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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『わたし遺産』大賞から

2017-03-10 22:27:25 | 出会い
 三井住友信託銀行が主催する
『私が綴る、未来に伝える物語。「わたし遺産」』
の第4回結果発表があった。
 400字に込められた8236作品の中から、
3つの大賞作と選定委員のコメントが朝日新聞にあった。
 その2つに、心がふるえ、知らず知らず熱いものがこみ上げた。

 実は、数日前から、インフルエンザで寝込んでいた。
そんな霞のかかった頭をクリアーにしてくれた。
 

  ◎ たった、それだけで
           宮崎 祐希(長野県27歳)

 私の睫毛がちょっと好きだ。
 19歳の夏、深夜。うまくいかない世界のことや、
今までの悲しい記憶や、形を成さない不安や寂しさに
堪えきれずに大泣きして、誰でもいいから助けて欲し
いと警察署へ電話した。今思えばとても非常識だけれ
ど、当時の私は粉々になる寸前だった。
 サイレンを消したパトカーに乗り、取調室のような
所でばかみたいに泣きじゃくった。もういなくなりた
い。最後に私がぽつりと言うと、向かいに座った警察
官の男性が、
 「睫毛長いじゃん。すっぴんでその長さなんて、珍
しいからもったいないよ。」
 いきなり睫毛の話が来るとは夢にも思わず、ふあ?
と変な声が出た。でも自分の何かを誉めてもらえたの
は随分と久しぶりで、勝手に涙が出た。先ほどのとは
全く違う涙が。
 今でもあの言葉をふと思い出す。睫毛にそっと触る
と、何だか全部大丈夫な気がする。


   ◆深夜、誰も知らない命の物語
            選定委員:大平一枝(ライター)

 「ごめんなさい。死にたいんですけど、
 どうしたらいいですか」

  深夜2時。19歳の祐希さんは地元の警察署の生活安全課に、
 泣きながら電話をした。
 若そうだが、穏やかな声の男性が出た。
 「迎えに行くから、とりあえず落ち着き」
 「あの……、サイレン鳴らしてもらったら困るんですけど」

  家族に内緒でそっと家を出て坂道を下ると、
 パトカーが停まっていた。
 「宮崎さん?」「はい」「乗り」。

  スチールの机と椅子がある署の個室で、
 警察官は熱いココアを出してくれた。
 そして黙って最後までうんうんと聞いてくれた。
 「説教も、いい悪いも言わない。
 最後まで話を遮らずに大人に話を聞いてもらったこと、
 私、あれが初めてでした」。

  で、27歳という警官が最初に言ったのが
 「睫毛長いじゃん」。
 9年前の話だ。
 今、どの警官もそうするのか、正しい法規を私は知らない。
 ただ、どう考えてもそれは正義そのものだ。
 誰にも褒められず、認められず、やることがうまくいかず、
 友達もいない。
 生きる意味を見失った少女に、全力で、だけどさりげなく、
 精一杯真摯に向き合った。
 睫毛は、「あなたは生きる価値のある人間だよ。」
 の言い換えだと彼女にもわかった。
 誰も知らない深夜の一室で、
 警官はたしかにひとつの命を救ったのだ。
 夜明け前に帰宅した祐希さんは思った。
 ーーー夢だったのかな。

  その警官は見事だ。
 命を救った挙句、
 時を経て大賞という贈り物まで彼女にしたのだから。
 名もなき公人の、
 隠れた尊い行為に光を当てた祐希さんに、
 最大の賛辞を送りたい。


   *私の想い

   粉々になる寸前、深夜の大泣き。
  そして、次は取調室で若い警官を前にして、
  泣きじゃくった。
   その後、彼女は、警察官のひと言を聞き、
  それまでとは全く違う涙を流す。

   選定委員は記す。
  「深夜の一室で、警官はたしかに
  ひとつの命を救ったのだ。」

   私は、言葉がもつ力を再認識した。
  しかし、その言葉に、驚きを隠せない。
  「睫毛長いじゃん。
  すっぴんでその長さなんて、
  珍しいからもったいないよ。」

