<あなたはヒンドゥー教徒ですか?>
朝は気持ちよかった。
最後の朝日だという思いで感傷的にながめた。
このガンジス河の朝日と夕日はいつも素晴らしかった。
インド旅行ひとり旅は体力、気力を必要とする。
飛行場に着いてから、まず頭で考えては困惑し、それではと、考えずに心で思ってみたものの、常に激しく揺さぶられ、最終的に、どうにでもなれと腹が座って、ようやくインドが楽しめるようになった。
俺がもっと歳をとって、体力、気力がうせていたなら、とても真正面からぶち当たっての旅は楽しめなかったと思う。
だが、そうであったとしても、牛のフンやゴミのガンジスを目の当たりにしても、この朝日と夕日は素晴らしいと感じるはずだ。
だから、誰でも一見の価値がある。
ホテルに戻ろうと思ったら、バカボンのパパがホテル下で待っていた。
今日、帰ることは知っていたので別れの挨拶にきてくれた。
「友達よ、また、来てくれ。」
「ありがとう。」
俺は日本から持ってきていた西陣織の布で覆われた簡易ライターをプレゼントした。
8時には旅行会社のインド人スタッフがすでにフロントで待機していた。
彼はほとんど日本語がしゃべれなかった。
まだ、オーナーは来てなかった。
俺はスタッフにこれまでの経緯を英語で説明した。
今思うと、良く喋れたものである。
言いたくてたまらないことがあると、昔覚えた英単語がポンポン出てくる。
10分も説明しただろうか、スタッフは事の次第を理解してくれた。
スタッフもオーナーがなかなか来ないので、フロントにかけあう。
「ちょっと、まってくれ。もうすぐ来るから。」
だが、なかなか来なかった。
遅れてしまっては、L君達に挨拶もできないし、最悪飛行機に遅れてしまう。
8時半になったところで、俺は堪忍袋の緒が切れシヴァ神と化した。
フロントに「いますぐ呼んで来い!」と大声で怒鳴り散らした。
丁度、そのころ3名の欧米人客がホテルに着いており、部屋の交渉をしている最中だったが、それを止めて一人に電話させ、一人に呼びに行かせたのだった。
(ちなみに、その3名はただならぬ雰囲気に恐れをなし他のホテルへ行ってしまった。)
上の階のレストランにいた欧米人も何事かと様子を見に来たりした。
それでも、やはりオーナーは来なかった。
俺が思うに、旅行会社からホテルに注意がいった時点で、俺に会うつもりはなかったのだと思う。
また、執拗な従業員はあれ以来全然見かけなくなったから、「触らぬ神に祟りなし」戦法をとっていたのだ。
だから、ハラスメントのことについては直接言うことができなかった。
旅行会社のスタッフも従業員に苦情を言っていたが、まったく効果はなかった。
そのうちに俺の部屋を掃除していた従業員が忘れものだと、目覚まし時計と軽量コップ、ボールペンを持ってきた。
すべて100円ショップで購入したものである。
俺は、もともと余計なものは置いていくつもりだったので、その男にあげると話した。
カーストでも身分が低いのだろうが、うれしそうにもらってくれた。
従業員がすべて悪いわけではなさそうだった。
だから、余計にオーナーや責任者に腹が立った。
だが、これ以上の時間がないので出発するしかなかった。
結局、後日、スタッフが旅行会社のデリー支社にレポートを提出し、会社の責任者から改めて苦情を申し立て、場合によっては今後契約を結ばないことも検討する、ということで収めたのだった。
スタッフとの別れ際、「不手際で、もうしわけありませんでした。」と深々と謝るのだった。
・・・
・・・
・・・
だが、インドはそんなに甘くないのだ。
いや、これこそがインドである。
「今度インドに来るときは会社を通してでなく、私に直接メールください。
安くて、よいプランを提供します。」
というのだ。
要するに、そのスタッフ自身も儲けることしか考えていないのである。
もう、呆れて物が言えなかった。
ホテル下ではL君達が俺を待っていた。
時間はすでに9時半を過ぎて10時ちかくになっていた。
彼らに慌てて別れを告げ、急いでザックを担ぎながら小走りにオートリキシャの待つ場所に行った。
別れの感傷に浸る暇などなく、もう、握手ぐらいしかできなかった。
メールアドレスの交換などもできなかった。
シヴァの祭りは最高潮に達していた。
道路は人間、牛、サイクルリキシャ、オートリキシャ、等々で超混雑である。
