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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

北の温もり  彩秋

2015-11-06 22:00:09 | 出会い
 周辺の山々は、1ヶ月程前より色を変え、
濃い緑色から赤と黄色の輝きへと移ってきた。

 まもなく、すべての山の木は落葉し、幹と枝だけになる。
春の山は、木々が新しい葉におおわれ、『山がふとる。』と言う。
それに対し、秋の終わりは、『山がやせる。』と言うらしい。
 こんな情感ある表現に、日本語の素晴らしさを覚えるのは、
私だけなのだろうか。

 もうしばらくすると、山は雪に閉ざされる。
だから大自然は、多彩な色で今を飾り、
これから厳しい季節へ立ち向かう人々に、
贈り物をしているのだと私は思っている。

 移住して4回目の秋である。
太陽の軌道が変わり、その陽差しがずいぶんと低くなった。
 だから、山々の斜面は、その光りを真正面から受ける。
それだけでも、この時季の山はまぶしくて綺麗。
なのに、色づく。山の美しさは、最高潮だ。

 4年越しの紅葉狩りになるが、
是非とも行きたいドライブコースがあった。
 平成14年の公募で命名された『ホロホロ峠』を通過する
山岳の北海道道86号白老大滝線である。
 ハンドルを握ることに、さほど不便さを感じないまでに
右手は回復してきた。
 大自然からの贈り物のおすそ分けをと、思い切ってマイカーで向かった。

 今は、『四季彩街道』と名づけられているが、
この道は、道内有数の豪雨地域である。
 道路建設は、着工から20年の歳月を費やす難工事のすえ、
平成10年に開通した。
 今も、1月から4月下旬までは冬季通行止めとなる。
そのため、工事が継続されていると言う。

 快晴とは言えない日だった。
白老ICを出て、山へと向かって30分、
案の定、ポツリポツリと雨に見舞われた。
 しかし、それ以上にはならず、時折、雲間から青空も見えた。
休日だからか、ひっきりなしに乗用車やオートバイとすれ違った。

 峠に近づくにつれ、助手席の家内の歓声が増した。
凄いのひと言である。
 そこは、木々が紅葉しているというよりも、
眼下の、その一つ一つの山が、
まさにすっぽりと赤や黄色におおわれ、連なっていた。
 幾重ものあざやかな彩りの山肌が、私の視界の全てになった。

 前置きが長すぎた。
この峠道を超えたところに、北湯沢温泉郷がある。
大規模温泉ホテル2軒、そして温泉旅館・宿舎が数軒点在している。
 紅葉狩りの終着は、日帰り入浴ができる、
ここの大型温泉ホテルへ立ち寄ることだった。

 客室230室、最大収容人員1368名のホテルである。
日帰り客もさることながら、
その日も、山吹色の作務衣に着替えた宿泊客で賑わっていた。

 いつものように家内とは、入浴時間の確認をして別れた。
脱衣室も広く、隅々まで見渡すのが難しいほどだった。
 私が、脱衣を始めた時だった。
車イスが入ってきた。
 山吹色の作務衣、眼光が鋭く丸刈り、大柄な方だった。
介助の方はなく、車イスをゆっくりと動かし、
私とは正反対の脱衣かごに向かった。
 
 浴室に入ると、これまた広く、
温泉の温度ごとに、39度から42度まで、
大きな浴槽が、5つ、6つに分かれていた。
その他に、露天風呂に打たせ湯、サウナに水風呂等々。

 私は、もっぱら低温半身浴派で、そこでの長湯が好きだった。
一度、体を洗って、再び低温浴へ。
 その浴槽に、車いすで脱衣室に入ってきた方が来た。

 彼は、杖をつき、両足には滑り止めなのだろうか、 
真っ白で薄手の軽そうな、かかとにベルトのついた
サンダルをはいていた。
 タオルを首にぶら下げ、浴槽の介助用パイプに杖を立てかけ、
そのパイプを手がかりにして、一歩一歩確かめるように湯船に入った。
 全身を湯にうめても、パイプを片手でしっかりと握っていた。

