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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

心のうち

2014-12-02 20:46:46 | 出会い
 私が、N君を知ったのは、もう30年も前のことになる。
 トータルしても10回程度であるが、
6年生だった彼の学習の様子を見た。
 その年、私は1年間、現任校を離れて研修する機会に恵まれた。
 月1回程度、彼の学校に出向いた。

 初めて教室に入った日、すぐにN君が分かった。
彼は、国語の教科書を左ほほに触れる程近づけ、
左眼だけで物語を読んでいた。
音読の順番がくると、他の子と変わりなく読み上げていた。

 彼は、両眼とも不自由だった。
右眼は、明暗が分かる程度、
そして、左眼はわずかに視力はあるものの、
私たちの半分程の視界しかないとのことだった。
専門医からは、彼の眼は進行性のもので、
両眼とも、やがて光りを失うことになると聞かされていた。

 まだ『ノーマライゼーション』という言葉も普及していない時代だったが、
私は視力に限らず障害をもった子が、
通常の学級で学んでいくためには、
どんな援助が求められるのか、
そして何がどのようにハードルになっているのか等々を知りたかった。

 6年生の中でも体の大きかった彼だったが、
担任と級友の配慮だったのだろう、最前列に席をとっていた。
時々自前のルーペを取り出し、板書の文字を読み、
これまたノートに左ほほをなぞるようにしながら、
その文字を書き写す姿を、
あれから長い年月が過ぎた今でも、鮮明に思い出すことができる。

 彼は、学校生活のほとんどの場面で、
他の子と何の遜色もなく学習活動に参加していた。
家庭科のミシン操作も調理実習も、
多少は先生や友達の援助を必要としたものの、
学習を終えた時の彼の表情は明るく満たされたものだった。

 しかし、唯一体育だけは時折トラブルに見舞われた。

 跳び箱で開脚跳びをしていたときだった。
彼は、自分で安全を確認してスタートすることができないので、
後ろで順番を待っている子に合図をしてもらい走り出していた。
スタートから歩数を数えているのだろう
うまく踏み切り板で足を揃えてジャンプをし、
跳び箱にしっかりと両手をつき、開脚跳びをした。

 ところが、何回目かのスタートを切った時だった。
前の子が跳び箱に足を引っかけてしまい、
数センチ跳び箱が斜めになってしまった。
それに気づかず、後ろの子が彼にスタート合図をした。
 彼は、うまく手をつくことができず、跳び箱に胸を打ってしまった。

幸いケガはなかったが、彼は二度と跳び箱には挑戦せず、
体育館の片隅に座り、両膝を抱えて小さく丸まっていた。

 しかし、次の時間は算数だった。
体操着から着替えた彼は、
跳び箱のトラブルなど全くなかったかのように、
しっかりと背筋を伸ばして席に着き、
教科書をほほにつけ、時々ルーペを取り出し、
挙手をしたりと、いつもと変わりなかった。

 こんなこともあった。
 彼は、後ろの子に合図をしてもらいながら長縄跳びをしていた。
その跳び方は、まったく他の子と変わりなかった。

ところが、隣で同じように長縄跳びをしていたグループが
目標を達成したのだろう、歓声を上げた。

彼が跳んでいた長縄が床を叩く音がかき消されてしまった。
彼は、長縄を引っかけてしまった。
一度目はよかった。そんなことが二度三度と繰り返された。

彼はグループから離れ、
体育館の隅に行き、背を丸くして座り込み、動かなかった。

 でも、次の時間、いつもと何も変わりなく
明るく学習活動に参加する彼がいた。

 担任も級友も、彼のそんな態度を熟知していたのだろう
特別なこととはせず、何の違和感もなく彼といた。

 ただ私は、体育館で背を丸めてふさぎ込んでいる姿と
教室に戻っての振る舞いの違いに驚き、
彼のその心のうちに興味を持った。
しかし、それを探るすべを私は持っていなかった。

 彼とは、何回か言葉を交わす機会もあった。
私に限らず誰に対してもていねいな言葉遣いだった。
 私の問いに、口癖のように「普通です。」を返した。
そして、「頑張ります。そうしてれば、できることがふえますから。」とも。
印象に残ったのは、
「今、やりたいことですか。そうですね。漢字を沢山覚えたいです。」だった。

 私は、彼の学習の様子を知る機会をいただき、
「障害の程度によって学習の困難度は確かに違う。
しかし、それだけではなく、
その子本人の内面、特に意欲や特性によっても
困難度に大きな違いがあるのではないだろうか」
と、考えるようになった。

