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旧東海道ランニング「東海道走膝痛シ」・・・新居~吉田・その4(人参男)

2014年08月10日 | 東海道走膝痛シ(旧東海道ランニング)
豊橋市の市電

(つづきのはじまり)

豊橋カレーうどんでエネルギー充電完了である。

ただし、腹ごなしとしては走るのは芳しくないので、30分ほどは早足歩きをした。
歩きながら今日は吉田宿(豊橋)までとすることに決めた。
暑い中、無理して走って体壊してもバカらしい。
とにかく、はやく豊橋に行って、風呂かシャワーを浴びたい!
そして、冷たいビールを飲みたいものだ。



旧東海道クロマツ跡(飯村の松)

舞阪の松並木下を走ったとき、強い日差しを松が遮ってくれて有難味を感じたが、江戸時代の旅人も日差しはもちろん、寒風や雪、雨などから守ってくれただろうと強く想像できる。

ウィキペディアから「街道並木」のいくつかの情報を適当にまとめると以下のようになる。
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・街道の並木は、奈良時代の天平宝治3年(759)に、東大寺の僧普照の奏上によって、旅をする人の飢えを癒すため駅路の両側に果樹を植えたのが始まりといわれている。
平安京にはヤナギとエンジュが約17メートル間隔に植えられたらしい。

・鎌倉時代にはサクラ、ウメ、スギ、ヤナギの並木が植えられた。

・戦国時代には、織田信長が旅人の安全、快適な交通を確保するために並木道を作ったと言われる。

・江戸時代には、街道網が整備され、マツ、スギ、ケヤキなどが植えられた。
街道には並木が作られるとともに、1里(約4キロメートル)ごとに一里塚が造られ、距離の目印、休憩場所として利用されるようになった。
また市街地の川沿いの道などにはヤナギやマツが植えられた。
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普照は唐に渡った人だから、唐の並木をみて、奏上したのだと思う。
その中国では約2500年前の周代には、すでに壮大な街路樹や並木が造られていた。
また、約3000年前にバングディツシュからアフガニスタンへ抜けるGrand Trunk Roadには一部に石が敷かれ、道の左右と中央に樹木が列植されたとのこと。

なんだか、街道沿いの並木って、なんとなく歴史ロマンを感じるのだ。


街道沿いには立派な家が良く見られる。


道は国道1号線と合流する。
自分なりに見た感じでは道路の左側に昔の町並みの面影が残っているような気がする。
逆に右側は今風の建物ばかりで、統一感のようなものがないから、国道は旧道の左側を残し右側に広げたのではないかと思った。

このあたりから旧東海道は道沿いの町名が、古いそれなりの名に変化する。
伝馬町~瓦町~西新町~鍛冶町~曲尺手町~呉服町~~札木町~本町~上伝馬町~湊町


なんとなく面白いから撮ってしまった。
家としては外壁の板が風化して痩せ細って紙みたいにペラペラと反り返って悲惨な感じなのだが、オブジェとしてみると、それが一定のリズムになって面白い。
(住まれてる方、すみません)


市電に出会う東八丁という交差点で旧東海道はグネグネと曲がり始める。
曲尺手(かねんて)というやつである。



曲尺手(旧街道ウォーキング人力より)
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曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。
しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態である。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急非難をした。
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大工さんが仕事で使う言葉に「かねんてい」というのがあって、直角のこと(矩手:かねて)をさすから、そこから来た言葉かもしれない。
また、大工道具の差し金(ただしくは指矩)は「曲尺」(かねじゃく)ともいうから、曲は直角のことのようだ。

写真は自作・DIY総合研究所ホームより

また、交差点角には東海道の夜間の通行を制限していた東惣門の再現模型が作られていた。

東惣門は東海道にまたがって南向きにたち、その横には番所があり、朝6時から夜10時まで開いていたとのことである。


旧道はここか?と見紛うばかりの昔の面影ゼロの道が続いた。


本日は吉田城大手門跡あたりで
STOP
日陰の道端にしゃがみ込み、残ったスポーツドリンクを一気飲みした。



早速、スマホで近くの風呂屋を探す。
直ぐ近くに見つかった!
だが、まだ開店までに時間があるので、吉田城跡の豊橋公園まで、観光見物に歩いていった。


三重の鉄櫓:くろがねやぐら(模擬再建)・・・実際のところは天守閣の役割だった。

城は全く残っていないが、資料館を兼ねて一部再現されている。

吉田城(ウィキペディアより)
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戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。
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吉田城再現模型


櫓からの景色

さて、公園内をぶらついた後、昭和レトロな風呂屋の近くの、これまた昭和な酒屋へ


缶ビールを店内で立ち飲みながら店主のオバアちゃんと世間話をしていた。
オバアちゃんの話だと、「私の記憶じゃ、今までにこんなに暑かったことはなかった。」というぐらい、豊橋は暑かったらしい。

風呂屋(人参湯)は最高だった。
とくに水風呂がひんやりして気持ちいい。
風呂2割、水風呂8割という割合での入浴である。
それだけ、日焼けしていたという事だ。
 
人参湯(右の夜の写真はトーキョーワッショイより借りました)

それでも、体の方は日焼け止めクリーム効果で真っ赤にならずにすんだ。

だが、である。

東京に戻り、鏡で己が顔をみてビックリ
もう火傷に近い日焼けだったのである
真っ赤な人参男であった。
完全に顔が腫れている。

考えてみたら、走っている途中で水道をみつけると気持ちがいいので顔を洗っていたから、日焼け止めクリームが全く意味をなさなかったのだ。
おそるべし、真夏の日差し!


次回は麦わら帽子でも被って走ろうか?

おしまい



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