 左半身が不自由なのだろう。
左ひじは曲がったまま、歩行もなかなか難しいようで、
その動きはものすごくゆっくりだった。
 しかし、見事なまでに屈強な体つきだ。
180センチはあるだろうと思った。
 ゴマ塩のイガグリ頭などから、私と同世代だと思う。
背中の盛り上がった筋肉が、
厳しい仕事に従事してきたことを想像させた。

 じっと湯につかっていた彼は、
おもむろに介助用のパイプをたよりに、立ち上がろうとした。
そして、それをあきらめた。
 しばらくして、またその動作をした。

 不思議に思い、私は彼の視線の先を見た。
一面ガラス張りのその先には、
紅葉した山の斜面が、西陽を受けていた。奇麗だった。 
 彼は、そのガラス窓まで近づきたかったのだと思った。

 「ガラスのところまで、手を貸しましょうか。」
私は、近づいて声をかけた。
 一瞬、私を見上げて、
「いやいい。ガマンする。」
力強く、しっかりとした口調だった。固い意志を感じた。
「そうですか。」
静かにその場を離れた。

「ありがとう。」
彼の声が届いた。
 武骨な声だったが、湯煙の中をゆったりと流れていった。

 その後、彼は首のタオルを、介助用パイプにかけ、
片手で上手にしぼり、顔の汗をぬぐった。
 そして、これまた一歩一歩杖をつきながら、シャワーへ向かった。

 彼の後ろ姿から、私は勝手に、
「こんな体になっても、まだまだ引き下がったりしない。」
そんなみなぎる強さを感じた。

 そうだ、時間を忘れていた。
私は、急いで湯を上がり、汗をふきふき、脱衣室を出た。

 日帰り客用の休憩室は、賑やかだった。
幸い家内は、まだいなかった。
 私は、混雑をさけ、
宿泊客も利用するロビーの一角に腰をおろした。

 若干離れた、はす向かいに、
作務衣がよく似合う、同世代と思われる女性がいた。
 男子用の脱衣室の方に体を向け、イスに軽く腰かけていた。
時折、タオルで顔の汗をおさえながらも、
背筋をすっと伸ばしたその姿勢は、
他の湯あがり客とはちがって見えた。

 しばらくして、再びその女性に目が行った。
その時、脱衣室から車イスが出てきた。
 車イスは、その女性に近づいた。
女性は、立ち上がり、一言二言、言葉を交わしていた。
 彼は、女性が抱えていた大きめの浴用手提げ袋を自分の膝にのせた。
女性は後ろにまわり、静かに車イスを押しながら、
ホテルの奥へと去って行った。

 あの凛として見えた女性の姿が分かった。
あれは、不自由な体で、一人入浴する夫を案じていたのだ。
 それを知っていたのだろう。
彼は、そのねぎらいとして、大きめの手提げ袋を膝に置いたのだ。

 「ご主人、一人でしっかり入浴してましたよ。」
そんな言葉は、大きなお節介と気づいた。

 やはり、北の大地には、デカい男がいる。




掘り出したビート根の長い山 やがてダンプカーで製糖工場へ
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数々の『ことば』から

2015-08-28 22:27:49 | 出会い
  そ の 1

 高校1年の正月だ。
私は、生徒会の役員をしていた。
 そのつながりで、1学年先輩の女子から年賀状をもらった。
そこに、『私の好きな詩です。』と記されていた。

  己の意思をもって
  己の身をぶっつけ
  己がために前進しよう

    何事にも左右されず
    何者にも迷わされず

  己を知りながら
  己を表しながら
  己らしく生きていこう


 この詩のことは、何故か気恥ずかしくて、多くを語ってこなかった。

 当時の私は、高1なのに奥手で、
他人のまねごとをするのが精一杯だった。
 だから、自分自身を見つめるまでには至っていなかった。

 そんな私には、『己』と言う語は、新鮮で衝撃的だった。
私に歩み方・生き方を問いかける、大きな糸口になった。

 なのに、この詩をどこにも書き留めていなかった。
それなのに、いつも、記憶の奥底にあった。
 今日までに何十回と、数えきれないほど、
くり返し思い返し、反すうしてきた。