 そんな1年の研修から、確か7年が過ぎた頃だったと思う。

 出張帰りに地下鉄のホームにいると、
カチカチとホームの床を叩く音が聞こえた。
10メートル程先から、
長い白杖を動かしながら、長身の青年が近づいてきた。
思わず見上げたその顔に見覚えがあった。
180センチは優に超えているN君だった。

 彼は私の横を素通りして、乗り換え駅に向かった。
 私は、しばらく彼の後ろ姿を追ったが、
そのまま見送ることができず、
予定を変更して彼の後を追った。

彼は、白杖を忙しく突きながら、慣れた足取りだった。
多くの人々が行き交う駅通路で、
私が後を追っているなど、気づくはずもなかった。

 違う路線の電車に乗り換えると、彼は席を譲られた。
私ははす向かいの席を陣取り、彼の顔を見た。
表情には、6年生の面影を残していたが、
知的な若者だと感じた。
白杖を持っての歩行から、もう光りを失っているのだと思った。
その時、「漢字をたくさん覚えたい。」の言葉がよぎった。

 もう文字は点字に違いない。
 
 小学校を卒業した後、
それこそ多感な少年期をすごし、
今をむかえた7年の歳月であったことだろう。
揺れる電車の中、彼を見ながら、私はその歩みを想像してみた。

 漢字から点字への転機。
多感な少年の、そのさまよいと戸惑いはどれだけだったことか。
それは私の想像をはるかに越え、あまりにも難しすぎた。

 しかし、跳び箱で胸を打った時のように、
長縄跳びで何度も足を取られたときのように、
体育館の隅で膝を抱えた後、
何もなかったかのごとく日常に戻った彼。
彼は同じようにして、点字への切り換えも、
そして光りを無くしたことも超えたのだと思った。

そして、私は、N君の心のうちを想像できないまま、
ただ胸を詰まらせた。

 彼は、ゆれる電車に身を任せ、3駅目で席を立った。
私は、少し時間をおいてからホームに降り、
彼とは反対の階段に向かった。

 以来、彼に会う機会はない。
 もう40歳を超えていると思う。
きっと今もすっくと立ち上げり、
何事もなかったかのように毎日を送っているように思う。

 今、改めて見習いたいと思っている。




とうとう寒波到来 我が庭も初冠雪



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北の温もり  晴秋

2014-10-25 11:11:23 | 出会い
 一晩中吹き荒れた嵐が去った日、
少し遠出をし、
樽前山の裾野にある日帰り温泉に、
家内と二人で出かけた。

 次第次第に風も静まり、
雲間からきれいな青空が見えだした。

 場所が場所だけに、
北海道の大自然にすっぽりと包まれたような濃い緑色の、
しかも、静寂としたたたずまいの中、
その温泉は、どこか重厚さえ感じさせてくれた。

 私は、バスタオル等の入った袋をぶら下げ、
人々が仕事に汗流しているウイークデーのお昼時、
シニア料金を払い入場した。

 八割かたが、私と同じ料金の方であったが、
人気の温泉のようで、予想外の賑わいだった。

 家内とは、入浴時間の目安を確認して別れた。

 外観に比べ、浴場は狭く感じた。
しかし、外を見ると露天風呂は、広々としており、
開放感がいっぱいのように見えた。
この露天だと、
「樽前山の全景に手が届くのでは。」
と、期待しながら、
まずは体を温めようと、内湯の湯舟に浸かった。

 相変わらず痛む右手をさすりながら、
大きな浴槽に半身を浸けていると、
ただそれだけで、体中が安らぎで満たされた。

 周りには、私と同じように半身浴の人、
首まで温まっている人、そして足湯だけの人もいた。
どの人も、のんびりとした時間と共に、湯煙の中だった。

 ふと、シャワーのある洗い場に目がいった。
ちょうど、そこに今まさに浴場に入ってきたばかりの老人が、
ゆっくりと腰を下ろした。

その老人は、シャワーをしっかりと握り、
肉のそげた老いた体にかけた。
そこに、私よりやや年若い、明らかに息子と分かる
顔の似た男性が近づき、
風呂桶にくんだ湯を、老人の背中にそっとかけてやった。
老人のシャワーは背中に届かず、
息子は二度三度と、背中へのかけ湯を繰り返した。

 やがて、老人はシャワーを止め、
そして、至極当然のように、息子の手を借り、
静かに立ち上がった。
二人の会話など一つもなかった。
しかし、立ち上がると老人は一人でゆっくりと歩き出し、
私の隣の浴槽へと進んだ。

