日本の政治経済的課題(その3- - -1970年代の総括(1))
著者は言う。”日本の1950年~1970年の脅威の成長は、日本が、その旧設備を、西欧がその20~30年前に成し遂げた技術革新を生かした設備に入れ替え、その優れた国民をその西欧の技術に習熟させ、殆ど全ての国民をその設備の使用に充て、その革新された設備をフル稼働させ、得られた富をほぼ公正に分配して国民一丸となってその成長を支えさせ、政、官、業のコンセンサスで全てを管理したから達成できたのである。しかし一度最新式の設備を装備した国は、それからは、自らその技術を革新して生産性を上げ、労働力を増やしてそれに見合った設備を新設することによってしか、実質のGNPをあげることは出来ない。 従ってOECD加盟国の常識で言えば、技術革新で年率2~3%、労働力の成長が1~2%、合計で年率3~5%のGNPの成長しか期待できない。しかし日本人は1970年代はまだこのことを理解していなかった。”
”現代国家の資本財はGNPの約3倍である。その磨耗損失はその5%になるので、その磨耗の修理費はGNPの15%になる。労働人口の2%増加は彼らの為に、約GNPの3% に相当する設備投資が必要になる。労働人口の2%増加そのものもまた、約GNP3%の費用になる。現存の労働人口もまた技術革新された設備を必要とするし、社会資本も必要である。結局年率5%のGNPの成長の為には、GNPの約30%の投資が必要であるが、日本は1970年~1980年の投資はGNP対比で、1970年の39%から1980年の30%へ漸減している。またGNPの成長は、円の固定相場制から変動相場制への移行、ニクソンショック、第1次オイルショック、第2次オイルショックなどがあり大きく変動したが、第1次オイルショック時の1973年10月~1974年4月を除けば、OECD加盟国平均より少し上であり、10年を平均すれば約年率4%であった。また貯蓄と投資の関係も1965年を境に変化した。それまでは投資の慣性が貯蓄のそれを上回り、周期的に投資が貯蓄を上回ったが、1965年以降は慢性的に貯蓄が投資を上回り、常にGNP比約40%であった。(上記の投資(GNPの39~30%)を上回った訳である)”
著者はまた、Bretton Woods固定為替レート制度の崩壊とその当時の情勢を次の様に分析している。
"1967年までは、日本のインフレは他のOECD加盟国と同じ位で推移したが、1967年には他国と同じく上昇に転じた。1949年以来初めて、経常収支の問題に対処するより、物価上昇を抑える為に、需要を抑える緊縮政策を取った。このときの経常収支はGNP比+1%であった。これまでこのレベルに達したのは、1959年と1964-1965年のみであった。この政策は1969年から1年間導入された。これは国内需要を消沈させインフレを抑制したが、経常収支は、1971年1972年ともGNP比+2.5%となり大きな国際問題となった。ドイツがマルクを再評価した1969年の同じ時に円を再評価する方が賢明な政策であったであろう。そうすることにより、輸出の競争力を弱め輸入をより魅力的にして、国内需要を抑制し、輸入をより安くし、経常収支を増やさずにインフレを抑えたであろう。この経常収支のGNP比+2.5%はニクソン政権下のアメリカの怒りを買い、日本はデフレ政策を余儀なくされたのである。引き続いて起こったBretton Woods固定為替レート制度の崩壊の唯一の原因が日本の取った行動であるという訳ではない。より根本的な原因は、この制度のアンカーとして行動することをアメリカが拒否したからである。アメリカはその経費をアメリカ国民に負わせることなしにベトナム戦争を戦った。世界のその他の国々との貿易収支の赤字も抱えながら、アメリカは、特にヨーロッパに対しての、長期の資本の流出を制限する努力をしなかった。ヨーロッパはアメリカと同じインフレの道を取るべく通貨を膨張させることが出来ただろう。もしアメリカからの輸出が高くなれば、その解決策は、日本とドイツが彼らの輸出を同じ程度に高くする対策をとることであった。