 2連目にはもう1行言葉があったように思う。
長い年月の間に、知らず知らず勝手に、
言い直した部分もあるようにも思う。

 年令や、その時々の環境で、心に響く箇所は違っていた。
強い言葉の連なりに、赤面していた時代もあった。
 でも、確かに、長年私を励ましてくれた言葉である。


  そ の 2

 私に限ったことではないだろう。
日々の暮らしには、時として、想像もしないような
喜びや幸せ感が訪れる。
 また、それとは裏腹に、
ただただじっと耐えることを強いられたり、
踏み出すべき道さえ分からないまま佇んだりする時がある。

 社会と言う大きな波間での営み、
人と人との関わりが織りなす一日一日、
そこで人は、必ずや理不尽と思う場面に遭遇する。
不条理さを強くする瞬間がある。
そんな日々の狭間で、誰もが惑う。

 名言は、そんな私たちのために生まれ、人生の羅針盤として、
それぞれの心に生き残り、生き続けていると思う。

 40年の教職生活であった。
不勉強と経験の甘さ、未熟な人間性が、様々な壁になった。
その壁を越え、前へ進むのに、沢山の言葉から力を頂いた。

 『日々是好日』、『行雲流水』、『喫茶去』、『一行三昧』など、
いわゆる禅語に魅せられた時もあった。
 しかし、いまも深く心に刻まれている言葉が2つある。


  『漂えど沈まず』

 稀代な小説家・開高健がよく使った言葉である。
しかし、この言葉は彼のオリジナルではなく、
フランス・パリが「ルテチア」と呼ばれていた中世の頃、
町の標語だったものらしい。
 セーヌ川が氾濫しても、嵐が来ても、俺たちは沈まないと言う
当時の水上商人組合の心意気を示したものとのことだ。

 この言葉について、開高健さんは、
『男の人生をわたっていくときの
本質を鋭くついた言葉ではあるまいか。」
と、書き残している。
 
 男だからではないが、人としての重責を決して投げ出さない。
そんな底知れない強さが、心を捉え、生きる指標になっている。


  『タフでなければ 生きてられない
     優しくなければ 生きている資格がない』


 アメリカのレイモンド・チャンドラー氏が書いた
ハードボイルド小説「プレイバック」で、主人公が言った名台詞である。

 敵の少ない経営者と称された、第7代経団連会長の平岩外四氏が、
昭和51年東京電力の社長就任記者会見の席で、
「座右の銘とか、好きな言葉は?」と問われた。
 その時、「座右の銘ではないが。」
と、前置きして取り上げた言葉でもある。

 そして、昭和53年、角川映画『野生の証明』でキャッチコピーに使われ、
一気に広まった。

 私が、この言葉を知ったのは、40歳代になってからである。
特に、管理職になって数年が過ぎたある日から、
机上の目に止まる所に書き置き、常に心に刻んできた。

 『実るほど頭をたれる稲穂かな』
大先輩の校長先生から、「人の前に立つ者としての心得だ。」
と、贈って頂いた先人の一句である。

 しかし、学校の管理職が置かれた現実は、
この言葉通りには行かなかった。
 時として、前面に強さを求められることがしばしばだった。
 私は、そんなタフな日々に慣れることができなかった。
精神的にかなり追い込まれた。
 その時だった。この言葉を突然思い起こした。
 まさに救世主の言葉だった。

 本物のたくましさの答えを得た想いだった。
目の前に明かりが灯った。
私の道しるべだと思った。心地よささえ覚えた。
 管理職としての、いや、人としての生き方を決めてくれた。

