみならず、日本以外の其の他国にもない。 言うなれば、日本の一人芝居による思想であり、世界の「非常識」の内に入る。
そのような「非常識」を、何時までも抱きしめて、何の役に立つのだろうか。
唐土にない「中華思想」が、列島で人々に語られているのは、 日本に思想らしきものが無い為に、「中華思想」を借用してる 事を意味する。
ーー 正体不明の 中華思想 ーー
ーー 中華の原点 ー「華夏」 ーー
ーー 人はなぜ歴史を偽造する ーー
ーー 国破れて 山河在り ーー
ーー 論語読みの 論語知らずで、日本人は「中華思想」
を知らずに、言葉を弄んでいる ーー
ーー そして、恥を晒している事ですら知らない、
哀れ,としか言いようが無い。 ーー
ナンジャラホイ、という日本語がある、が、日本人に意味するところを聞いても、うまく説明出来る人はまず居ない。それは歌の囃子(はやし) だから, これと言った意味はない、という答えをするのが精一杯のようである。
試しに辞書をめくってみたが、ナンジャラホイという言葉はどこにも出ていない。所が、「ナンジャラホイ」をウエブで検索した際、なんと、約 13,500,000件 の厖大なる記事が掲載されていた。
つまり、昔も今も、ウエブの辞書には、ナンジャラホイという言葉の解説はなく、ただ、記事だけが沢山掲載されているだけだという事になる。
ところが意外にも、その「ナンジャラホイ」という文句に、深長なる意味が込められていると云う人が居る。
日本人とユダヤ人は同じ民族だという日ユ同祖説がある。それも一つだけでなしに複数の説がある。その中の一つである、牧師、ヘブル語研究家 川守田英二という人の説によると、ナンジャラホイはヘブライ語でちゃんとした意味があると云う。
彼の説によると、日本人は確かにユダヤ人で、その証拠に祭りの囃子 言葉などはすべてヘブライ語なのだそうだ。
《《 たとえば 「ヤートセー」は「ヤホバ放棄せり、敵を」だし、「ヨー イヤナ」は「エホバ祈りに応えませり」で、「ナンジャラホイ」は 「天子をエホバは守りたまえり」なのだそうだ 》》
そういわれても、たいていの日本人は困ってしまうだろうが、時々、 膝を叩いて 「そうだったのか!」と叫ぶ人がいるから、なお困って しまう。まことにもって、ナンジャラホイ である。
昨今の日本列島で、「白髪三千丈」と並んで、「中華思想」という文句が流行り言葉になっている。所が、皮肉な事に、列島で「中華思想」だと言って、「中華」の名を冠しているのに、肝腎の本家の中国には「中華思想」という言葉が無い。
「ナンジャラホイ」は日本語だが、日本語で解釈出来ない、ヘブライ語でなら、ちゃんとした意味を持つ、と言うのに似たようなもので、唐土にはない「中華思想」が、列島にある。困った話である。それで、列島で流行語となっている「中華思想」について、一寸語ってみたいと思った次第。
ウエブで、試しに「大和思想」を検索してみると、14、600、000 件 と結構多いが、それについて語る ブログ は 僅かの 8 件 しかない。
一方、「中華思想」を検索してみると、ウエブ記は、1、260、000 件で 大和思想の十分の一以下だが、ブログ記事はその六百倍弱の4、672 件もある。このような極端な数字の違いは何を物語っているのだろうか。 なぜ、大和語らずに、中華を語る。
恐らく、自分の事よりも、他人の事が気になって仕様がないという列島の「お節介」性格の具体的は表れであろうと思われる。
更に、少なからず意外に思ったのは、ウエブに「辞書」という欄があるので、各々の「思想」の定義の違いを、「辞書」欄で検索してみたところ、定義が出ているのは「中華思想」だけで、「大和思想」には一切定義が出て居ない。
すると、中華やら、大和やら、それらの「思想」の中身はただ一つしかない、という事になるのかも知れない。
又、この外に興味をそそるのは、大和と 中華 を抱き合わせた「大和の中華思想」という記事が 240、000 件あるという事である。
