日本会議唐津支部 事務局ブログ

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【中学歴史教科書8社を比べる】514 29 日米関係 -79- ⅸ 大東亜(太平洋)戦争直前の状況 -19- <基礎知識:開戦の理由・原因 1/n ハル・ノート 1/2>

2018年05月31日 | 中学歴史教科書比較(2)h28-令和2年度使用

ⅸ 大東亜(太平洋)戦争直前の状況 1930~1941  -19-

※この10年ほどのできごとはすべて関連しているので、かなり長くなるがまとめて調べる。なお、その間の「日中・日朝関係」については調査・報告済なのでここでは省く。
  <23 日中関係Ⅱ(WWⅠ~1945)313~> <17 日朝関係(戦前) 152181

■基礎知識 ~開戦の理由・原因について~ 1/n

 日米戦争の理由・原因については、きわめて重大な歴史認識であるため、直近の理由・原因から遠因まで、深く調べ、考える。

1 ハル・ノート 1/2

⑴ <ウィキペディア:「太平洋戦争」>より

・「ハル・ノートの提示 11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意し、来栖三郎特命全権大使および野村大使の手によりコーデル・ハル国務長官に提示して交渉に当たった。11月26日朝、ハル国務長官は両案を拒否し、中国大陸・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む交渉案、いわゆるハル・ノートを来栖特命全権大使、野村大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ここでいう中国大陸が満州を含むかどうかについても議論がある。

 日本政府はこのハル・ノートを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになる。後の東京裁判の弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう」と評しており、ラダ・ビノード・パールも後に引用している。アメリカ海軍は同11月26日中にアジアの潜水艦部隊に対して、日米開戦の場合は非武装の商船でも無警告で攻撃してもよいとする無制限潜水艦作戦を発令した。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と明記されており、回答期限も設定されていない。アメリカ側がハル・ノート受諾に関する問い合わせをしたことはなく、その後も交渉継続を行う意志を見せている。

12月1日御前会議  日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。  

宣戦布告と開戦  軍部が中心となって作成し1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した、太平洋戦争全般にわたる基本方針となる日本の戦争計画書「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」では、「東南アジア南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う」とし、戦争の終わらせ方については「独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」としていた。

⑵ <ウィキペディア:「ハル・ノート」より>

・「ハル・ノート(Hull note)は、太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日日本時間11月27日)にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。正式には合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)と称する。
 
冒頭に「厳秘 一時的且拘束力ナシ」(Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)という但し書きがあり、アメリカ政府の正式な提案ではなく、ハルの「覚書」という側面がある。日本で「ハル・ノート」という通称が用いられるようになった時期は明確ではないが、戦後の極東国際軍事裁判前後だと考えられる。アメリカでは1941年11月26日アメリカ提案、あるいは"Ten Points"とも呼ばれている。」

・「東条内閣と国策再検討 
 近衛内閣の総辞職と東條内閣の成立 ・・・
東条内閣は対米戦争に踏み切った内閣として悪名高いが、むしろ近衛内閣よりも積極的に対米交渉を行ったと見ることもできる。東條は非戦論に傾いており、外務大臣には平和主義で知られた東郷茂徳を迎えた。また、東條は大蔵大臣候補の賀屋興宣との入閣交渉では「できるだけ日米交渉に努力して、戦争にならないように平和に解決できるように努力したい」と述べており、及川海相の後任候補となった嶋田繁太郎との入閣交渉においても「海軍軍備の充実」とともに「外交の推進」を約していた。東條の交渉推進への方向転換については、陸軍内部から「東條変節」と評する声さえ聞かれたが、東條にとっては天皇の御言葉が絶対であった

 なお、近衛内閣の崩壊と軍人内閣の出現はアメリカ側に戸惑いを与えたものの、それほど悪い印象を与えたわけではなかった。戦争に打って出る危険性は孕んでいるものの、日米間の対話は継続されるというのが大方の認識であった 。

 

 国策再検討 18日に成立した東條内閣は「白紙還元」に基づき、国策再検討を行うこととした。しかし、再検討の関係資料の多くを作成した陸海軍の責任者は海相を除けば前内閣と同じ顔ぶれで、かつ再検討に消極的なため、「かような性質の資料に立脚した国策再検討が要するにもとの木阿弥に落ちついたのはむしろ当然」で、結論的には和戦両様案の採択となる

・「11月26日日米会談におけるハル・ノート提示 

 冒頭に「厳秘 一時的且拘束力ナシ」 (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)との記載がある。 

 第一項「政策に関する相互宣言案」にはハル四原則が書かれ、第二項には10項目から成る具体的措置が示されている。

 

ハル・ノート
第一項「政策に関する相互宣言案」
  1. 一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
  2. 他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
  3. 通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
  4. 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則

(略)

第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」
  1. イギリス中国・日本・オランダソ連タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
  2. 仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
  3. 日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵[注釈 27]
  4. 日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
  5. 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
  6. 最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
  7. アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
  8. 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
  9. 日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
  10. 本協定内容の両国による推進

 

 附属のオーラルステートメントでは、ハル・ノートは「太平洋全地域に亙る広汎乍ら簡単なる解決の一案」「六月二十一日附米国案と九月二十五日附日本案の懸隔を調整」と説明されているが、実際には日本側の要望はすべて無視したものであった。6月21日付米国案では、日中和平の条件として日本の立場に理解を示す文言(共産主義運動に対する防衛のための日本軍の中国駐兵を今後の検討対象とする、「満州国に関する友誼的交渉」といった項目)もあったが、ハル・ノートは条件をつり上げたことになる

 ~つづく~

 

~次回、ハルノート 2/2

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《著者:松永正紀  教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》

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