 そして今、伊達の地で、
大自然と共に生きるタフと優しさを目の当たりにしている。
 改めてこの言葉の深さに教えられている。


  そ の 3

 校長職を退き、第二の人生がスタートしてから、
私は、重責からの開放感とは別に、次の歩みへの心許なさを感じていた。

 伊達へ移住することに対する期待感は大きいものの、
その道の先がどこにつながっているのか、見当もつかなかった。

 「塚ちゃん、伊達に行って何するの?」
友人たちからは、代わる代わる訊かれた。
「行ってから決める。それが一番いいと思っている。」と、応じた。
 それで正解なのだが、
しかし、私のその答えにはどことなく『芯』がなかった。

 そんな時だった。
NHKのテレビ番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』の
『プロフェッショナルを導いた言葉』を観た。
 その道のプロ中のプロが、その歩みから導き出した言葉を、
「ことばの力」として紹介していた。

 9名のプロフェッショナルが言う、9つの珠玉の言葉であった。
 第二の人生を、ヨチヨチ歩きしていた私に、
次の4つの言葉が、
心許なさに『芯』をもたらしてくれた。


  『まだ、山は降りていない。登っている。』
               <訪問看護師のパイオニア・秋山正子さん>


 46歳で余命3ヶ月と診断されたガン患者さんがいた。
無口で我慢強い性格。
心のうちはもとより世間話もしない。
 秋山さんは、
「そろそろ山を降りているんだから、
荷物をおろしたらどうかしら?」
と、声をかけた。
その時、返ってきた言葉がこれだった。

 強い気持ちで癌と闘っている。
人という存在の強さを知ったと彼女は言う。
 私のこれからの歩みも、これだと決めた。


  『決まった道はない。ただ行き先があるのみだ。』
               <野生動物専門の獣医師・齊藤慶輔さん>


 絶滅危惧種オオワシの調査のために
行ったサハリンでのこと。
 トラックが泥道で何度も動かなくなった。
「ロシアは大変だね。予定通りにはいかないね。」
と、運転手に声をかけた。
 すると、ロシア人の運転手が、
片言の英語で応えた言葉がこれだった。

 その言葉に齊藤さんははっとさせられたと言う。
 野生動物のおかれた現実は厳しい。
しかし、だからこそ奔走する。
進むべき道は、自分が作ればいいと言う。

 どんな道を歩むかではないのだと気づいた。
どこに向かうかが問われるのだと。
 これからの道は自らの手で作り出すんだ。
 深い霧が晴れていった。力が湧いた。


  『人は変られないが、自分は変えられる。』
               <絵画修復家・岩井季久子さん>


 岩井さんが絵画修復の仕事を始めた頃は、
まだまだ女性の少ない時代だった。
様々な軋轢に苦しみながらつかんだ言葉がこれだった。

 試練や壁は、自らを鍛え強くしてくれる。
人生を良くするのも悪くするのも、
自分の考え方次第だと、岩井さんは語る。

 現職時代に巡り会っていたかった言葉である。
今からでも、遅くはない。
肝に銘じて生きていこうと思った。


  『得(う)るは、捨つるにあり。』
                <靴職人・山口千尋さん>

 25歳の時、大手靴メーカーに勤務していた山口さんは、
退職して、本場イギリスへの留学を考えていた。
 会社は、1年の休職を提案してくれた。
彼は迷い、尊敬する先輩に相談した。
「辞めればいいじゃないか。」
先輩は即答した。
 その時、浮かんだ言葉がこれだった。

 何かを捨てなければ、大事な物を得ることなどできない。
彼は、職を辞し、イギリスに渡った。
そして、この言葉は苦しい修行生活の拠り所になったと言う。

 この言葉には、絶対的な真理があると思った。
現職時代を振り返り、感じるところがあった。
 同時に、黒板五郎さんがリュックに
いっぱいのカボチャを背負い、
上京するシーンが目に浮かぶ、
あのテレビドラマ『北の国から』(脚本・倉本聰)の
「東京を卒業」のセリフを借りて、
「東京を卒業して、伊達に行きます。」
そんな想いが間違ではないと、意を強くした。