足が悪いようで、その歩みはどことなく心許なかった。
息子は後ろからついてきた。
あたかも老人は、
「大丈夫、まだ一人で歩ける。」
と、言うがごとく、心なしか胸をはり、
それでも、ゆっくりゆっくりと
一歩一歩を確かめながらのものだった。
後ろの息子は、物静かに歩調を合わせ、
老人から目を離さなかった。

 湯舟につくと、老人はさり気なく横に片手を伸ばした。
息子は、その手をとり、
老人が湯に足を入れる手助けをした。
いつしか息子の両手は、父の両手を支え、
浴槽の中央へ進んで行った。

 突然、私の目の前の全てがにじんだ。
私は、両手で湯をすくい、顔にかけた。
いい光景を見させてもらったと思った。

 私の父は、もう35年以上前に他界している。
父が年いってからの子だった。
それだけに、まだ若い時の死別だった。
親孝行などというものができないままの別れに、
尊敬できる父であったこともあり、
悔いることが、いつまでも私の心残りになっていた。

 何も飾らない、
ありのままの父と息子の常しえの関係と、
老いた父を思う息子の有り様を、
私は、ゆらゆらと揺らぐ湯煙の中で見た。
そして、「こんな親孝行がしたかったなあ。」
と、私はもう目頭を抑えようとはしなかった。

 湯上がりの後、小銭を取り出し、
自販機で三ツ矢サイダーを一本買っていた。
栓を抜き、息子は老人に差し出した。
杖を横に置き、長椅子に腰を下ろし、
タオルで汗を拭った老人は、
そのサイダーに口をつけ、
美味しそうに一口二口と飲んだ。

半分ほど飲み残したそのビンを、息子に渡した。
息子はそれをゴクリゴクリと飲み干し、
「玄関の所の椅子に座ってて。車もってくるから。」
と言い、立ち去った。
「分かった。座って待ってる。」
と、老人は答えた。

足の悪い父への気遣いとそれに応じる
『座って』
と、いう短い言葉のやり取り。
私は、またまた感動に震えた。

玄関脇の椅子に腰を下ろしている老人に、
「お先に。」
と、声をかけ、外に出た。

 温かさに包まれた私に、爽やかな秋の風が。
 晴れわたった空に、小鳥のさえずりがした。




伊達は柿の北限とか 街路樹の柿の実

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北の温もり  盛春

2014-09-19 22:55:03 | 出会い
 5月の連休明けと同時に、私は手術台に載った。
 全身麻酔による2時間の右肘切開による神経移行は、
その手術が順調なものだったのかどうかなど、
その間眠っていた私には知るよしもなかった。
 円熟期を迎えていると思われる整形外科医は、
無事手術は終わったとだけ告げた。

 「神経の手術だから」と、何人もの人が言ってくれたが、
術後は薬指と小指それに手のひら、手首の麻痺と痺れに加え、
それまでなかった痛みが加わり、
半年近くが経過した今も、痛み止めは欠かさず服用している。

 さて、温泉の話である。

 各地の温泉には、必ず適応症と言う効能書のようなものがある。
私の知る限り、どこでもそこに『神経痛』の文字がある。
 本当に額面通りの効き目があるかどうかは、
人それぞれだと言うが、
来る日も来る日も右手の痛みとともに過ごす日々は、
その温泉の効能を、心から信じさせた。
まさに『わらをもつかむ』心境なのだ。

 術後3週間、抜糸が済んでから、日帰り温泉に行き始めた。

 幸い、伊達の周辺には車で小1時間圏内に
数多くの日帰り温泉がある。
ほとんどが地元の方の利用であるが、
中には大浴場に露天風呂、サウナまで備えたところ、
そして温泉通に好まれる『源泉掛け流し』のところもある。

 6月のある日、朝のジョギングを終えてから、
家内に温泉行きを誘った。
毎日、「痛い、痛い。」と憂鬱な顔をし、
左手で右手を擦ってばかりいる私を見て、
少しぐらい痛みが和らぐならと、
「行ってもいいよ。」と、応じてくれた。

 北海道の6月、
それは1年で一番綺麗な季節だと私は思っている。
 山々は新鮮な緑色に包まれ、色とりどりの花が咲き乱れる。
中でも、アヤメの紫色が好きで、
その色合いとともにすっくとした立ち姿に、
つい見とれて、若かりし頃の初々しさが突然蘇ったりした。