円を再評価する覚悟が無いのならば、日本は予算と金融政策において、アメリカと同じようにインフレ政策をとることによってその様に出来たであろう。単純な事実はアメリカが、ドルの交換レートを保護する為に、遅い成長と緊縮財政の政策を追求する覚悟が無かったということである。全く反対であった。1968年に大統領になったニクソンは1972年に再選に直面していた。1971年の初めは経済は弱かった。アメリカの経常赤字または資本の流出への影響に拘らず、彼はその故に経済の刺激策を取った。確かに彼はドルを消費することを奨励した。Bretton Woods固定為替レート制度から大いに利してきたその他の国々はこの制度を救うことができた。しかしそれをしなかった。外国資本は1971年3月ドイツに逃げて来た。ドイツはマルクを浮動させざるを得なかった。逃げ込んできた資本はその目的地をベルギーとフランスに変えた。フランスは素早くアメリカ連邦準備金システムでドルを金に交換した。アメリカのFort Knoxの金をフランスが ’銀行強盗’ したために、アメリカはドルの金との交換性を中止せざるを得なかった。これが所謂ニクソンショックである。1971年8月15日、ニクソン大統領は、外国の中央銀行はもはやドルを固定レートで金と交換できないと発表した。国々はドルは金と同じであると信じてドルを保持したが、利子も稼いだ。ドルはいつでも金に交換できるので誰も売りたくなかった。交換できなくなったので誰もそれを保持したいと思わなくなった。ニクソンは輸入品に10%の課税をしたが、これはドルを下げた分だけ税金で上げる秘密の方法である。外国援助も10%減らした。そしてアメリカの賃金と物価を90日凍結した。それとともにアメリカの需要を刺激する為に減税を行った。このことは、アメリカはもっと輸入を増やし、経常収支の赤字を更に増やすことを意図したのであろう。このことは他の国々が彼らの準備金により多くのドルを保持することによってのみ融資されることができたのです。日本はショックのあまり直ちに反応出来なかった。東京株式市場は値崩れした。しかしヨーロッパがその外国為替市場を閉鎖して、外国為替を変動させたが、日本の外国為替市場は開けたままだった。ドルは円に流れ込み日本銀行は円の上昇を防ぐ為ドルを買わざるを得なかった。しかし円の上昇を止めることは出来ず8月28日円は浮動させられ直ちに値上がりした。1971年12月ワシントンのSmithsonian Institutionで行われた固定為替レート制度を復活させる努力(Smithsonian Agreement)が行われたがこれも保持されたのはたった14ヶ月間だった。このAgreementにより、円は360円/ドルに対して17%上げられ308円/ドルに固定されたが、ドイツマルクに対しては3%、英国ポンドとフランス・フランに対して7.7%上げられた。しかしアメリカはこの協定で10%の輸入税を廃止した。アメリカは日本の最も重要な貿易相手であったので、円の17%の上方修正は問題であった。しかしこの時の円の17%の上方修正のパニックは、時間が経過した現在では、評価することは難しい。そのパニックは未知のものに対する恐れであった。円レートは20年強の間、固定されて来ただけでなく、この間、円の価値を保護するべく周期的に経済政策は緊縮政策を取られてきた。安定した為替レートは、長期に亘る急速成長に不可欠であるという根拠に基づいて、急速成長よりも、短期的には、優先されて来たのである。そのパニックはまた1969年の財政引締めのために既に始まっていた経済の下降傾向の為でもあった。1971年の円の17%の上方修正は、金融引き締めを再度行うこととして見られたから、リセッションを不況に変える可能性があった。これらの恐れは、1970-1971年のリセッションは、日本だけに限ったことではないという事実の故に、複雑なものだった。全ての大国に同時進行する経済の下り傾向があったのである。”
出来るだけ厳密な翻訳を心がけましたので、こなれた文面になっていませんがご容赦戴きたい。1970年代は後2回くらい継続する必要がありそうです。