列島と唐土、この二つの異なる国の名前を併記した「思想」は、果たして何を意味するものであろうか。しかし、記事はあるが、これもウエブ辞書に定義は出ていない。
以上のように、列島の人々は、自国の「大和思想」よりも、他国の「中華思想」に強い興味を持っている事が、はっきりと、ウエブや、数字や辞書に出ている。
列島に、「中華ラーメン」と名乗っている汁そばがある。使っているお椀、麺、チャーシュー、豚骨スープなどは紛れも無く「中華」だが、 僅かに 鳴門 や やきのりなどの「大和」を申し訳程度に入れて、形ばかり、中華と大和のちゃんぽんになっている。このような ラーメンは中国に無い。
つまり、日本で「中華」と名乗っても、それは必ずしも純然たる「中華」を意味する事にはならない、というのが実像である。この実像は、勿論、「中華思想」の場合にも、そのまま当て嵌まるものと思われる。
以上の基本概念を踏まえて、列島に於ける「中華思想」の味を逐次吟味して行きたい。
ーー 「華夏」の意味 は 山 と 河
古い昔、中国の呼称は夏、華、あるいは華夏と云はれていた。これが元になって、後日、「中華」という名称が生まれることになる。
この「華夏」について、日本辞書の解釈は、次のようになっている。
「華」は、花、はなやか、文化のはなやか、などの意。
「夏」は、大きい、盛ん、などの意。
従い、「華夏」というのは、中国人が自国を誇っていう語である、としている。
このような解釈は、感覚的な、文化意識というものを重点に置いているもので、本場中国版の解説とかなり違う。ラーメンに例えると、醤油スープと豚骨スープほどに違う。
中国の有名な文人魯迅が師と仰ぐ国学者章柄麟又の名を章太炎ともいう学者は、「中華民国解」という権威著書の中で、次のように「華夏」を解説している。 (原文は漢文、仁目が日本語に訳した)
「 我が国の民族は古く、雍、梁二州 (今の陝西、甘粛及び四川
一帯)の地に居住して居た。東南が華陰で、東北が華陽、すな
わち華山を以って限界を定め,その国土の名を「華」と曰
く。その後、人跡の到る所九州に遍 (行人偏)(あまね)き、華
の名、始めて広がる。華は本来国の名であって、種族の号で
はなかった。
「夏」という名は、実は夏水 (河の名前)に因って得たるもの
なり、雍と梁の際(まじは)りにあり、水に因って族を名付け
たもので、邦国の号に非らず。漢家の建国は、漢中(地名)に
受封されたときに始まる。(漢中は)夏水に於いては同地であ
り、華陽に於いては同州となる故、通称として用いるように
なった。本名(華夏)ともうまく符合している。従い、華と云
うのも、夏と云うのも、漢と云うのも、そのうちどの一つの
名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。
漢という名を以って族を表している、と同時に、国家の意味
にもなる。又、華という名を国に付けたと同時に、種族の意
味にも使はれているのはそのためである 」
(原文は漢文、日本語は仁目訳)。
以上の如く、太炎文録の記載説明に依れば、「華夏」の華は華山という山の名前、夏は夏水という河の名前から由来したことになる。つまり、意識的な思想の裏付けのない、単なる地理上の概念から「華夏」の名称が生まれたものになる。
振り返って古代を考えると、人間の定着する所は山や河のある土地に決まっていた。山河という自然の地理条件は、人類を含む動物の生存に欠かすことの出来ない必須条件であるが、思想は生存の必需品ではない。だから、人類の歴史は、地理上の概念が常に思想より遥かに先行し、発達していた。
黄河は、その大河の中流流域にある黄土台地の黄土を侵蝕して流れる水が常に黄色い色をしているので、「黄河」という名が付けられ、その北側の地域が「河北」、南側が「河南」と称されるようになった。中国最長の河は「長江」という。長いからである。昔の人は、このように、呆気ないほどに素朴単純であった。