   どう逆立ちしても、
  私からは出てこない言葉である。
   瑞々しい言語感覚に、驚いた。
  
   それもそうだが、選定委員は言う。
  『今、どの警官もそうするのか、
  正しい法規を私は知らない。
  ただ、どう考えてもそれは正義そのものだ。』

   ともすると、今時、
  年齢に関係なく、睫毛と言えども、
  女性の容姿についてコメントすることは、
  薄氷を踏む行為のように思える。

   しかし、『精一杯真摯に向き合う』警察官の言葉を彼女は、
  「あなたは生きる価値がある人間だよ。」
  と、理解し、今もそれを力にしている。 
   
   ひとつの言葉がこんなエネルギーを持っているのだ。
  まさに正義である。

   それから9年後、救われた彼女は、
  「名もなき公人の、隠れた尊い行為に
  (大賞という)光を当てた」。
   凄い。 


  ◎ 「卒業」証書
           高橋 彩(神奈川県27歳)
 
 「右の者は高等学校普通科の課程を修了したとは認
められなかったがー」私の卒業証書は、こんなふうに
始まる。早春、薄い光の差し込む国語科準備室で、私
はその手書きの証書を受け取った。私と恩師二人きり
の卒業式だった。大学受験を前に挫折し不登校になっ
た私に、「ちょっと出てこないか」と電話してくる人
だった。準備室は私を拒まず、進学校唯一の退学者と
なった私に、先生は居場所をくれた。「-困難な状況
と闘い、最善の努力をし続けた」と続く証書は、私と
いう存在の証書でもあった。塾で「先生」と呼ばれる
今、高校生には、十八歳だった自分のことを話す。あ
のとき言葉にならなかったことも、ゆっくり話す。そ
れがほんのわずかでも彼らの背中に手を添えること
になればと、話す。あの頃先生がそうしてくれたよう
に。疲れて帰宅する深夜、つぽん、と筒を開けると、
先生の達筆が見える。十八歳の私も手を振ってくれる。
私の遺産は、今も机の上にある。


   ◆教え子と「時をともに過ごす」
            選定委員:栗田 亘(コラムニスト)

  卒業証書は、貴重です。
 でも、のちのちくり返し読むものではない。
 文面は卒業生全員、同一ですし。
 しかし、高橋さんの「卒業」証書は違います。
 実物を読ませていただいて、
 ボクは、不覚にもウルウルッとなりました。
 ≪……最善の努力をし続けた
 よって卒業生と等しいものとここに証する
      第五十期生正担任団教諭 平高 淳≫

  世界にひとつだけの「卒業」証書です。

  受け持ちだった平高先生によれば
 「本物の卒業証書と同じ紙質の紙を選んで、
 書体も本物に似せて書き、学校印のところには、
 むかし私が彫った(篆刻)作品を押した」そうです。
 その学校印(!)は、古代中国の老子の言葉を引いて
 ≪孔徳之容≫と刻まれています。
 「すべてを受け入れる器」といった意味のようです。
 ひょっとすると本物の学校印より上等じゃないかしら。

  誠意に満ちたパロディー、ともいえますが、
 「先生」という立場でこれを制作するには、
 ちょっとした覚悟がいるはずです。
 平高先生はそれを軽々とやってのけた。
 そして同学年のほかの担任の先生たちも
 「異議なしっ」だったそうです。

  高3になった春、高橋さんは挫折し、
 登校できなくなった。
 けれど先生は高橋さんを信頼し、
 高橋さんも先生を信頼した。
 国語科の準備室で師弟はどんな話をしたのでしょうか?
 「たいした話はしてません。
 ただ、教室に来られなくなった彼女と
 <時をともに過ごす>
 のを大切にしようと心がけていました」
 と平高先生はおっしゃいました。


   * 私の想い

   ここでも、公人に光が当たっている。
   進学校唯一の退学者である教え子に、
  「ちょっと出てこないか」と電話し、
  国語科準備室という居場所を提供した高平先生。

   その先生手作りの「卒業」証書が、
  彼女の遺産となった。

   その証書には、
  『…困難な状況と闘い最善の努力をし続けた
  よって卒業生と等しいものとここに証する』
  とある。

   選定委員は記す。
  『誠意に満ちたパロディー、ともいえますが、
  「先生」という立場でこれを制作するには、
  ちょっとした覚悟がいるはずです。』

   学校現場や教師の社会性を、
  十分に理解した一文である。
   だからこそ、
  平高先生の子どもに寄り添った力強いあり方に、
  喝采である。
 
   加えて、学校印代わりにした、
  先生が彫った(篆刻)作品≪孔徳之容≫
  (すべてを受け入れる器)の意味合いが、
  これまた先生の想いを伝えており、私の心を打った。