著者は言う。”日本の1950年~1970年の脅威の成長は、日本が、その旧設備を、西欧がその20~30年前に成し遂げた技術革新を生かした設備に入れ替え、その優れた国民をその西欧の技術に習熟させ、殆ど全ての国民をその設備の使用に充て、その革新された設備をフル稼働させ、得られた富をほぼ公正に分配して国民一丸となってその成長を支えさせ、政、官、業のコンセンサスで全てを管理したから達成できたのである。しかし一度最新式の設備を装備した国は、それからは、自らその技術を革新して生産性を上げ、労働力を増やしてそれに見合った設備を新設することによってしか、実質のGNPをあげることは出来ない。 従ってOECD加盟国の常識で言えば、技術革新で年率2~3%、労働力の成長が1~2%、合計で年率3~5%のGNPの成長しか期待できない。しかし日本人は1970年代はまだこのことを理解していなかった。”
”現代国家の資本財はGNPの約3倍である。その磨耗損失はその5%になるので、その磨耗の修理費はGNPの15%になる。労働人口の2%増加は彼らの為に、約GNPの3% に相当する設備投資が必要になる。労働人口の2%増加そのものもまた、約GNP3%の費用になる。現存の労働人口もまた技術革新された設備を必要とするし、社会資本も必要である。結局年率5%のGNPの成長の為には、GNPの約30%の投資が必要であるが、日本は1970年~1980年の投資はGNP対比で、1970年の39%から1980年の30%へ漸減している。またGNPの成長は、円の固定相場制から変動相場制への移行、ニクソンショック、第1次オイルショック、第2次オイルショックなどがあり大きく変動したが、第1次オイルショック時の1973年10月~1974年4月を除けば、OECD加盟国平均より少し上であり、10年を平均すれば約年率4%であった。また貯蓄と投資の関係も1965年を境に変化した。それまでは投資の慣性が貯蓄のそれを上回り、周期的に投資が貯蓄を上回ったが、1965年以降は慢性的に貯蓄が投資を上回り、常にGNP比約40%であった。(上記の投資(GNPの39~30%)を上回った訳である)”
著者はまた、Bretton Woods固定為替レート制度の崩壊とその当時の情勢を次の様に分析している。
"1967年までは、日本のインフレは他のOECD加盟国と同じ位で推移したが、1967年には他国と同じく上昇に転じた。1949年以来初めて、経常収支の問題に対処するより、物価上昇を抑える為に、需要を抑える緊縮政策を取った。このときの経常収支はGNP比+1%であった。これまでこのレベルに達したのは、1959年と1964-1965年のみであった。この政策は1969年から1年間導入された。これは国内需要を消沈させインフレを抑制したが、経常収支は、1971年1972年ともGNP比+2.5%となり大きな国際問題となった。ドイツがマルクを再評価した1969年の同じ時に円を再評価する方が賢明な政策であったであろう。そうすることにより、輸出の競争力を弱め輸入をより魅力的にして、国内需要を抑制し、輸入をより安くし、経常収支を増やさずにインフレを抑えたであろう。この経常収支のGNP比+2.5%はニクソン政権下のアメリカの怒りを買い、日本はデフレ政策を余儀なくされたのである。引き続いて起こったBretton Woods固定為替レート制度の崩壊の唯一の原因が日本の取った行動であるという訳ではない。より根本的な原因は、この制度のアンカーとして行動することをアメリカが拒否したからである。アメリカはその経費をアメリカ国民に負わせることなしにベトナム戦争を戦った。世界のその他の国々との貿易収支の赤字も抱えながら、アメリカは、特にヨーロッパに対しての、長期の資本の流出を制限する努力をしなかった。ヨーロッパはアメリカと同じインフレの道を取るべく通貨を膨張させることが出来ただろう。もしアメリカからの輸出が高くなれば、その解決策は、日本とドイツが彼らの輸出を同じ程度に高くする対策をとることであった。