80歳の農家さんが作るお花畑 ガーベラが満開
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北の温もり  春光

2015-06-04 21:13:37 | 出会い
 右腕の手術から1年が経過した。
 久しぶりに診察を受けた手術医は、
「神経の病気は治るのに時間がかかるから。」
「少しずつ回復していますよ。」
「気長に頑張って下さい。」
と、相も変わらぬ言葉をくり返した。
 「何を根拠に、そうおっしゃるのですか?」
の言葉を飲み込みながら、
「まだまだかかるんですね。」
と、いつも通り診察室を後にした。

 若い頃から、『牛歩の如くに』という言葉が、何故か気に入っていた。
多感な時代、思うようにならない想いや願いに対して、
「それでも、前へ進んでいる」
と、自分を励まし、支えた言葉だった。

 昨年の冬、突然みまわれた右手の機能障害と感覚麻痺、
そして、術後の痛みと痺れ。
 遅々として回復の兆しさえない右手へのいら立ちに、
久しぶりに『牛歩の如くに』の言葉が蘇り、私の心を鎮めてくれた。
そして、きっと全快する日がくると信じさせてもくれた。

 そして、この右手を癒やしてくれている、もう一つ、
それが温泉である。
 月1、2回は、日帰り温泉に、家内を誘う。
お気に入りは、近隣の町が運営している海辺の温泉施設である。

 何といっても、この辺りの日帰り温泉の中では、
断トツに浴室が広い。
 その上、前面を大きなガラスで区切られた湯舟からは、、
その先の噴火湾が、大きく一望できた。
 海面がキラキラとまばゆくゆらめき、その広大な輝きだけでも、
沈みかける私の心を十分に慰めてくれる。

 その上、温泉は神経痛に効果がある。
私はそんな適応書きだけではなく、
この1年間の経験で、心からその効能を信じるようになっていた。

 だから、しばしば大仰に、
明るい日射しを浴びた湯舟に、どっぷりと浸かりながら、
「温泉こそ、この右手への癒やしのオアシス。」
なんて、一人呟いたりもしていた。

 それに加え、温泉は、いばしば私を温めてくれる物語に、
遭遇させるくれる場でもあった。

 3度目の冬を越えようとしていた頃だ。
今までに比べ過ごしやすい冬だった。
 それでも、待ち望んでいた
『光の春』の言葉に、相応しい日射しの日だった。

 潮騒が聞こえる温泉の駐車場に、
隣り町にある老人施設の、大型バスが止めてあった。
 「施設のお年寄りが入浴に来ているのかな。」と思った。

 私は、いつものようにバスタオル等入った袋をぶらさげ、
家内とは、湯上がりの時間を約束し、脱衣室に入った。
 いつになく賑やかな声が飛び交っていた。
私は、そんな声を横切り、脱衣ロッカーに向かった。

 何人もの老人の湯上がり姿があった。
そして、年若い介護士がそのそばにいた。
 賑やかな会話は、その介護士に向けられ、
「明日は、確かゲーム大会だったね。」
「いや、それは明後日でしょう。」
「そうか、そうか。そうだった。間違えた。楽しみだなぁ。」
と、次に笑い声が続き、
また、似たような言葉がくり返され、
若い介護士がそれに応じ、再び笑い声が続いた。

 一つ一つの言葉が、やけに明るく響いていた。
広くて明るい温泉に入り、気分爽快なことが、
飛び交う会話から感じ取れた。
 現職の頃、宿泊学習での子供たちの入浴場面を思い出した。
友達みんなと入るお風呂の、
嬉しさに溢れた甲高い話し声に、それは似ていた。