   彼女は言う。
  「卒業」証書は、「私という存在の証し」。
   そして、平高先生は言う。
  「彼女と <時をともに過ごす>のを
  大切にしようと心がけていました」。
   その2つが、私の中で重なった。
  
   教師と教え子が、ずっと時をともに過ごすこと。
  本当の卒業証書の姿を見せてもらった。




   明日にも 福寿草が
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教育エッセイ『優しくなければ』より ②

2017-01-05 21:01:20 | 出会い
 明けましておめでとうございます。
今年も、いや今年こそ、
良い年でありますように、と願っています。

 さて、今日は、最初に今年の年賀状の詩を記し、
次に、昨年始めのブログ同様、
私の教育エッセイ『優しくなければ』から、
2つを抜粋します。


     遅 い 春

 寒々とした小枝の新芽が弾け
 息吹きを取り戻したのを何度も見てきたから
   どうしてそんな無茶をと問われて
   手が届きそうな気がしてと答えてみた
 遅咲きの桜が並ぶ湖畔ににぎわうランナー
 それに飲み込まれ先が見えない私

 やがてそこら中の新緑が陽を受け
 色とりどりに咲き誇るのを何度も見てきたから
   途中でリタイアする勇気を持ての助言に
   必ずゴールインをと意気込んでみた
 ガラス色の細波のそばをまばらなランナー
 それでも重くなった足で前を見据える私

 初めての42、195は完走後に号泣さと先輩ランナー
 その感情を走路に置き忘れてきた私
   潤んだ声で「頑張ったね」の出迎えに
   言葉のない小さな微笑みが精一杯
 いつしか洞爺の湖面を流れる春風が肩を
 初めての心地よさにしばらくは酔っていた


  
    対角線を進まない

 もう20年(執筆当時)近くも前のことですが、
ある時、多摩動物園のチンパンジーの飼育係の方から、
お話を伺う機会に恵まれました。

 多忙な時間をさいて、私共のために、
小1時間程お話をしてくださるとのことで、
はるばると、八王子に近い動物園まで足を運びました。

 園内の約束の場所で待ち構えていると、
歩く格好から顔の表情まで、
どことなくチンパンジーに似た方が現れ、
思わず忍び笑いをしてしまいました。

 「チンパンジーの飼育係になって8年になりますが、
最近富みに似てきたようで、妻からも
『あなた、人間離れしてきたわ。』
と言われるんです。」

 私共の大変失礼な反応を、そんな風に軽くかわしながら、
彼は、大好きなチンパンジーの紹介に、
熱弁をふるってくれました。

 その一節に私は強く心をひかれました。
それは、チンパンジーが寝室にいる時に、
飼育係が近寄っていく場面のことです。

 チンパンジーは大人になると、人間の成人よりも大きく、
腕力などは人間のおよびもつかないものになります。
 赤ちゃんのチンパンジーを、
チンパンジーのイメージとして固定していた私は、
まず、その思いをすてる所から話を聞いたのです。

 チンパンジーの寝室は、当然鉄の檻ですが、
一頭ずつ長方形に仕切られ、
床はコンクリートがむき出しになっています。

 一方の鉄柵の角に、飼育係が出入りする扉があるのですが、
チンパンジーは決まって、その扉と正反対の片隅に、
毛布を敷いて寝るのだそうです。

 時々、体調を崩してしまうことがあり、
どうしてもその寝室へ入って、
直に様子を見なければならない時があるそうです。
 そんな時、飼育係の方は扉を開け、
チンパンジーに近づいていくのですが、
私はその近づき方に教えられました。

 扉と正反対の片隅にいるチンパンジーに近づく時に、
決してストレートに対角線を進まない。
 鉄格子ぞい、壁づたいに、
あえて遠回りをして、近づいていくのです。

 チンパンジーは、
顔馴染みの飼育係が寄ってくるのに気づくと、
そのまま近づいてもいい時は、動かないが、
近寄ってほしくない場合は、
近づいてくる飼育係とは反対の方向へ移動するのです。

 しかし、仮に対角線を進んだら、
もし近寄ってほしくない気分でいる場合、
部屋の角にいるチンパンジーはどんな行動を取るでしょう。
 移動する場所がないのですから、
残された方法は威嚇するか、
それとも飼育係にとびかかるかになるでしょう。

 決して対角線を進まないというこの話は、
チンパンジーと飼育係のことに限らないように思います。
 私たちが常に心して良好な人間関係を、
築いていく基本のように思えます。
 そして、子育てに携わる者にとって、
極めて重要な教えだと私は思います。