「国破れて山河あり」という、人口に膾炙している古い文句がある。「国破れて思想あり」という言い方はしていない。華、あるいは夏、という名前は矢張り「山」と「河」から取ったものだと見るのが妥当であろう。
ーー 日本語「中華思想」の意味は、
島国人、百人百色 の 空想妄想 ーー
従来、日本の一般の辞書は、「中国」あるいは「中華」を拡大解釈して、「世界のまん中の国」という中国人の自称であるとしているのが結構多い。「まん中の国」、略して「中国」という解釈は成り立つ。問題は、「世界の中心」という部分はどこから割り出して来たのか大いに疑問が残る。もともと、中国という国は、古い昔から、自分で一つの世界を作り上げ、自分以外の別世界にはさ程関心を持っていなかった。
「漢字文化圏」というのがある。漢字の出現から三千余年、儒教思想の出現から二千余年が経った今日、この漢字文化圏という文化地域の範囲を見てみると、アジア、しかもその一隅である極東の日本、韓国、東南亜の台湾、越南辺りから一歩も外に出たことがない。二千年弱のキリスト文明が、今日全世界の隅々にまで浸透している状態と比較すれば、漢字文化圏というのは全く取るに足らない程の辺境文化圏でしかない。このように見て来ると、
「中国が世界の中心であり、その文化、思想が
最も価値のあるものであると自負する考え方」
であるとする日本語解釈の根拠が何処にあるか、大なる疑問が生じて来る。恐らく、単なる空想妄想であろう。
ーー 正体不明 の 中華思想 ーー
「中華思想」という単語は、誰が生んだでしよう?という質問がウエブに出て、それに対する回答が二つ載っている。一つが「ベスト回答」で、今一つは「その他回答」となっている。
所が、ベストに選ばれた回答は出だしに下記のような断りが付いている;
《 「中華思想」という単語や、その世界観について広めた切っ掛けは、もちろん確信はありませんが、1793年(乾隆58年)に、イギリス特使として清の乾隆帝に拝謁した「マカートニー」ではないでしょうか、、、、、 》
回答者自身が、最初から、「もちろん確信はない」、「、、、、ではないでしようか」と断わっている回答がベストになるのは全然可笑しい。 況して、イギリス人を生みの親にしている、荒唐無稽な内容、 何で、ベスト回答 ? 、、、、、 ふざけも良いところ。
それで、今一つの「その他回答」を見てみる。それは下記のような 内容であった; (要約)。
《《 元々、「中華」という言葉は、中国人が自民族の事を指す「夏華」( 華夏 ) という言葉が、詩経の中で用いられた地理的中心という意味の「中国」という言葉と結びついて出来たもの。
中国には「中華」という言葉はありますが「中華思想」という言葉はなく、中国人には「華夷思想」と言い直さなければ通じません。
「中華思想」という言葉は、主に日本でのみ用いられ、欧米でも殆ど用いられない言葉ですので、日本で作られた造語でしょう。
誰が作り出した言葉かというのは明確には分かりませんが、「中華思想」という言葉が成立したのは明治以後のことでしょう。
日本で「中華」という言葉が大きな問題になったのは、「中華民国」が成立したときの事で、この時、大日本帝国は「中華」という言葉に反発して、中華民国という国号を一時認めませんでした。
そのとき、日本側は中華民国に対して以下のように述べていて、ここで「中華思想」という言葉が出てきます。
「中国従来の中華思想を反映したものであるが、中国を華とし外国を夷と見下すに等しい国号は国際上、列国に対して失礼、不敬となる恐れがある。従って別の適当な国号に改称するのが穏当である」
従って、中華思想という言葉は、日本において19世紀後半~20世紀初頭までに日本の知識人の誰かによって作られた造語という事になると思います。
福沢諭吉が脱亜入欧を主張し、儒教批判をしていることから、福沢諭吉と近い思想傾向の人間によって作られた言葉である可能性はあります 》》
上述の二つの回答は、明らかに、二つ目の「その他回答」が、正解であるのに、一つ目の、イギリス人を生みの親にしている、荒唐無稽な回答が、ベスト回答になっている、なぜ ?