 浴室に入ると、2、3人のお年寄りごとに、
これまた介護の若者がついていた。
 思い思いゆったりと湯舟に体を沈めていた。
まさに至福の時といった感じだった。

 久しぶりの温泉を楽しむ。
そんな光景がそこにもここにもあった。
 ゆっくりと流れる湯煙の中で、
年老いた体が、温もりに満たされていた。
 いつにも増して、穏やかな温かさが、
浴室いっぱいに広がり漂っていた。

 私は、そんな湯舟の一角で、体と右手を温めながら、
経験のない安らぎのお裾分けを、頂いた想いに包まれた。
 何度も何度もゆったりと深呼吸をした。
心の奥深くまで、潤いが運ばれた。

 湯上がり後、休憩室でいつも通り、
汗を拭いながら、ソフトクリームをほおばった。、
 そこでも、湯上がりの上気した顔で、
廊下を行き交う老いた女性たちを見た。
 腕を支えて貰いながらの人、
後ろから見守られながらも、一人で一歩一歩と進む人と、
それぞれだったが、
かけ合う声は、みんな明るく華やいでいた。
 嬉しさのあふれた、精一杯の声と手振り、身振りには活気があった。
 
 帰り道、ハンドルを握りながら、
いつになく気持ちの軽やかさを覚えた。
 老人施設での暮らしを離れ、
日帰り温泉での一日が、あんなにも楽しい時間にしている。

 そんなお年寄りを間近で見ることができた。
偶然だったが、「ご一緒できてよかった。」
 温泉の温もりに加え、それにも劣らない温かさに触れた。

 沈みかけた私の心に、南風にのった春が訪れた。
 『光の春』に相応しい贈り物だった。




アヤメが満開のときを迎えた(水車アヤメ川公園にて)
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外国人アレルギー

2015-02-05 21:17:09 | 出会い
 高校2年の修学旅行は、東京そして新幹線で京都・大阪まで行った。
 東京では、丸一日の自由行動があった。
級友4人で、それぞれ行きたい所を出し合い、そろってそこを回ることにした。

 私は、上野公園以外の名所を知らなかったので、
「俺の行きたい場所は」と、真っ先に言った。

 宿泊場所が近かったので、いの一番でそこへ行った。

 忘れもしない。山手線を上野駅で降り、公園口改札を出て、
東京文化会館前を4人そろって通り過ぎようとしていた時だった。
男女二人の外国人に、突然話しかけられた。
 その二人は私を見た。見上げるような大きな男の目と私の目が合った。
笑顔で私を見ながら、どうやら同じようなことをくり返し言っていた。
 私は、すぐ舞い上がってしまった。私の周りだけ急に時間が止まってしまった。
きっと英語だったのだろうが、何も聞こえてこなかった。
青い目をした白人を、こんなにも近くで見るのは初めてだった。
私は、オドオドと級友に寄り添っていった。

 級友の1人が、何やら言葉を交わし、笑顔で握手をした。
「ここは東京文化会館かって訊かれたから、そうだって言っておいたよ。」
 明るい表情の彼とは反対に、私は、折角楽しみにしていた自由行動の日が、
沈んだ気分の一日になってしまった。

 ちなみに、その日外国人に対応した級友は、後々新聞記者になり、
海外特派員として随分と活躍した。
それに比べ私は言えば、あの一件ですっかり外国人アレルギーになり、
英語をはじめ、外国の文化すべてに興味を失ってしまった。

 だから、ちょうどバブル期の頃だろうか、
盛んに教員海外研修が行われ、私も度々お誘いを受けたのだが、
理由にもならない言い訳をして、ことごとくお断りをしていた。

 ところが、教頭なって初めて着任したS小学校は、
当時、東京都K区で唯一の国際理解教育推進校であった。
 K区等がお招きした外国からのお客様で、学校視察が計画される場合、
そんな時は、決まってS小学校がその要請を受け入れていた。
 私が着任したその年度だけでも、6カ国の方々が来校された。