    生きる原点

 ある年、長崎に原爆が投下された日に、
NHKで30分程のドキュメンタリー『しげちゃんにあいたい』が、
放映されました。

 昭和20年8月9日、小学校1年生のみっちゃんとしげちゃんは、
たまたま病院の屋上で遊んでいて、
その帰り、エレベーター付近で被爆します。
 みっちゃんは親御さんも何とか生きのびましたが、
しげちゃんは両親が亡くなり孤児となり、
行方知れずになってしまいます。

 あれから63年(放映当時)がたった今も、
みっちゃんは、あの時に離ればなれになった
しげちゃんを探し求め、
「しげちゃんにあいたい。」と言い続けているのです。

 どこかから、じげちゃんらしい人の情報が入ると、
足繁くその情報を頼りに遠方でも確かめに行くみっちゃん。
そして、しげちゃんらしいわずかな手がかりにも、
表情を明るくするみっちゃん。

 私はその映像を見ながら、
もう何年もご無沙汰をしているH氏のことを思い出していました。

 H氏は、私と顔を合わすと必ず、
「先生、ぜひ浦川原に足を運んでください。」と、言われます。

 その地名は、皆さんには馴染みがないと思いますが、
新潟県上越市郊外にある「農村」といっていいかと思います。

 この村に、私が以前勤務していたS小学校の卒業生H氏が、
『おいで山荘』という別邸を設けているのです。

 H氏は、とうに70才(執筆当時)を越えた方ですが、
H氏をはじめとする当時のS小学校の児童は、
終戦間近の昭和19年頃、浦川原村に学童疎開をしました。

 それが縁で、S小学校は村の小学校と姉妹校提携をして、
今も盛んに学校間交流をしております。

 この交流が決して絶えることがないように、
そして学童疎開という悲劇が風化することのないように、
そんな願いを込めて、10年前(執筆当時)にH氏は私財を投じて、
浦川原の旧農家を買い取り、山荘を開きました。

 私は、H氏にお会いするたびに、
小学校6年生、12才の体験を、
昨日のことのように語る姿に触れ、
H氏の生きる原点が、学童疎開という体験にあることを、
思い知らされてきました。

 人は誰でも、それぞれの長い人生の中で、
その人の生き方を、決定づけるような
出来事や事柄に出会うものです。
 それを、私はその人の『生きる原点』と言ってきました。

 みっちゃんやH氏のような戦争という強烈な出来事ではなくても、
小学校生活を通して、そんな原点を持つことになる子どもも、
きっといると思います。

 そう考えると、私たちの一つ一つの行為の重大さに、
身の引き締まる思いがします。





 氷点下の伊達漁港・空は少しだけ夕焼け
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私のゴルフデビュー

2016-09-10 20:00:55 | 出会い
 教頭になって初めて着任した小学校は、
東京の下町を代表する有名校だった。
 地域との結びつきが強く、
私は、保護者をはじめ、
町の方々から温かく迎えていただいた。

 着任して早々、
映画でも名の通った参道を歩くと、両側のお店から、
「教頭さん、どこに用事だい?」
と、すぐに声が飛んできた。

 教頭1年生、とまどいは毎日くり返された。
肉体的にも精神的にも、いつもいっぱいいっぱいだった。

 そんな時の夜、先生方が退勤した時間を見計らって、
電話が鳴った。
 「教頭さん、遅くまで仕事のようだね。
どうだね、今日はその辺で切り上げては。
2,3人でいつもの店でやってるからおいでよ。待ってるよ。」
 私の返事もそこそこに電話が切れる。

 顔馴染みにさせてもらった小料理屋へ急ぐと、
人のいい笑顔で、町の人たちが迎えてくれた。
 ちょっとしたつまみとビールで、
30分も楽しい会話が弾んだ頃、
「教頭さん、明日もあるからその辺でいいよ。」
と、送り出してくれる。
 そんな温かさに、私はどれだけ力を頂いたか、
計り知れなかった。

 間もなく1年が過ぎようとしていた頃のことだ。
 春休みに入ったら、町の有志による
ゴルフコンペがあると知らされた。

 「お世話になっている方々ばかりです。
私も参加します。教頭先生も頑張ってね。」
 女性の校長先生は淡々と言った。

 「私も参加するんですか。それは無理です。」
と、返したかった。
 ゴルフなど、とんでもないことだった。
まったく経験がない。
 それどころか、ゴルフには悪いイメージがあった。