イギリス人を生みの親にしているのは、「中華思想」論に「箔 はくを付ける」、つまり、重みを加える、貫禄をつける為 だとしか考えられない。
先の対米戦争で、軍部は、先ず、「鬼畜米英」の洗脳から始めた。米英人は鬼畜ではない。が、当時、実際に、米英人を知っている日本人は、殆んど居なかった、だから、洗脳出来る。桃太郎物語を好む衆愚は、鬼退治に躍起となり、あとからあとからと太平洋に飛び込んだ。
「中華思想」は、明らかに、日本人の造語である。それに、中国人は自大であるという意味を持たせている。
梅棹忠夫は 「文明の生態史観」の中で、次のように語っている。
《《 「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。ほんとうの文化は、どこかほかのところで作られるものであって、自分のところは、なんとなく劣っているという意識である。
おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうと思う。」 》》
つまり、自分自身の文化を展開出来たのが「中華」で、その一大文明の辺境諸民族のひとつ、というのは「日本」という事になる訳で、そこから「劣等感」が生まれ、その僻みで、中国への嫌がらせに利用する為に、「中華思想」の日本版をデッチげたものであろう。 米英を鬼畜に仕立てたのと、異曲同工の、巧な「職人日本芸」とも言える。
という訳で、世界広しと言えど、「中華思想」を云々しているのは、日本人だけで、「孤掌鳴らし難し」の諺があるように、日本の一人芝居だけでは、鳴らしようがないので、「中華思想」を英語の「sinocenterism」に結び付けている。が、残念な事に、これは、語学音痴の見当違いに終わるようである。
英語ウエブサイト wikipedia の「Sinocentrism」記事を見ると、概要 と 文脈 が次のように出ている。
Overview and context
Depending on the historical context, Sinocentrism can refer to either the ethnocentrism of the Han society and culture, or the modern concept of zhonghua minzu. popular among the Chinese elites up to the final demise of the Qing dynasty. The concept came to an end in the 19th century and suffered several more blows in the 20th century, and as a result is not as widely popular among Chinese people in the present day.[1]
In pre-modern times, it often took the form of viewing China as the most advanced civilization in the world, and external ethnic groups or foreign nations as being uncivilized to various degrees, a distinction known in Chinese as the Hua–Yi distinction.
ーー 以下訳文 ーー
概要 と 文脈
歴史的文脈に依るならば、Sinocentrism は、漢民族の社会と文化、若しくは、現代観念の中華民族の 自民族中心主義 (ethnocentrism)、について言及するものである。
清代王朝滅亡までの中国人エリートに人気があった、この概念は、十九世紀に到り、終わりを迎え、そして、二十世紀に到り、幾つかの更なる打撃を受け、その結果、今日では、中国人の間でも、広い人気があるわけではない。
前近代に於いて、それは、常に、中国が、世界で最先端の文明を有すると見なす、という形になる。そして、外部の民族グループ若しくは、外国は、さまざまな程度に文明化されていない, と見なされ, その区別は、中国語で「華夷之別」(Hua–Yi distinction)として知られている。
ーー 訳文完了 ーー
これで分かるように、Sinocentrism は、自民族中心主義で、漢民族とその他民族 、即ち、中国内部の、華と夷の関係に言及する言葉であって、世界とは関係なく、且つ、「中華思想」という言葉も無い。
日本は、何を根拠にして、Sinocentrism は 中華思想と言うのだろうか ?
はっきりしているのは、日本で言う、「中華思想は、自分が世界の中心」である概念は、世界中で、日本にしかない概念で、実態は、日本人の空想妄想である、と言った方が正しい。
日本製「中華思想」は、中国が「自分が世界の中心であると自称している」点を核心にしている。 実際は、日本がそうありたいという「概念」である。
先ず、 日本人の意識、思想を日本のウエブで検索してみると、下記のような非常に興味深い結果が出ている。 (2017年検索)
日本が世界の中心 5,580,000 件
中国が世界の中心 1,950,000
中華が世界の中心 507,000
米国が世界の中心 577,000
ロシアが世界の中心 926,000
フランスが世界の中心 464,000
ヨーロッパが世界の中心 414,000
論より証拠で、日本人意識と思想の 世界の中心は、日本が一番で、中華は五番目になっている。 日本 5,580,000 件 対 中華の507,000 件だから、全く、比較にならない。
なのに、なぜ、日本人は、口先では、中華が世界の中心だと、言うのだろうか。
日本は、大国中華の隣にある痩せ馬のような形をした「辺境島国」で、影は薄い.。その’為、古来より、中華に対し、僻みと妬みを感じ、快く思って居なかった。 人間は、僻みと妬みを反転させると「傲慢」の形になって現れる。国も似たようなもので、中華を貶す、見下すような態度を取るのは、辺境としての不快感の稀釈に役立つ、のみならず、僻み根性の隠蔽にも役立つ。言うなれば,一種の自己欺瞞工事である。
米国には、似たような問題はない。だから、wikipedia に Sinocentrism の記事はあっても、「華夷之別」(Hua–Yi distinction)を語るのみで、「中華思想」には全く触れていない。
触れていないという事は、そのような「思想」が無い、という事を意味している。
中華思想と言う「思想」は、中国に無い、のみならず、日本以外の其の他国にもない。 言うなれば、日本の一人芝居による思想であり、世界の「非常識」の内に入る。
そのような「非常識」を、何時までも抱きしめて、何の役に立つのだろうか。