歩く人も明治神宮初詣並みのスピードでしか歩けない。
これでは、飛行機の出発時間に間に合わないと思った。
だが、L君達に紹介してもらった運転手は大丈夫だ、まかせろという。
そのリキシャは新品だった。
その新品の傷付けたくないと思われるリキシャがなんと、通常は人、牛、せいぜいバイクしか通らない幅1mちょっと程度の生活道路をぶっ飛ばして走り始めたのである。
超裏道をクラクションを常時鳴らしながら、オートリキシャは走ったのだ。
建物にぶち当たるのでは、人が飛び出てくるのでは、とかヒヤヒヤものだった。
まるでなにかの冒険映画のようである。
しかし、何事もなく通過、大きな道に出た時は、もう混雑はなかった。
飛行場には十分時間に間に合うことができた。
俺は約束Rs500の他に100をプラスして渡した。
十分な挨拶もできなかったL君達にもよろしくいってもらうように頼んだのだった。
飛行場に入ってからは、まだ日本ではないものの、日本のそれと大差なかった。
ただ、すぐやったことは、ビールを飲むことだった。
デリーで飲んで以来、約1週間禁酒だった。
カレー風味のサンドウィッチにタイガービールを2本飲んで気持ちよく、飛行機にのったのだった。
バラナシからデリーまではスパイシージェットという飛行機にのり、デリーで乗り換えたのちJALで日本に帰国した。
JALはエアーインディアと違い、日本人が超満員だった。
入った途端、出発時と逆に日本の匂いがするような気がした。
これなら、ボロいけどガラガラのエアーインディアの方にしておくべきだったと後悔した。
3列シートの窓際に座ったが、となりには日本人夫婦とご一緒になった。
インドをアチコチ20名ほどで団体旅行したのだという。
俺がバラナシに8日間ほど滞在していたことを告げると、年配のご主人が俺に言った。
「あんな汚いところによく8日間もいましたね。あなたはヒンドゥー教徒ですか?」
まあ、そんな印象をもつのかもしれないな、と思いつつ笑顔を返したのだった。
(つづく)
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朝は気持ちよかった。
最後の朝日だという思いで感傷的にながめた。
このガンジス河の朝日と夕日はいつも素晴らしかった。
インド旅行ひとり旅は体力、気力を必要とする。
飛行場に着いてから、まず頭で考えては困惑し、それではと、考えずに心で思ってみたものの、常に激しく揺さぶられ、最終的に、どうにでもなれと腹が座って、ようやくインドが楽しめるようになった。
俺がもっと歳をとって、体力、気力がうせていたなら、とても真正面からぶち当たっての旅は楽しめなかったと思う。
だが、そうであったとしても、牛のフンやゴミのガンジスを目の当たりにしても、この朝日と夕日は素晴らしいと感じるはずだ。
だから、誰でも一見の価値がある。
ホテルに戻ろうと思ったら、バカボンのパパがホテル下で待っていた。
今日、帰ることは知っていたので別れの挨拶にきてくれた。
「友達よ、また、来てくれ。」
「ありがとう。」
俺は日本から持ってきていた西陣織の布で覆われた簡易ライターをプレゼントした。
8時には旅行会社のインド人スタッフがすでにフロントで待機していた。
彼はほとんど日本語がしゃべれなかった。
まだ、オーナーは来てなかった。
俺はスタッフにこれまでの経緯を英語で説明した。
今思うと、良く喋れたものである。
言いたくてたまらないことがあると、昔覚えた英単語がポンポン出てくる。
10分も説明しただろうか、スタッフは事の次第を理解してくれた。
スタッフもオーナーがなかなか来ないので、フロントにかけあう。
「ちょっと、まってくれ。もうすぐ来るから。」
だが、なかなか来なかった。
遅れてしまっては、L君達に挨拶もできないし、最悪飛行機に遅れてしまう。
8時半になったところで、俺は堪忍袋の緒が切れシヴァ神と化した。
フロントに「いますぐ呼んで来い!」と大声で怒鳴り散らした。
丁度、そのころ3名の欧米人客がホテルに着いており、部屋の交渉をしている最中だったが、それを止めて一人に電話させ、一人に呼びに行かせたのだった。
(ちなみに、その3名はただならぬ雰囲気に恐れをなし他のホテルへ行ってしまった。)
上の階のレストランにいた欧米人も何事かと様子を見に来たりした。
それでも、やはりオーナーは来なかった。