 高校生の時だ。
学校から歩いて10数分のところにゴルフ場があった。
 1929年(昭和4年)北海道で3番目に開設された、
イタンキゴルフクラブ(その後室蘭ゴルフ倶楽部に改名)である。

 秋の定期試験の後、昼下がりだった。
心地よい陽気に誘われ、下校の回り道に、
友人と二人、そのゴルフ場が見下ろせる高台で腰を下ろした。

 なだらかな傾斜地に、真緑色の芝生がきれいに広がっていた。
白球を打つ音がして、大人がそこをゆっくりと歩いていた。
 日差しも風も静まりかえっているように感じた。

 「あれは、金持ちの道楽だ。」
隣の友人が、何かを吐き捨てるように言った。
 毎日、忙しく立ち働いている両親や兄と比べた。
なだらかな芝生の草原をゆっくりと進む姿との差に、
友人同様の感情が湧いた。

 「金持ちの道楽か。」
その言葉と一緒に立ち上がり、二度とふり返らなかった。
 私のゴルフへの最初のイメージだった。

 だから、
「ゴルフには、悪いイメージしかありません。
私は参加しません。」
 そう言い切るとよかったのだが、
その時、私が校長先生に言ったのは、
「ゴルフの経験がありません。遠慮する訳には。」だった。

 「お世話になっている方々でしょう。
大丈夫。教頭先生は運動神経がいいから。」
 そう言いながら校長先生は、
ゴルフ経験豊富なご主人に電話をした。

 そして、その週の日曜日に、
練習場でご主人のレッスンを受けることになった。
 翌週には、校長ご夫妻と弟さん、そして私で、
ラウンドする計画まで立ててしまった。

 クラブセットとシューズは、
ご主人のお古を譲り受けることになった。
 もう、その流れに乗るしかない状態が整った。

 日曜日、初めてご主人にお会いした。
練習場にも初めて入った。
ゴルフ手袋だけ購入した。

 クラブの種類、握り方、そして立ち方、スイングの仕方等々、
次から次とレッスンが続いた。
 腕と肩に力が入り、難しさだけで、汗が体中を流れた。

 2時間余りの練習で、わずか数球、
ゴルフボールが乾いた音と一緒に飛んでいった。
 その時だけは、心地よさが残った。

 翌週、不安だらけのまま、茨城県のゴルフ場に同行した。
高級ホテルのロビーを思わせるようなクラブハウスだった。

 それより何より18ホールの全てに、春の陽が降り、
見事に刈り揃えられた新緑の芝生が、まぶしかった。
 池の噴水が歯切れのいいリズムで水音を奏でていた。
初めて見る素敵な光景だった。
 その雰囲気に、私は酔った。
大きな自然に溶け込んだ緑色を、一人占めしたような心地になった。

 クラブでボールをしっかりと捉えられない、
そのくり返しが、ズーッと続いた。
 手慣れたキャディーさんが、
「次はこのクラブを使ってみては。」
と、力を貸してくれた。
 そして、広々としたゴルフコースを右に左にとボールを追いかけ、
私は、時を忘れた。
 それでも、次第にゴルフの魅力を感じ始めた。

 昼食後のショートコースで、
キャディーさんから7番アイアンを渡された。
 ボールを芯で捉えた。初めての感触だった。
ボールがはるか先のグリーン上に落ちた。
「これだ。この満足感がゴルフなんだ。」

 広々とした芝生の大空間、高い青空とゆったりとした時間、
そこを白球が飛び、定まりのグリーンに落ちる。
それこそが、ゴルフの醍醐味なのだ。
 私のそれは、完璧な『まぐれ』だったが、
それでも、両手を挙げ、喜んだ。
 校長先生ご夫妻と弟さんから、拍手も頂いた。

 帰りの車中は、疲れでグッスリと眠ってしまった。

 『金持ちの道楽』、決して金持ちではない私だが、
そんな私の周りにまで、ゴルフは近寄ってくれた。
 そう思った。

 春休みに入り、
予定通り、町の有志によるコンペがあった。
 私は、優勝候補一人と一緒に回った。
スイングするたびに、
 「教頭、向きが違う。」
 「教頭、ボールを見てろ。」
 「教頭、力が入りすぎ。」
と、口うるさく、叱られた。
 なのに、私は、
「分かりました。」「分かりました。」
と、笑顔、笑顔だった。
 
 



台風10号の爪あと 大きな栗の木が倒れた
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ああ 思い込み