 教頭は、その受け入れの窓口であった。
歓迎セレモニー、学校の概要説明、
学校施設や授業等の視察など、その対応の先頭に立った。

 着任してまもなく、ウイーン市の一行5名が来校した。
K区の重職の方々も大勢随行された。
 分刻みのスケジュールが事前に組まれ、
私はそれに沿って、その場を切り盛りした。

 外国人アレルギーの私には、最も避けたい仕事だった。
しかし、それはできないことだった。
 東京文化会館前のあの日の光景を思い出し、
オドオドしてしまう自分が、
20年の歳月が過ぎてもまだ、私の胸に歴然と生き残っていた。

 私は、そんな胸の内を誰にも気づかれないよう、
何度も何度も深呼吸をした。
そして、精一杯の明るい顔を作った。
 「外国から来た人は、その時出会った何人かの日本人を通して
日本を知ることになる。」
この言葉を、何度も思い出し、私を励まし続けた。

 ところが、その日、私のアレルギーを軽減させてくれることがあった。

 5名の方を授業参観へと案内した。
 1年生から6年生までの全授業をご覧頂くのだが、
そのガイド役を私が務めた。

 全く未経験のことであった。
足がわずかに震えていた。
 私が先頭になり、すぐそばに若々しい女性の通訳さんがついてくれた。
まずは1年生の教室へと進んだ。

 教室に入り、さっそく
「ここは1年生、7才の児童22名が学んでいます。」
 すると、隣にいた通訳の女性が、
突然5名の方に向かってドイツ語で話し出した。

 私の言葉がドイツ語になっていくことに驚いた。
 そして、分かる訳もないのに、夢中でそのドイツ語に聞き耳を立てた。
 通訳さんが、急に振り返り私を見た。
ハッとしたが、ガイドの続きを言うのだと気づいた。
しかし、今、何をどこまで話したのか思い出せなかった。

 小声で、「私、何って言いました?」と、通訳さんに尋ねた。
怪訝そうな表情を浮かべながら、「年齢と人数です。」と、教えてくれた。
 「今は、国語の時間で最も簡単なひらがな文字を学んでいます。」
と、何事もなかったように私はガイドを続けた。
すかさず、通訳さんがドイツ語で伝えた。
そのドイツ語に私は、また夢中で聞き耳を立てた。
再び、どこまでガイドしたのかを忘れ、通訳さんに尋ねた。

 何度もそれを繰り返してしまった。
とうとう隣の通訳さんが、
可笑しさを堪えきれずに、笑い出してしまった。
 私は、恥ずかしさと申し訳ない気持ちで、
次の教室に移動する廊下で、通訳さんに謝罪した。
通訳さんは、私の馬鹿げた言い訳を聞きながら、またまた笑い出してしまった。

 その時、私達の様子を見ていたウイーンからのお客様の一人が、
明るく話しかけてきた。

「楽しそうな訳を教えてと、言ってます。」
通訳さんは少し困り顔だった。
私が取りつくろう言葉を見つけられずにいると、
通訳さんが、笑顔でその方に話し出した。

今度は、私が困り顔になった。
しかし、その方は、時折笑い声を交えながら、何やら通訳さんに言い、
明るい表情で、何度も私を見た。
 「ありのままをお話ししましたところ、この方も同じで、
どんな日本語になるのかと、つい言ったことを忘れてしまうそうです。」
「外国の方とお話しすることに慣れてないので。」
と、伝えてもらうと、
「私も同じです。」と笑顔が返ってきた。

 初めて、外国人と気持ちがつながった。
 それが、外国人アレルギーから脱皮する第一歩になった。

 お客様が学校を去られるとき、それぞれ握手をしながら別れを惜しんだ。
「私も同じです。」と笑顔を交わした方が、「ダンケシェーン」と私の手を握ってくれた。
私は、何もためらうことなく、「ダンケシェーン」と、明るく返すことができた。