 しかし、今年の6月は、心が沈み、
その春景色の美しささえ受け入れられずにいた。
それでも、
「温泉の温もりの中に右腕を存分に満たせば、
痛みからの解放と一日でも早い完治が訪れる」
と、一途に信じ、ネガティブになりがちな自分と戦っていた。

 その日は、近隣の町が開設した海辺の温泉に行った。
大きな浴場から、噴火湾が一望できた。
露天風呂からは、快晴の青空の下、
緑が折り重なる山もキラキラ輝く海原も見え、開放感がいっぱいだった。
それでも私は、そんな景観にさほど目もくれず、
右手をマッサージしながらぬるめの湯につかり、
ただただ痛みと向きあっていた。

 4,50分も入浴していただろうか、
風呂上がりはいつも、畳敷きの休憩室に行った。
そこは、幾つものの長テーブルと座布団が用意してあり、
常連さんはその座布団を2,3枚並べ、そこで昼寝をした。

 私は、明るい日射しのテーブルに席をとり、家内の湯上がりを待った。
その温泉では、昼食は同じ施設内にある食堂で
醤油ラーメンを食べることにしていた。
丁度そんな時間だった。

 私のはす向かいのテーブルに、
湯上がりの初老の男性が座布団一枚をぶらさげ、席を取った。
彼は、持参したエコバックのような袋から
アルミホイルにくるんだ大きなおにぎりを1つ取り出した。
そして、近くの自販機に行き、
昔ながらのビンに入った牛乳を1本買い戻ってきた。

 座布団に座った彼は正座だった。
テーブルにはアルミホイルのおにぎり一個と牛乳1本。
 軽く頭を下げ、キャップをとった牛乳とアルミホイルからのぞいた真っ黒なのりのおにぎり。
彼はそれを両手に持ち、交互にゆっくりと口に運び、
時々小首を窓辺に向け、何もない砂浜と揺らめく波間に目をやった。

 その表情は、温泉から上がってのおにぎりと牛乳、
こんな満足が、外にあるだろうかと、
誰かに問いかけているようで、
おにぎりを運ぶ口元には、微笑みがこぼれて見えた。

 きっと毎日は、外での仕事なのだろうと思わせるような日焼けした頬だった。
私より年上と感じさせるが、がっちりとした骨格をしていた。
連れ合いも友人もいない一人きりの昼食だった。
きっと自分でむすんだおにぎりだろうと感じた。

 私は、日帰り温泉の休憩室で出会った、
おにぎりと牛乳の昼食に、いつまでも釘付けとなっていた。

 帰りの道々、痛む手でハンドルを握りながら、
何度も何度も、あの初老のまぶしい表情が脳裏に浮かんだ。

心の持ちようの大切さを、痛いほど教えられた。
私もあんなおにぎりが食べたいと思った。

 幸せはすぐそこにもあるのに、
それを引き寄せようとしない自分を何度も何度も叱った。
 右手の痛みと不自由、そんなのは、
それよりも、だよ。




『コルチカム』が咲き始めた
 
 
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 『 昇  華 』

2014-08-28 21:19:24 | 出会い
 座右の銘までではないにしろ、
人それぞれ、その人を支えている言葉があるように思う。
 私も幸い沢山の言葉に出会い、励まされ、導かれてきた。
 その一つを紹介したい。

 教職について3,4年が過ぎた頃だったと記憶している。
 理科好きの後輩教員が研究授業をした。
その研究協議会の席で、講師の先生から教えて頂いた言葉である。

 誰もが知っているのだろうが、
不勉強な私は、その時初めて学んだ言葉だった。

 先生は、黒板に大きく『昇華』と書いた。
私はその字が読めなかった。
しかし、ドライアイスやしょうのうのように、
液体を通らずに、固体から気体、気体から固体になる現象を言うと知った。
「自然界では、まれにこういうことがある。」とのこと。
そして、理科教育に精通した先生が、
「文学の世界でもよく描かれている。」
と、付け加えた。

 私は、
「人生において、もしもそんなことがあるのなら。」
と、その字をノートに書き留め、
その後の講評など全く耳に入らず、
一人、心の高ぶりを抑えるのに必死だった。

 私は、幼少の頃から自分の人生を『後列の人生』と思っていた。
家は貧しく、しかも私は心も体も非力だった。
だから、どんな時も列の前に出ることはなく、
いつもみんなの後ろを歩いていた。
しかも、懸命に差がつかないように頑張って頑張ってであった。

 それは教職に就いてからも同じで、
表向きは元気で明るくほがらかを装いながらも、
しかし、先生方にはいつもかなわないと思っていた。
確かに私はそれでいいと思っていた節がある。