2016-07-01 22:04:15 | 出会い
 (1)
 ここ数日、伊達は海霧が発生している。
聞くところによると、
北海道や千島列島等の夏に見られる自然現象らしい。

 快晴なはずなのに、濃い霧に海も山も街も包まれる。
どうやら海霧は、音までもさえぎるようで、
全てが静寂に覆われた感じがする。
 それはそれで、私の好きな伊達のワンカットである。

 この霧は、海の良質なミネラルを
大地に運んでくるとか。
この適度な湿り気が、農作物の生育にはいいらしい。

 地元では、「ガス」と言い、
「今朝は、ガスが濃いね。」等と、
朝の挨拶代わりにもなる。

 当然だが、海霧の朝は、風がない。
私にとっては、最高のジョギング日和である。
 こんな日は、10キロを走ることにしている。
 
 さて、本題の『ああ 思い込み』に移る。

 最近、本州からも「熊出没」のニュースが頻繁に届く。
しかし、北海道ではこの時期、
毎年このニュースがテレビ、新聞を賑わす。

 数年前には、札幌郊外の住宅地にも、熊が現れた。
北海道最大の都会にして、その有り様である。
 道内では、いつどこに出没しても、
おかしくないのだ。

 この伊達でも、我が家から徒歩30分程度の、
山の中腹で『熊出没注意』の看板を見たことがあった。

 「もしも熊に出会ったら、決して熊を刺激せず、
一歩一歩後ずさりをして、遠ざかるように。」。
 ニュースキャスターはそうしきりに言う。しかし、
「そんなのは無理なこと。でも、命がかかっていたら、
それが唯一の逃げ道と思ったら、やれるかも。」
 そんな自問自答をしてみたりもする昨今である。

 ある朝、同じようなニュースを聞いた後、
ジョギングに出発した。
 海霧が発生し、周りの山々が霧に隠れていた。
まだ車がまばらな舗装路と、
静かな畑道をゆったりと走った。

 私は、市内に10キロのコースを4つ設定している。
この日は、「O牧場コース」と命名している道を走った。
 8キロ走ったあたりで、O牧場の脇を走り抜けるのである。
 
 S字にくねった舗装路の緩い上り坂の先に、
O牧場の腰折れ屋根の牛舎はある。
 私が走る道とその牛舎の間には、
何段にも積まれた牧草ロールと牧草地があった。
 辺りに民家はなく、畑とビニルハウスだけがある。
 
 その日、S字を曲がり終えると、
うっすらと海霧に包まれたO牧場が見えた。

 緑色の牛舎と真っ白な牧草ロールの山が、
霧にぼやけていた。

 そこでだった。
 手前の牧草地の端に、
こげ茶色をした四つ足の動物が、ま横を向いていた。

 熊出没のニュースが、脳裏をよぎった。
「エッ。熊!」
足がもつれそうになった。

 「こんなところに、熊が。いや、そんな訳ない。」
そうは思うものの、
「いつ、どこで出会っても…。」と。
 「このまま、走って近づくのは危険だ。」
動悸が大きくなった。

 「霧でよく見えない。」
「熊のようだ。いや、そんなはずない。」
「しっかり見てみよう。
そのためには、もう少し近くまで。」

 何げなく走りつつ、O牧場の脇まで行くと決めた。
「もしも、本当に熊ならどうする。」
 そんなことを思いつつ、
霧の中のごげ茶色をじっと見ながら走った。

 「熊か。熊か?」
「そんなはずない。」
「大きさは確かに……。」
「色も確かに……。」

 霧が少しだけ晴れた。
「うーん?熊にしては足が長いぞ。足、細い!
なに、尾っぽが。」

 「熊じゃない。何だ。なんだ。あれは?」
もっと近くまで、走った。
「ポニー、じゃないか。」

 そのまま、いつも通り、
コースを走り抜け、帰宅した。
 家内に、そのままを報告するも、
あの緊迫感が伝わらない。 

 ちょっとイライラしながらも、
「ああ、思い込みでよかった。」
そっと胸をなで下ろした。


 (2)
 2つ目は、「熊出没」とは全くかけ離れた
『ああ 思い込み』である。

 私は、再任用校長を退いた後、
1年間だけだが、区教委の教育アドバイザーとして、
若手教員を育成する仕事をした。
 そのため、某小学校の一角にある教職員研修室に、
週4日出勤した。

