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旧東海道ランニング「東海道走膝痛シ」・・・草津宿~京都三条大橋、その2(芭蕉)

2016年12月19日 | 東海道走膝痛シ(旧東海道ランニング)
京阪石山坂本線、唐橋前駅の踏切を渡る。

京都に近づくにつれて駅はホームの幅がたいへん狭い駅が大変多い気がした。
そのことと、家と家の間の隙間が狭いこととは無縁ではないだろう。

成熟しきった近江の都、京の都では、家屋が密集しているから、狭い場所に鉄道を敷かざるをえないと思われる。

特に京都の路面電車ではホームが幅60㎝という、まるで平均台のようなホームの駅(京福電鉄嵐山線の山ノ内駅)があるらしい。



だから、ホーム上で待つのはスリル満点で、危ないため、駅の前後に道路の信号があって、電車到着時にその信号が赤に変わるようにできており、客は、道路で待機→電車到着→信号が赤→横断報道を渡ってホームに上がる→電車に乗る、という仕組みになっているそうだ。


線路は結構くねくねしていて、まるでサーキットのシケインのようだ。
低速走行でしか走れない。


廃線の危機にさらされながらも、経営合理化やラッピング電車などで、今では頑張って経営は改善されているらしい。


若宮八幡神社である。
結構、立派な神社だ。

若宮八幡とはなにか?
八幡(応神天皇)の若宮(息子)で、「仁徳天皇」をご祭神にする神社だそうだ。



この辺りから膳所(ぜぜ)と呼ばれる地域になる。
膳所神社、膳所本町駅、膳所城跡、など膳所という字が付く。
これはハッキリ言って超難読地名である。

俺は「ぜんしょ」かと思っていた。

-----以下、膳所の読みより-----
千数百年前、天智天皇が都を大津へ遷したとき、当地を御厨所(厨=料理をする所)と定めました。
それ以前は、琵琶湖岸の田園で「浜田」と呼ばれていましたが、以後「陪膳(おもの)の浜田」となりました。(おもの=天皇のめしあがりもの)
それが膳所となったのは「陪膳の所」と言う意味からです。
当地は相模川の扇状地で、その先端部が琵琶湖に崎を形成していて、その後陪膳の崎(おもののさき)と呼ばれるようになりましたが、時代と共に膳(おも)の崎~膳(ぜん)の前(さき)~膳前(ぜんぜん)に変わり、短くぜぜと呼ばれるようになりました。
全国で所を、せ・ぜ、と読む地名は、奈良の御所市をごせし、当地のぜぜの2件だけだそうです。
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うん、なるほど。

膳という字はお膳(一人前の食器と食物を載せる台、温泉での宴会などで並べられるアレのことで、なんとなく豪華感がUPする台のことだ。)の膳だから、食べ物に関する場所だろうとは思っていた。

天皇に関係する地名とは思ってもみなかった。
さすが、大津である。


和田神社である。
ここには、関が原合戦に敗れた石田三成が京へ護送される時に、繋がれていた大イチョウがある。



六条河原に向かう途中にすすめられた柿を食べなかったっていう話の、あの有名な三成の言葉
「柿は胆の毒ゆえ食わぬ」
「命を惜しむは、ひとえに我が志を達せんと思うがゆえなり」


それを、そこで言った場所なのかどうかはわからない。

とにかく、絶対に観ようと思っていたが、何故かボーっと走り過ぎてしまった。
疲れが出てきたのか、腹が減ったのか?

ガイドブックにも赤丸を付けていたが、さすがに戻って逆走までして見る気はしなかった。


水分を取るべく、道端に座って休んだ。
柿があったら食べたかった。



写真は和田神社のイチョウより


長屋門のある家



観たかった義仲寺に着いた。

中に入るも、誰もいない。
「すみませ~ん!」
といっても反応なし。
有料なはずなのだが?

出るときに払えばよいと思って中に入った。


木曽義仲の墓である。
そして、その右隣に芭蕉の墓がある。


芭蕉の墓
小さいが三角形の自然石の墓で、趣があった。

良い墓だ。

芭蕉翁と刻まれている。

松尾芭蕉は、元禄三・四年(1690~1691年)しばしば義仲寺に逗留(当時は琵琶湖の畔に位置していた)していて、木曽義仲に感銘を受け、弟子に自分の墓を義仲の墓の隣に建てるよう遺言したと言われている。

義仲の何に感銘したのか?

詳しくは次を読んでいただきたい→芭蕉の臨終と義仲寺(ぎちゅうじ)

木曽義仲というと、俺は
暴れん坊の田舎者
という感じがしていたのだが、今回のことを切っ掛けに調べてみると、これは違うようだ。

木曽義仲軍乱暴事件の真相によると
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いわゆる源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴を働いたというのが平家物語などによる通説である。
しかし、これは平家物語やその解説者の捏造である。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述しにくい。
敗者については悪事を強調し捏造しても記述される。
(以下、その証拠などが書かれている)
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NHKの大河ドラマに取り上げてほしい人物として「木曽義仲(と 巴御前)」がよくあがるそうだ。

どうも、巴御前も芭蕉も憧れるほどの大人物だったように思われる。
歴史は事実と異なるようだ。

ネットでアレコレ調べてみたが、芭蕉は
木曽義仲の義と情からくる清廉・凄烈な武人としての生き方
に惹かれたらしいと書かれた解説が多かった。

だとすると、そんな武将に惚れた芭蕉が益々素晴らしい人物に見えてきた。
もっと枯れた人物だと思っていた。

それと、当時、ここは琵琶湖畔で、風光明媚な素晴らしい場所だったというから、芭蕉は自分の墓の場所としてもよい場所だと選んだんじゃなかろうか?



義仲寺内の紅葉の翁堂(芭蕉の像が祀ってある)



そういえば、芭蕉忍者説というのがある。



-----以下、ウィキペディアより松尾芭蕉から抜粋-----
隠密説

45歳の芭蕉による『おくのほそ道』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。 これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた。


松尾芭蕉(葛飾北斎画)

また、この日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる。『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている)。

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俺の芭蕉旅ランナー説

芭蕉は忍者かどうかはわからないが、これはもう旅ランナーなのである。
それも、今の時代なら60歳以上の旅ランナーである。
(そういう意味では、俺も、芭蕉にあやかりたい一人だ。)

まさに芭蕉は、江戸時代のウルトラ旅ランナーなのだ。
2400キロもの旅をしながら俳句を創作していくからこそ、俳句の中にも命懸けの精神的高さがあるだと思う。



もうすぐ、京都だ。
(つづく)


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