俺が思うに、旅行会社からホテルに注意がいった時点で、俺に会うつもりはなかったのだと思う。
また、執拗な従業員はあれ以来全然見かけなくなったから、「触らぬ神に祟りなし」戦法をとっていたのだ。
だから、ハラスメントのことについては直接言うことができなかった。
旅行会社のスタッフも従業員に苦情を言っていたが、まったく効果はなかった。
そのうちに俺の部屋を掃除していた従業員が忘れものだと、目覚まし時計と軽量コップ、ボールペンを持ってきた。
すべて100円ショップで購入したものである。
俺は、もともと余計なものは置いていくつもりだったので、その男にあげると話した。
カーストでも身分が低いのだろうが、うれしそうにもらってくれた。
従業員がすべて悪いわけではなさそうだった。
だから、余計にオーナーや責任者に腹が立った。
だが、これ以上の時間がないので出発するしかなかった。
結局、後日、スタッフが旅行会社のデリー支社にレポートを提出し、会社の責任者から改めて苦情を申し立て、場合によっては今後契約を結ばないことも検討する、ということで収めたのだった。
スタッフとの別れ際、「不手際で、もうしわけありませんでした。」と深々と謝るのだった。
・・・
・・・
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だが、インドはそんなに甘くないのだ。
いや、これこそがインドである。
「今度インドに来るときは会社を通してでなく、私に直接メールください。
安くて、よいプランを提供します。」
というのだ。
要するに、そのスタッフ自身も儲けることしか考えていないのである。
もう、呆れて物が言えなかった。
ホテル下ではL君達が俺を待っていた。
時間はすでに9時半を過ぎて10時ちかくになっていた。
彼らに慌てて別れを告げ、急いでザックを担ぎながら小走りにオートリキシャの待つ場所に行った。
別れの感傷に浸る暇などなく、もう、握手ぐらいしかできなかった。
メールアドレスの交換などもできなかった。
シヴァの祭りは最高潮に達していた。
道路は人間、牛、サイクルリキシャ、オートリキシャ、等々で超混雑である。
歩く人も明治神宮初詣並みのスピードでしか歩けない。
これでは、飛行機の出発時間に間に合わないと思った。
だが、L君達に紹介してもらった運転手は大丈夫だ、まかせろという。
そのリキシャは新品だった。
その新品の傷付けたくないと思われるリキシャがなんと、通常は人、牛、せいぜいバイクしか通らない幅1mちょっと程度の生活道路をぶっ飛ばして走り始めたのである。
超裏道をクラクションを常時鳴らしながら、オートリキシャは走ったのだ。
建物にぶち当たるのでは、人が飛び出てくるのでは、とかヒヤヒヤものだった。
まるでなにかの冒険映画のようである。
しかし、何事もなく通過、大きな道に出た時は、もう混雑はなかった。
飛行場には十分時間に間に合うことができた。
俺は約束Rs500の他に100をプラスして渡した。
十分な挨拶もできなかったL君達にもよろしくいってもらうように頼んだのだった。
飛行場に入ってからは、まだ日本ではないものの、日本のそれと大差なかった。
ただ、すぐやったことは、ビールを飲むことだった。
デリーで飲んで以来、約1週間禁酒だった。
カレー風味のサンドウィッチにタイガービールを2本飲んで気持ちよく、飛行機にのったのだった。
バラナシからデリーまではスパイシージェットという飛行機にのり、デリーで乗り換えたのちJALで日本に帰国した。
JALはエアーインディアと違い、日本人が超満員だった。
入った途端、出発時と逆に日本の匂いがするような気がした。
これなら、ボロいけどガラガラのエアーインディアの方にしておくべきだったと後悔した。
3列シートの窓際に座ったが、となりには日本人夫婦とご一緒になった。
インドをアチコチ20名ほどで団体旅行したのだという。
俺がバラナシに8日間ほど滞在していたことを告げると、年配のご主人が俺に言った。
「あんな汚いところによく8日間もいましたね。あなたはヒンドゥー教徒ですか?」
まあ、そんな印象をもつのかもしれないな、と思いつつ笑顔を返したのだった。
(つづく)
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