 そこは、JR駅からバスで10分、
徒歩なら25分の所にあった。
 私は、健康のためと称して、往復を徒歩にした。

 駅から10分も歩くと、川を改修した親水公園があった。
朝夕の徒歩通勤には、とても快適な道だった。

 その思い込みは、駅から親水公園までの、
人通りの多い駅前通りでのことだった。

 通りの両脇には、大きなホテルやコンサート会場、
そして反対側には、コンビニや美容室等が軒を並べていた。
 その1つに、定食を主とした
24時間営業のレストランがあった。
 私は、毎朝、その店の前を定時に通過した。

 その時間に、必ず、そのレストランに入る女性がいた。
どちらかと言えば、地味な服装の中年女性で、
いつも同じ手提げ鞄を持っていた。

 私とは反対方向から来て、その店のドアを押した。
いつ頃からか、しっかりと顔も覚えた。
 物静かで、まじめな感じがした。

 毎朝同じ時間に、その店に入っていく様子を見て、
「ここで朝食を済ませてから、どこかに出勤するのだ。」
と、理解した。
 ちょうど、女性が一人で朝食をとるのにふさわし感じの、
明るいレストランだと思った。

 そんな朝食習慣も、大都会での一人暮らし女性には、
珍しくないパターンなのだろうと納得した。

 しかし、それにしても毎朝同じレストランに通い、
いったい何を食べているのだろう。
 私にとっては、全く関わりのないことだが、
通勤の道々、時にはそんなことを思いつつ、
歩を進めていた。

 半年以上も過ぎた日だった。
 丁度お昼時だっただろうか。
出張からの帰り、珍しくそのレストランの前を通った。

 何気なく、大きなウインドー越しに、
レストランの中を見た。
 すると、そこに毎朝見るあの女性の姿があった。
ビックリして歩を緩めた。

 その女性は、ウインドーのそばのテーブルに近づき、
手に持っていた器をテーブルに置いた。
 「なに、彼女はお客ではなかったのか。」
「ここの、ウエイトレスだったのか。」

 だから、毎朝、同じ時間に店に入ったのだ。
朝食のための入店ではなかった。
出勤だったのか。

 勝手に独身女性の朝食習慣とばかり。
何という勝手な思い込み。
ほどほどにしなくてはと恥じた。


 ◆ 私の人生、(1)や(2)だけでない。
 いろいろと、『ああ 思い込み』が多いように思う。
まったくもって「トホホ…」である。





 ジューンベリーの実が赤くなってきた 
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初めてのクラシック

2016-01-08 19:40:47 | 出会い
 前回のブロクで、私の教育エッセイ『優しくなければ』から、2つを掲載した。
その駄文集の冒頭に、こんな一文がある。



      文化の香り

 私が中学校2年生の時のことです。

 すでに若干多感な時期を迎えていた私でしたが、
音楽のT先生に密かに惹かれていました。
 それは決して私だけではなく、
多くの男子生徒が同じ思いを持っていたはずです。
ですから、それまでさほど好きでも嫌いでもなかった音楽の時間を、
どの子もやけに待ち遠しい時間に感じていました。
 変声期と併せて楽器音痴だった私なのに、
打楽器ならと進んで手を挙げてみたり、
それは今思い出すと滑稽そのものです。

 そのT先生について忘れられないことがあります。
音楽鑑賞の時間のことです。
バッハだ、モーツアルトだと言われても、
坂本九の『上を向いて歩こう』が、一番と思っていた私に、
それはどうでもいいことでしたが、
先生を困らせてはと、おとなしく話を聞くでもなく聞いていました。

 先生は、鑑賞のたびに作曲家や曲の解説を丁寧にした後、
「では、これからレコードをかけますね。」
と、おもむろにLPレコードをジャケットから取り出すのです。
 それはそれは、そのレコードを大事そうに、
左手の手のひらをめいっぱい指までひろげて片手でもち、
もう一方の手にスプレーを持って、
レコード盤にシューと吹く付けるのです。
そして、専用の赤いスポンジブラシでやさしく、
ゆっくりとレコード盤をそっとふくのです。

 私たちは、そんな先生の一連のしぐさをじっと見つめ、
レコード盤がプレーヤーに収まるまで見届けるのです。

 先生は、きっと雑音のない美しい澄んだ音色を聞かせようと、
そうしてくれたのだと思います。
 しかし、そのスプレーがそれ程効果があるものかどうか、
少なくとも私の耳には、それはどうでもよかったのです。

