精神世界と心理学・読書の旅

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不可触民の道―インド民衆のなかへ

2008-12-20 10:57:34 | インドとその哲学・思想
不可触民の道―インド民衆のなかへ (知恵の森文庫) 

同著者の『不可触民・もうひとつのインド』は、著者が1977年にインドを再訪したときの見聞をもとに、最初は1981年に三一書房から出版されている。本書は、著者が1980年から81年にインドを訪れたときの体験を元にしている。前著にもまして凄まじい不可触民差別に接して唖然としてしまう。

インドにおけるカースト的な差別と暴力が、どれほどに広く深く社会の底辺に巣食っているのかということが、読めば読むほどに分かってくる。同時に、一部の不可触民が、そのような抑圧から目覚め、組織的な抵抗を試み、大きな変化を巻き起こし始めていることも分かる。とくにアンベードカルが50万不可触民とともに仏教に改宗した都市、ナグプールの仏教徒たちの、驚くべき変化は、その地で活躍する日本僧・佐々井秀嶺の活動とともに印象深く語られている。

この本ではとくに、著者がインドの最底辺の人々と接していくうちに、上層であろうと下層であろうと、インド人のすべてに共通する、ある精神性への気づきを深めていく過程が注目される。著者はいう。インドの悲惨さは民衆の無知に深くかかわる。その考えは変わらない。しかし、そのことと、人々の神への傾倒、深い宗教性、「神信心」とが深く密着し、それが人々の無自覚な状態を支えていると、今までは考えていたという。しかし、著者の考え方は次第に変わっていく。インド民衆の無知と、それゆえの悲惨さ、それと彼らの深い宗教性はまた別のこと、次元のことなった問題なのではないかと。

「インド人は、特に底辺の民衆はある意味で、在るがままに生きている。無知であるとともに、先祖から受け継いできた大きく深い『智慧』をももち、それに支えれられ、辛うじて、ではあっても、それがなくては生きえない逆境を乗りこえてきている。それが人びとの、大きな遺産なのではないか‥‥」、そう著者は感じるようになったという。唯物史観的な考え方をもっていた著者にとっては、これは重大な発見だったのかもしれない。このテーマは、本書で何回か繰り返されるのだが、最終的には、著者が気づきを深めていったという、著者が理解する「インドの精神性」というものに、あまり魅力を感じなかった。この著者の「精神世界」への理解に深さが足りないからかもしれない。

それよりも、本書の最終章では、佐々井秀嶺がインドに行ってから、どのようにしてナグプールに導かれ、どのようでにその地での活動を開始したかが、本人の言葉で詳しく語られている。インドを発とうとした最後の晩に金縛りにあった状態のまま、光り輝く老人から「我は竜樹なり、南天竜宮へ行け」と語りかけられたという話は他でも読んだが、その詳しい状況や前後の経過を知ると、非常に強い印象を受ける。

インドのどん底、その地獄を知っていれば、南天竜宮はナグプールだと判断しただけで、その見知らぬ土地に単身乗り込んでいくことは、生命の危険をも覚悟しなければできることではないという。しかし佐々井師は旅立つ。そこに、本人の意志を超えた強い導きがあっただろうことを改めて感じた。あらためて『破天』を読んで見たいと思った。


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