Kameの独り言

思いついたことをありのままに

南無

2007年10月13日 13時33分08秒 | 仏教

南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無観世音大菩薩、南無地蔵菩薩、南無大師遍照金剛)等々、私たちは日常、南無ということばを言い馴れているし、聞き馴れています。
南無とはサンスクリットの「ナーム」で、それを漢字で音写したものです。ナームは「帰依する」ということです。すべてを任すということです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀様に帰依しますということで、浄土宗(じょうどしゅう)、浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)、時宗(じしゅう)などは、六字(ろくじ)名号(みょうごう)といって、このことばを祈りのことばとして、それを称(とな)えることによって、すべての罪も許され、浄土に迎えられると信じます。
南無妙法蓮華経と称えながら太鼓を叩いて勇ましく祈るのは日蓮宗(にちれんしゅう)です。日蓮が釈迦の説かれたお経の中で妙法蓮華経が最もすばらしいとして、それを信仰の中心に据(す)えたからです。
南無観世音は、観自在大菩薩(観音さま)に帰依しますということで、観音さまは現世(げんせ)で我々を幸せに導いて下さると信じ、宗派にとらわれず多くの人々の信仰の対象になりました。
南無大師遍照金剛は、真言宗の人々が称えます。この大師は弘法(こうぼう)大師(だいし)(空海(くうかい))のことです。四国八十八か所の巡礼の時は各札所(ふだしょ)で、必ず、巡礼たちはこれを称えて祈ります。「南無」の会というのが出来て、宗派にとらわれず、僧侶が集まって、仏教を広める運動をして、多大な成果を収めています。「南無」という語はすっかり大衆にとけこんでいて、日本語のように思っているひとさえいます。
中国の求道の心篤い僧侶たちが、国禁を犯して、ヒマラヤの雪山を越え、命がけの苦難の旅をつづけてインドに渡り、そこで仏教を学び、多くの経典を持ち帰りました。
それを中国語に訳したものが、今、私たちが読んでいる漢訳経なのです。それが中国から朝鮮を経て日本に伝えられました。また多くの日本の僧侶たちが命がけで、中国に渡り、経典を写し、持ち帰りました。

南無にこめられた熱い祈り

南無(なむ)ということばにこめられた祈りの熱さは、そうした人々の命がけの尊い努力がこもっています。何宗によらず、信仰の行きつく最後のところは同じだと思います。
「信は任すなり」といいます。任すとは、自我を捨て去って、全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)を仏に捧げ、どうともして下さいと身を投げだして、お任せすることなのです。
 私たち凡夫(ぼんぷ)のはからいなど、たいしたことはありません。人間は生きている上で、考えられないような様々な災難や苦労に遭(あ)います。その時、自分の信じる仏に「南無」といって命も運命もお任せしてしまえば、そしてそれが出来ればどんなに気が楽になることでしょう。そこから必ず道が開けて来るのです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