 ところが、『昇華』と出会った。
 この言葉は、私に夢をくれた。
 「もしかしたら、私だって、いつか何かで、液体を通らず気体になるのではないか。」
 「まだ気づかない私自身の何かが『昇華』するかも。」
 「信じよう。」
 そう思えた時、
私は今までとは違う新しい一歩を踏み出していた。

 今はもう、その言葉とは無縁なように思うが、
その言葉が私を力づけ、
その後の私を、
時には全力で日々かけぬけさせたのだった。




「だて歴史の杜公園」でみつけたカモの親子
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階段でおはようございます

2014-08-10 20:59:18 | 出会い
 現職時代の私は、千葉市海浜地区に住み、
主に東京都東部の小学校に勤務していた。

 まだ車通勤が黙認されていた若い頃を除き、
いつも電車・バスを使い、1時間半前後の通勤だった。
 教員の宿命で、朝は早く、勤務校が変わっても
いつだって6時半には家を出ていた。
 通勤ラッシュ前には最寄り駅につき、そこから自転車かバス、徒歩で学校に行った。

 私に限らず出勤にはそれぞれの定刻がある。
だから、お定まりの車両の扉や駅ホーム、通勤路で毎日同じ人と会う。
 しかし、誰もが何かと慌ただしい時間に加え、
朝のこの時間はその日の仕事のこと等でいっぱいいっぱいで、
そのためだろう、毎朝出会い、すれ違うだけの人の顔など、
しっかりとは覚えていないものである。
ましてや、挨拶など交わすことなどない。

 とある日、
私は午後の研修会で他校へ出張に出かけた。
昼下がりの地下鉄の車内は、人もまばらで席が空いていた。
「これ幸い」と座った矢先、
斜め向かいからの視線に気づいた。
おもむろに、そちらに目を向けると、
その女性はすでに視線をはずし、うつむいていた。

 どこかで見たことのある顔だったが、思い出せなかった。
 私が視線をはずすと、その女性は再び私を見ているようだった。
 私は、「間違いなくどこかで会ったことのある、見覚えのある顔だけど。」
と、もう一度その女性を見た。
その時、視線が合ってしまった。
 私はためらいながらも素知らぬふりができず、
ゆっくりと頭をさげ無言の挨拶をした。
すると、その女性も会釈を返してくれたが、
しかし、その表情は私に何も教えてはくれなかった。
その女性は、次の駅で私を見ることもなく、降りていった。

 私と同じくらいか、若干年上ようにも思えた。
いつどこで会ったのか、仕事上の知り合いかプライベートかなど
全く思い出せないまま私は、
電車が出張先の駅に着く頃には、もう仕事のことを考えていた。

 ところが、ところがであった。
翌朝のことだった。
 定刻に家を出て、電車を一度乗り換えて
勤務校の最寄り駅で地下鉄を降り改札を抜け、
いつもの階段を登り始めた。

 この階段では、毎朝一人の女性とちょうど真ん中あたりですれ違った。
 その朝も彼女は、静かな足取りで近づいてきた。
何気なく顔を上げると、昨日の昼下がりの電車内が蘇った。
階段を登る足取りが止まりそうになった。
私の斜め前に座っていた女性だ。

 私は、一瞬躊躇した。
そして、階段を降り、私に近づいてくる女性も、一瞬躊躇したように思えた。

昨日、あの車内で頭を下げ合ったのは確かである。
私は、昨日の朝までと同じように
見知らぬ顔でその場を通り過ぎることができなかった。
できるだけ普通に、静かに「おはようございます。」
と言い、すれ違った。
ほぼ同じように、その女性も
「おはようございます。」
と、軽く会釈をし、階段を降りていった。

 以来、勤務校が変わるまでの毎朝、
私とその方は、
地下鉄から地上に出る細い階段で、
「おはようございます。」
と、挨拶をした。

 「あの昼下がり、車内で会った時、
貴方は毎朝階段ですれ違っていた私だと気づいていましたか。」
と、訊くこともなかった。

 人は誰でも、沢山の様々な人と出会う。
しかし、私にとってこの出会いは、なぜかいつまでも記憶にある。

 マスクをしていた日は、風邪ひいたのかなと、
 少し髪が短くなると美容院へ行ったんだと、
 そして、いつしか
 「おはようございます。」の声で、勝手に喜怒哀楽を感じたりしていた。

 人生には、そんなささやかなドラマがいくつもあっていいと、私は思う。



イタドリの花が咲き始めた(後ろは有珠山)
 
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