昭和新山の隣に 真っ白な蝦夷富士(羊蹄山)が





 
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北の温もり  沐冬

2015-01-14 09:32:46 | 出会い
 右手の痛みと痺れ、麻痺が少しでも和らいでほしい。
そんな思いで、月1、2回の日帰り温泉通いが続いている。

 よく行くのは、車で30分程のT温泉である。
 大浴場は、一面の大きなガラス張りで、
晴れた日は噴火湾の大海原がキラキラと輝いてまぶしいくらい。
特に、冬のこの時期は日射しが、広い浴場の奥まで届き、
より一層開放的な温泉にしてくれている。

 いつものように入浴後は、
その温泉の食堂で、お気に入りの醤油ラーメンを注文し、席に着いた。

 その日、珍しく家内が雄弁だった。

 女湯で見た素敵な出来事を、私に教えてくれた。

 大浴場に入ると、10名前後がそれぞれ湯舟につかったり、
体を洗ったり、洗髪したりしていた。

 入ってすぐの円いジャグジーのついた浴槽のそばで、
お年寄りが一人座り込み、手桶でその浴槽の湯を汲み、体にかけていた。
そして、また湯を汲み体にかける。
何度も何度も、それを繰り返していた。

 家内はちょっと気になったが、
横を素通りし、大きなガラス張り近くの広い浴槽に入った。

 しばらくして、後から浴場に入ってきた40歳過ぎの方が、
ジャクジーのそばのそのお年寄りに声をかけた。

 「お婆ちゃん、どうしたの。お風呂、入らないの。」
 「足が悪いから、入れないんじゃ。ころんだら、大変じゃろ。」
 「あら。」
 「いつも、こうして温泉かけて、温まっているんじゃ。」
 「お婆ちゃん、入れてあげようか。」
 「………。」
 「大丈夫! 私ね、介護士の資格もっているよ。
毎週2、3回は入浴の介護してるから、安心して。」

 二人の会話を家内は、浴槽につかりながら背中で聞いていた。

 「お婆ちゃん、お風呂に入れて、どう。
私、S子と言います。お風呂から出たくなったら、呼んでちょうだい。
あそこで、体洗っているから。」
 「ありがとう。やっぱり、気持ちいいわ。」

 それから、どれくらいしてからだろうか、
S子さんを呼ぶお婆ちゃんの声がした。
 「今、行くからね。待ってて。」
 S子さんは、急いで体の石けんを流し、
お婆ちゃんの所に行った。

 そして、お婆ちゃんが浴槽から上がるのを手助けしながら、
「お婆ちゃん、私は毎週火曜日のこの時間は、ここに来てるから、
その時ならお風呂に入れてあげれるから、おいで。」
「いいの。すまないね。」
「かまわないよ。」

 その後、二人の会話は次第に遠くなり、家内には聞き取れなかった。
 だが、ガラスの向こうの真冬とは裏腹に、
明るい日射しと温かい温泉のゆっくりと流れる湯煙の中で、
その大浴場にいた人みんなの、
心までをも温もりで包んでいたのではないだろうか。

 移住して3回目の正月を迎えた。
新天地での暮らしは、今も様々な驚きを私にくれる。
そして、その多くは私の心を熱くし、
今日を生きるエネルギーに変えてくれている。
 ところが、
「したっけさ」 「なして」 「そうだも」 「だめだべさ」等々、
耳慣れない北の言葉に、時として心がざらつく時がある。
やがて慣れるのだろうが、
私にはその言葉の数々が荒々しいものに聞こえ、
言葉の主まで雑な人のように思えていた。

 しかし、家内から聞いた
お年寄りと入浴を手助けする女性のやり取りは、
まさに北の女性の真骨頂。
人肌の温もりまで、私に伝えてくれた。





真冬でも竹は緑色(伊達ならではかな)
コメント
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