円を再評価する覚悟が無いのならば、日本は予算と金融政策において、アメリカと同じようにインフレ政策をとることによってその様に出来たであろう。単純な事実はアメリカが、ドルの交換レートを保護する為に、遅い成長と緊縮財政の政策を追求する覚悟が無かったということである。全く反対であった。1968年に大統領になったニクソンは1972年に再選に直面していた。1971年の初めは経済は弱かった。アメリカの経常赤字または資本の流出への影響に拘らず、彼はその故に経済の刺激策を取った。確かに彼はドルを消費することを奨励した。Bretton Woods固定為替レート制度から大いに利してきたその他の国々はこの制度を救うことができた。しかしそれをしなかった。外国資本は1971年3月ドイツに逃げて来た。ドイツはマルクを浮動させざるを得なかった。逃げ込んできた資本はその目的地をベルギーとフランスに変えた。フランスは素早くアメリカ連邦準備金システムでドルを金に交換した。アメリカのFort Knoxの金をフランスが ’銀行強盗’ したために、アメリカはドルの金との交換性を中止せざるを得なかった。これが所謂ニクソンショックである。1971年8月15日、ニクソン大統領は、外国の中央銀行はもはやドルを固定レートで金と交換できないと発表した。国々はドルは金と同じであると信じてドルを保持したが、利子も稼いだ。ドルはいつでも金に交換できるので誰も売りたくなかった。交換できなくなったので誰もそれを保持したいと思わなくなった。ニクソンは輸入品に10%の課税をしたが、これはドルを下げた分だけ税金で上げる秘密の方法である。外国援助も10%減らした。そしてアメリカの賃金と物価を90日凍結した。それとともにアメリカの需要を刺激する為に減税を行った。このことは、アメリカはもっと輸入を増やし、経常収支の赤字を更に増やすことを意図したのであろう。このことは他の国々が彼らの準備金により多くのドルを保持することによってのみ融資されることができたのです。日本はショックのあまり直ちに反応出来なかった。東京株式市場は値崩れした。しかしヨーロッパがその外国為替市場を閉鎖して、外国為替を変動させたが、日本の外国為替市場は開けたままだった。ドルは円に流れ込み日本銀行は円の上昇を防ぐ為ドルを買わざるを得なかった。しかし円の上昇を止めることは出来ず8月28日円は浮動させられ直ちに値上がりした。1971年12月ワシントンのSmithsonian Institutionで行われた固定為替レート制度を復活させる努力(Smithsonian Agreement)が行われたがこれも保持されたのはたった14ヶ月間だった。このAgreementにより、円は360円/ドルに対して17%上げられ308円/ドルに固定されたが、ドイツマルクに対しては3%、英国ポンドとフランス・フランに対して7.7%上げられた。しかしアメリカはこの協定で10%の輸入税を廃止した。アメリカは日本の最も重要な貿易相手であったので、円の17%の上方修正は問題であった。しかしこの時の円の17%の上方修正のパニックは、時間が経過した現在では、評価することは難しい。そのパニックは未知のものに対する恐れであった。円レートは20年強の間、固定されて来ただけでなく、この間、円の価値を保護するべく周期的に経済政策は緊縮政策を取られてきた。安定した為替レートは、長期に亘る急速成長に不可欠であるという根拠に基づいて、急速成長よりも、短期的には、優先されて来たのである。そのパニックはまた1969年の財政引締めのために既に始まっていた経済の下降傾向の為でもあった。1971年の円の17%の上方修正は、金融引き締めを再度行うこととして見られたから、リセッションを不況に変える可能性があった。これらの恐れは、1970-1971年のリセッションは、日本だけに限ったことではないという事実の故に、複雑なものだった。全ての大国に同時進行する経済の下り傾向があったのである。”
出来るだけ厳密な翻訳を心がけましたので、こなれた文面になっていませんがご容赦戴きたい。1970年代は後2回くらい継続する必要がありそうです。