 だが、音楽鑑賞の時のこの一連のT先生のしぐさに、
「文化という香り」を、私は感じてしまったのです。

 私には分からないことでしたが、
音楽を本当に聞き分けることができる先生にとっては、
あのスプレーはすごく重要なことだったのでしょう。
 そう思うと、「T先生のその行動はまさに文化なんだ。
文化ってそういうものなんだ。」

 私は、何にも分からない思春期の初めに、
そうやって文化という言葉と出会ったのです。
                       ≪ 結 ≫



 くり返しになるが、思春期の入口で出会った一コマである。
T先生は、今どうされているのか、全く分からない。
 T先生との出会い、そして、T先生を通して私がハーッと気づいたことは、
今でも、貴重なことだったように思う。

 さて、付け加えたいことがある。

 その曲は、初めて聴いたクラシックではない。
しかし、私の心に残った最初のクラシック音楽である。

 「協奏曲と言って、いつものオーケストラ演奏とは違う音楽です。」
T先生は、そんな説明をしてくださったように思う。

 私は、その曲が始まってすぐに聴き入ってしまった。
今となっては、そのあら筋を思い出すことは難しいが、
その曲を聴きながら、勝手に物語を思い描いていた。
 ストーリーが曲の流れと一緒に浮かんだ。
勝手に、その曲からイメージが膨らんだ。
恋心のようなワクワクする場面が迫ってきた。
心地よい風が吹いていた。青空に真綿のような雲が浮かんでいた。
かと思うと、真っ赤なドレスをまとった女性が、優雅に踊っており、
そこに恋がたきが登場したりもした。

 私は、その曲が流れている間中、自分の居場所も忘れ、
ただ頬杖をつき、放心したように、その劇中にいたように思う。

 演奏が終わりT先生は、「どうでしたか。」と感想を求めたようだった。
何人かが挙手をし、思いを言っていたようだが、
私の耳には届いていなかった。
 そんなことより、私には、その曲の流れるような音色が残っていた。
そして、その曲と一緒に思い描いた物語の映像が、脳裏にあった。

 先生は何を思ったのだろう。突然、私を指名した。
私は、ハッとする間もなく立ち上がり、
「いろいろな物語や場面が浮かんできた。」と口をついた。
 T先生はすかさず、
「聴いていて、笑顔になったり、悲しくて涙が出たりすることがあります。
物語なんで素敵ですね。」
と、私に言ってくださった。
 その日、下校はいつもより心も体も軽かった。

 その曲は、メンデルスゾーン作曲の『ヴァイオリン協奏曲』だったが、
その時、たった一度しか聴いていない。なのにしっかりと心に残った。

 いつ頃だろう、成人してからだと思う。町角か、店先か、レストランか、
どこかで有線からその曲が流れた。
 当時、私に何があったのか、思い出すことはできないが、
間違いなく暗くて重たい気分の時だった。
 一瞬にして、心が高ぶった。晴れた。
久しぶりに聴くその曲に、こみ上げるものがあった。
 あれから、一度も耳にしていないのに、旋律をありありと思い出せた。
力が湧いた。しっかりと励まされた。音楽には力があると感じた。

 以来、たびたびこの曲を思い出した。
決まって、私の力になってくれた。

 つい先日、昨年の暮れのことだ。
今、話題になっている山田洋次監督の映画・『母と暮せば』を観た。

 長崎の原爆で、息子を失った母の、その後の物語である。
母・信子と、亡霊で登場する息子・浩二のもっぱらの話題は、
結婚を約束していた町子のことだった。

 浩二と町子には思い出の曲があった。
それが、なんと『メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲』だった。
 劇場に何度も、ヴァイオリンの澄んだ音色が流れた。

 町子はやがて、生き残って戦地から戻った黒ちゃんと呼ぶ同僚と結ばれるが、
その二人の最初の出会いにも、この曲があった。

 私は、この曲のドラマチックさと
ヴァイオリンの繊細で流れるような美しい調べが、
心を揺り動かし、歩を前へ進める力になることを体験的に知っている。
 だが、山田監督が『井上ひさし氏に捧ぐ』とした映画である。
そのストーリーの柱に、あまたある名曲から
「この曲に。」としたことに、映画を観ながら
驚きと共に、震えるような感動を覚えた。 

 監督とこの映画の音楽担当をした坂本龍一氏に、
この曲を用いた経過を尋ねるすべはないが、
私の初めてのクラシックに、新しいページが加わったのは確かである。





   だて歴史の杜公園の 『大手門』 
コメント
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