精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

不可触民と現代インド

2008-12-20 10:59:45 | インドとその哲学・思想
不可触民と現代インド (光文社新書) 

著者が冒頭で語るインドでの体験――同乗する自動車のひき逃げ事件は、著者の衝撃的な「原体験」であり、それ以来、インド不可触民をはじめ最底辺民衆に関心を持つようになったという。

この本からこれまで知らなかった多くの事実を学んだ。インドのカースト制度は有名だが、では現代インドでカーストが現実にどのように働き、政治的、経済的にどのような意味をもっているのかなど、よく見えていなかった。この本では、不可触民の側からカースト制によるインドの支配と被支配の実態が明らかにされる。

ブラーミン、クシャトリア、ヴァイシャの上位三カーストで人口の15パーセント、指定カースト、その他後進階層85パーセントと言われるが、正確な数字は、1930年にイギリスが調査して以来、一度も公表されていないという。しかし実際にこの上位15パーセントが、今も政治権力、官僚制度、マスコミ、経済、議会等々、あらゆる分野で支配的地位にいるのは紛れもない事実だ。

日本の教科書的な記述でははっきりとは書かれないが、インドの不可触民を中心とした人々は近年、次のような歴史認識を持つに至ったという。つまり、ブラーミン、クシャトリヤ、ヴァイシャたちは、もともと侵略者であり、先住民を追いやり、カースト制を作り、下層民として押し込めた。下層の人々は、その事実を口にすることすら許されなかった。教科書的な記述でカースト制をアーリア人の侵入との関係の中でとらえるにしても、ここまではっきりと述べた記述には出会ったことはなかった。

山際氏は2002年にインドに取材してこの本を書いている。そのインタビューには、この国になお厳然と残るカーストの実態がかかれている。

ある不可触民出身の政府職員は言う、「私たちがどこかに転勤になると、我々のカーストがいち早く次の職場に伝えられます。新任者のカーストが何であるかによって対応の仕方が決められるからです。その人間によってではなく、所属のカーストによって扱いが決まるからなのです。」

別の不可触民出身の女性は、インドの最近の経済自由化について次のように語る、「貧困層は一層貧しく、金持ちは益々肥え太る政策以外の何ものでもありません。これは個人的成功、失敗のレベルの問題ではないのです。‥‥1990年から始まった、世界銀行、IMF主導の経済改革は、結論的にはダリットという弱者社会に大きな打撃を与えるにすぎません。社会主義的経済を資本主義的私企業形態に変えてゆくことは――銀行その他の政府系企業の私企業への移行――リザーブシステムで保証されていた職能分野の縮小を意味します。」

現代インドについて全く別の視点から語る本をと思って、『インドを知らんで明日の日本を語ったらあかんよ』竹村健一、榊原英資(PHP、2005年)のカーストについて触れた部分を読んでみた。

案の定というべきか、
「‥‥巷間でいわれているほど、カーストが問題になることはないようです。ビジネスのネックにはならないでしょう」(榊原)
「カースト制度がどうのこうのっていう話ではないわでですね。インドというと厳然としたカーストをイメージするのは、情報が古い。新しい情報が入らないと、子供のころから聞いている話で、インド観が固まってしまっているということですね。」(竹村)
「実際に、企業が採用についてカーストを云々することはまったくありません」

おそらく最先端のIT関連企業などでは、業種・職種が伝統的なジャーティにないこともあるのか、上のように言える面もあるのかも知れない。しかし、上のような言い方をしてしまうと、山際氏が報告したような深刻な現実は、まったく視野の外に置かれてしまうのだろう。自分が住む国でも、抑圧された人々の現実をあるがまま見るのはむずかしい。まして外国であればなおさらなだろう。この竹村、榊原の対談も、山際氏によるインタビューもそれぞれの立場から見た現実が語られているので、いちがいにどちらが正しいとは言えないだろう。しかし、少なくとも先の対談で語られているほどことは単純でないことは明らかだ。

ところで、カースト問題を低カースト民が自由に触れることすら許されなかった時代は、アンベードカルによって打ち破られたという。ガンディーに対立してヒンドゥーの差別と闘い,インドに仏教を復興した不可触民出身の政治家であるアンベードカル。同著者の『アンベードカルの生涯』(光文社)も併せて読むべきだろう。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。