マージェリィ・W・ビアンコ 原作
酒井駒子 絵・抄訳
ブロンズ新社
Margery Williams Biancoが1922年に発表した名作 “ The Velveteen Rabbit ” は、様々な訳者と挿絵によって今も世界中で愛読されている。トップ画像のものは今年4月に、酒井駒子が挿絵と抄訳という形で出版化されたもの。
読後暫らくは、作品中のうさぎが胸の中に棲み付いたような、僕(読み手)自身がうさぎになったかのような感覚になる。それだけ、うさぎの気持ちの移ろいが丁寧に描かれているし、また、人(大人)の人たる心が如何様なものであるかという事を決して説教臭くなく描いているからだろう。
いつも男の子と一緒にいるうさぎは次第にボロボロになっていくと、文章ではそう説明されているものの、絵としてはそこまでみすぼらしい様子にしていない。それは酒井駒子が男の子の心の視点から描いているからで、画家が違えばその辺りの捉え方、延いては読者への印象も大分変わるだろう。
また、森の情景が素晴らしい。青々とした緑で色付けされていない(黄緑色で統一されている)にも拘らず、森の緑が全体に息づいていて、絵として非常に芳しい。
幼き日々に置いてくるより仕方のない想い出、つまり、一瞬一瞬の人間の成長というものが、霞の向こうに物悲しく、それでいて木の葉を縫って差す光のようにうっすらと呼吸している本作。とはいえそれは人間だけでなく、どんなものにとっても脈々と起こっている事象なのだという事が、この絵本の命題だと思う。それまでとは違う新たな香りを纏ったカーテンを、どんなに歳を経た者に対しても眼前で優しく引いて見せてくれたような作品である。
酒井駒子が抄訳という立場に立った想いがじんわりと伝わってくるので、彼女のファンである者にとってもそうでない者にとっても一読の価値はある。『本物とは何か』、『本当の生き方とは何か』……を考えさせてくれる。
子供(3歳児以上)の情操にとっても十二分に活きたものになるであろうから、こうした作品もまた、保育園や幼稚園等に置かれていればと切に思う。
酒井駒子 絵・抄訳
ブロンズ新社
Margery Williams Biancoが1922年に発表した名作 “ The Velveteen Rabbit ” は、様々な訳者と挿絵によって今も世界中で愛読されている。トップ画像のものは今年4月に、酒井駒子が挿絵と抄訳という形で出版化されたもの。
読後暫らくは、作品中のうさぎが胸の中に棲み付いたような、僕(読み手)自身がうさぎになったかのような感覚になる。それだけ、うさぎの気持ちの移ろいが丁寧に描かれているし、また、人(大人)の人たる心が如何様なものであるかという事を決して説教臭くなく描いているからだろう。
いつも男の子と一緒にいるうさぎは次第にボロボロになっていくと、文章ではそう説明されているものの、絵としてはそこまでみすぼらしい様子にしていない。それは酒井駒子が男の子の心の視点から描いているからで、画家が違えばその辺りの捉え方、延いては読者への印象も大分変わるだろう。
また、森の情景が素晴らしい。青々とした緑で色付けされていない(黄緑色で統一されている)にも拘らず、森の緑が全体に息づいていて、絵として非常に芳しい。
幼き日々に置いてくるより仕方のない想い出、つまり、一瞬一瞬の人間の成長というものが、霞の向こうに物悲しく、それでいて木の葉を縫って差す光のようにうっすらと呼吸している本作。とはいえそれは人間だけでなく、どんなものにとっても脈々と起こっている事象なのだという事が、この絵本の命題だと思う。それまでとは違う新たな香りを纏ったカーテンを、どんなに歳を経た者に対しても眼前で優しく引いて見せてくれたような作品である。
酒井駒子が抄訳という立場に立った想いがじんわりと伝わってくるので、彼女のファンである者にとってもそうでない者にとっても一読の価値はある。『本物とは何か』、『本当の生き方とは何か』……を考えさせてくれる。
子供(3歳児以上)の情操にとっても十二分に活きたものになるであろうから、こうした作品もまた、保育園や幼稚園等に置かれていればと切に思う。
>日常に埋もれがちな大切な『何か』
僕も、いつも心に抱いていたいです。
絵にも惹かれましたが、それ以上に訳が素晴らしいと感じました。
日常に埋もれがちな大切な『何か』を、今再び思い起こすきっかけを
いただきました。
酒井駒子さんの画風は、“ よるくま ” や “ リコちゃんのおうち ” 等の頃のものとそれ以外の作品とでは違いますよね。もし前者の画風だけで今も活動されていたら、僕は彼女の作品にこれ程までは惹かれていなかったと思います。
>子どもたちは絵本をどのような心で見ているのでしょうか・・・。
毎日何かしらの絵本を子供たちに読み聞かせしていますが、そうですね、読み進めながら僕も彼等の心の一片一片に触れてみたいですね。真剣そのものの表情の内で、どういう風に心が息づいているのか…。
優れた物語ならば、どんなに幼い子供にとってもそれはきちんと二足歩行していて、決してその場限りのものではないのでしょうね。
幼いときに読んだ本はなんとなく心に残っているような気がします。子どもたちは絵本をどのような心で見ているのでしょうか・・・。
子どもに様々な本に触れて欲しいものですね。
そうですね、その傾向は見受けられると思います。しかしそれは、児童書に限った事ではありませんよね。
ネット上の動画で懐かしのものを観ていてふと気付いたのですが、例えばアニメにしても僕が子供の頃に放送していたものは、ギャグを売りにしていたり、ほのぼのしていたり、メルヘンチックだったり、はたまた広く人生というものを考えさせてくれるものが今より多かったという事です。戦闘シーンが売りになっている、もしくは戦いというものそれ自体が作品の1つの手管となっているアニメは必要最低限であったと感じるんですよね。
児童書でもアニメでも音楽でも文学でも映画でも、『滋味溢れる佳品』というのは、不必要な各要素が絡んだ作品、言うなればそれこそciapoohさんが仰った『目先のインパクトが強い作品』に押されていくだけなのでしょうか…。
>大人になるまでに読んでおいた方がいい本というのは色々あって
夜毎屋さんは読書量が桁外れなので、僕が触れた事のない作品にも多く精通されているでしょう。今度また、色々と教えて下さい♪
早速図書館で当たってみようと思います。
最近の児童書、ご時世なのか、どたばた物や目先のインパクトで
読ませる物も少なく無いように感じるのは、私だけでしょうか。
夜毎屋は違う版で読みましたが(多分小学生の頃だと思いますが)、一生のうちに一度は必ず読んで欲しい本だと思っています。
むしろ大人になってから読んだ方が感慨は深いかも知れませんね。
大人になるまでに読んでおいた方がいい本というのは色々あって………そのうちそんなお話もしたいですね♪