26 日露関係Ⅱ(第1次世界大戦~1945) -20- ~この項:完~
ⅲ 第2次世界大戦 -9-
■まとめと考察 3/3の2 ~まとめ表再掲~
1 「シベリア抑留」の描き方
●わずか70年ほど前の《ソ連の強制抑留による、日本人の大量死》という大事件を書いていない。 → × 学び舎。
※日本の歴史書としてありえないこと。よほどの理由があるのだろう。
●推定犠牲者(死亡者)数があいまい過ぎて、評価できない。 → ? 7社(学び舎以外)
※死者数(推定)=最少で約4万1千人(ソ連・ロシア公式発表:現時点で)、6万人以上、20万人、227,200人、34万人、40万人…
※抑留者数(推定)=最少で57万5千人、65万人、70万人近く、71,000人、200万人(以上)…
●育鵬社、自由社、帝国書院、教育出版、清水書院・・・死亡(犠牲)者数を「6(5)万人以上」と書いている。おそらく”もっとも手堅く、それなりに根拠がある数字”なのだろう。
しかし、確定できない人びと=《移動途中の死亡者》や《収容所外に移送されたり放棄されたりした、病気したり衰えたりした者など(=働けない者)の”消息不明者”》、《逃亡してどこかで死亡した”行方不明者”》などを数に入れていないようだ。《見捨てた、切り捨てた》と言われてもしかたないだろう。なぜなら、これらの死の原因は、《終戦後のソ連の強制抑留事業》だからだ。
●東京書籍、日本文教・・・「多くの」と表現している。学問的にはこのようなあいまいな(いいかげんな)表現は通用しないと思うが、この場合は、いまだに「歴史の闇」にまぎれているので、いちがいに×とするわけにはいかない。この闇の最大の原因は、”日本政府の怠慢”なのだろうか、それとも”政治的配慮の結果”なのだろうか…? (※ソ連:ロシアの”サボタージュ”は当然として。)
<参考(証言)>
実は私の父二人ともシベリア抑留に縁があります。妻の父は終戦時に満州鉄道の社員(※民間人)でしたが、仲間たちとともにソ連軍につかまって列車に乗せられたのですが、途中でソ連行きに気づいて、二人で走行中の貨車から飛び降りて逃げました。おかげで強制収容所には行かなくてすみました。
大正3年生まれの私の父(陸軍二等兵)は、朝鮮でソ連軍に降伏しシベリア送りになりました。(ちなみに、母(当時独身)は昭和17年まで北京陸軍病院の看護婦でした。)
父が平成3(1991)年に《相知町の同人誌「手のひら」》に連載していた「世界第二次大戦後の二年」の⑱・⑳号を転載します。①号(昭和63:1987年)の書き出しは、「この記録は、軍の経験を持たぬ三人の、私の息子たちに贈る遺言。死の淵を目前に見ながら、行きぬいてきた其の悲願、人間界究極の平和のために・・・」
~次回3/3の2(26項:完)~
※記事の不備等に関するお願い…《ブログ「やおよろずの神々の棲む国で」の記事(=原典)》では、掲載後に不備等が見つかった場合そのつど訂正・修正しています。しかし、《他の同時転載ブログ(2つ)&FB(1つ:リンクのみ)》では原則として後日修正はしていません(※”致命的まちがい”は修正)。原典以外のブログの内容に疑問がある場合は、下記の《原典へのリンク》を使って確かめてください。~原典の内容に疑問がある場合は、お手数ですが原典ブログのコメントで教えてください。~
<全リンク⇒1へ> <26 日露関係Ⅱ(WW1-1945) 370・371・372・373・374・375・376・377・378・379・380・381・382・383・384・385・386・387・388・389・>
《著者:松永正紀 教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます