Kameの独り言

思いついたことをありのままに

達磨の教え「二入四行論」

2007年10月13日 12時17分02秒 | 金剛禅
達磨の教え「二入四行論」から拳禅一如を見直してみる  先ず教範で開祖の教え「拳禅一如」を見直し、そこから達磨の教え「二入四行論」に当てはめて考えてみましょう。「拳は動功であり、禅即ち座禅は、静功である。拳は又肉体を意味し、禅は精神をあらわしている。  人間は本来、霊肉一如のものであって、霊魂と肉体は離すべからざるものである。故に、霊のみの修養によって、真実の救いや、人世に於ける真の大安慰が得られるものではなく、又肉体のみの修練によって、真の人格が完成したり、真の悟りが得られるものではない。  身と心、動と静、この相反するが如き二つのものは天地、陰陽の両相と同じく、別々には存在価値のないものである。故に正しい修養の道は、先ず霊の住家である肉体を養いながら、心即ち霊を修めるものでなくてはならぬのである。修養と云う言葉の意味は、心を修め、身を養うと云うところからきていることを知らなければならない。人間の心と身体の関係は、玄妙の極みである、心と体は二つのもののように見えて、実は一つである。心が主でもなければ、肉体が主でもなく、肉体が在っての心であり、霊があって始めて肉体は意味があるのである。・・・・・・(中略)・・・。  別々に離すことが出来ないものとするならば、その修養はあくまで霊肉一如でなければならぬ筈である。しかるに、現在多く行なわれている各種の修養法と称するものは、そのほとんどが精神偏重である。はなはだしいものは、足がくさる迄座禅せよと教えたり、絶食をさせたり、寒中滝に打たれる等の苦行をさせ、肉体を苦しめることによって、精神の安らいや悟りを得るのである等と説いている。長期の座禅や断食その他の苦行は肉体を弱化させて、枯木の如き人間をつくっている。  又各種の武道やスポーツ等は、勝敗が第一であり、精神修養とは名ばかりで、実質は技術第一、記録第一と特種な肉体を練成することに専念しているのが実状である。・・・・・・(以下略)。」  さて、拳は肉体を意味し、というところを考えてみてください。 この肉体を意味しと言う所を,単に肉体の鍛錬と考えてしまうと、単なる武道に精神論を加えたものが少林寺拳法という事になってしまうのです。それを金剛禅と呼ぶには余りにも浅すぎるのではないでしょうか。  人間の身体は鍛えても衰えるものです。若い間は力任せでも何とかなっていたものが、年をとれば何とも成らなくなってしまう、だから引退しなければならなくなってしまう。それでは武道やスポーツと変わらなくなってしまいます。  私は、体術において理法を追い求める事によって、腕力で行なっていたものを他の方向や角度、呼吸法、気の用いかたという能力によって転換する事を考えました。これは、達磨の教えた理入(りにゅう)にあたるものと考えれば、拳は肉体の限界を悟り、物事を理に応じて進める事の大切さを知る事なのではないでしょうか。だからこそ、これを禅の三祖 僧粲大師は「動中の功は、静中の功に百千倍する」と説かれた所以であり、北修禅の流れを組む我々が、拳と禅の二道に重きをおく理由と考えるべきではないでしょうか。   体の駆使と悟りから理を知り考える事を理入。様々な心構えから物事の真理を知り悟る事、称法行(しょうほうぎょう)四行の目的と考えれば、この二入の理と行が、拳と禅に置き換えられる事に気が付かねばならないのです。この二面から理を悟り万物の普遍の法則である法(ダーマ)を悟る事が拳禅一如の深い意味であると感じるのです。 「ダーマ」を物理学的宇宙観から説明する。(自説)    ダーマを説明しろと言われてなにも知らぬ人になるほどと納得いただける説明をできますか。大光明・大霊力・大真理と聞けば、なるほどなにかすごいものなんだなーという感覚を受けるかもしれませんが、それと同時に宗教的な感覚を感じとるのではないでしょうか。ここで言う「宗教的な」とはあまり良い意味ではありません。いわゆる得体の知れないものという感覚で、よく言えば神秘的な、悪く言えば曖昧な感覚のことです。  そもそも宗教は心のよりどころ、「曖昧な表現があってもそれが宗教観ではないか」と言う人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。なぜなら金剛禅では釈迦の正しい教えを説いているからです。  そこで私は宗教とは全く反対の分野を切り口にして皆さんが金剛禅の信仰の中心になっているダーマを理解できるようにご説明させて頂きます。  現代の宇宙論として通説になっている量子論と相対論という現代物理学の2大理論から導かれた宇宙論をまず紹介します。東大教授佐藤勝彦 著『宇宙は我々の宇宙だけではなかった』を引用しましたので是非ご覧になってください。  宇宙は時間も空間もエネルギーも全くない無から量子論的「トンネル効果」によって創世され、この宇宙は後にたくさん発生する「子宇宙(チャイルド・ユニバース)」、「孫宇宙」「曾孫宇宙」などの「親宇宙」に当たるが、ただ一つだけ生まれたのではなく、この段階でも沢山生まれたと考えられる。 「親宇宙(マザー・ユニバース)」は十のマイナス三十四乗センチメートル(プランクサイズ)程度の閉じた宇宙。創世と同時に内部エネルギー(真空エネルギー)によってインフレーション急膨張を起こし何十桁、何百桁も引き延ばされてマクロな宇宙になったそのさなか、宇宙のあちこちでは相転移が起こり、お湯が沸騰したときの様なボコボコした状態のなかから「子宇宙(チャイルド・ユニバース)」が誕生した。また子宇宙でも同じように「孫宇宙」が生まれ、「孫宇宙」でもまた「曾孫宇宙」が生まれると言うように無数の宇宙が生まれた。 この相転移のプロセスの中で宇宙のエネルギーは一挙に開放される。そして、相転移後の宇宙は開放されたエネルギーで満たされ「火の玉」となった。この瞬間が「相対論的宇宙論」でいうところの「ビッグバン」です。  こうして無数に誕生した宇宙の一つが我々の宇宙に進化した。もちろん他にも無数の宇宙が我々の宇宙と同様に進化している。すなわち、宇宙は我々の宇宙だけでないと言うことがはっきりしたわけです。 そしてビッグバンを経てわれわれの宇宙は膨張進化を続ける。光に満たされていた宇宙では温度が下がるにつれて、物質が誕生し、銀河ができ、星がうまれ、太陽系ができ、地球が生まれます。さらに生命が誕生し、人類に進化し、現在、われわれが知恵を総動員して宇宙の「来し方行く末」を考えているわけです。  しかし、進化した宇宙は、遠い将来、収縮に転じ、やがて「無」の中に消滅してしまうと思われます。宇宙はこのように、常に生成と消滅を繰り返していくのです。そして、われわれの時空を超えたところでも、無限個の宇宙がやはり生成と消滅を繰り返していると思われます。      __以上引用文 ________________________________________  この本を読んで驚かされたのは時間は物質の存在により進む速度が変化し、重力の極限状態では空間は極限まで曲げられ時間の進み方も極限まで遅くなり凍結されてしまうということ、そして何より宇宙の膨張にも終わりがあり、最後は消滅するということでした。宗教観が宇宙観を作り上げていた時代ではかんがえられないことだったとおもいます。しかし、釈迦の宇宙観はこれを素直に受け入れられるのです。無からの誕生そして膨張という育みの中で新しい芽を生み、そして迎える死。宇宙を支配するこの法則は生・育・死であり、宇宙ですらこれを繰り返していることがわかります、実は我々の営みこそが宇宙の営みとなんら変わらないことに気づくのではないでしょうか。  人の言う生をうけたものも、そうでない大地に育まれるように、直接的に生産する部位と間接的に育む部位が存在します。それと同じ様に我々も子孫を残すと同時に様々なものを間接的に育てたり破壊したりしています。死は生の為にあり、生は自らを育み新しい因子を生み死を迎えます。すべてのものはこの法則的行為のもとに互いに関わり合うのです。  超高質量の世界では時間は流れず、とまってしまいます。我々の宇宙の誕生の前がこの時ですが、これが育む段階になって時間が流れはじめます。時間は物質の存在によって変化しています。つまり時間は育みを行うために流れる時間を変えているのです。我々は死を糧として育むためにいきています。だから我々は死を拝み、また関わるお互いを拝みあい、時の中で新しいものを育んでいます。子孫に悪因を植え付けると子孫にはかならず悪果をもたらしますから、時の流れの中で良い因子を積み上げなければなりません。これが宇宙の本能であり、万物の本来の姿。宇宙と同じ呼吸なのだと思います。つまりダーマとは宇宙の本能であり、我々が時の流れの中でしなければいけないことを告げているのです。 中道の精神から不殺活人という理想を考える   単に勢力を争ったり、自分の主義主張で、我を通すために戦いを求め、各々の正義を主張して争いをはじめる。腕力や兵力で相手を叩き伏せねば気の済まない者がいるから戦いになり、多くの悲しみをつくり、怒りが蔓延する。   武の本来の意味はいたずらに人を傷つけ殺すためのものではなく、あくまで争いを止める事にある。『力愛不二』の真の意味である、「力」の表わす理智による自己確立と、「愛」の表わす慈悲をもった自他共楽を兼ね備えた姿勢がなくしては、この連鎖する憎しみを断ち切る事が出来ないのである。   人を傷つければ憎しみが生まれる、例えそれが相手の理不尽から始まった事と思えても、相手にも相手の考え方があっての行動であると思えば、負けたという悲しみが、憎しみに変わる事を理解しなければならない。この憎しみをあおり、さらに、大きな戦いへと持ち込もうとするものがいる事は、最近の世界情勢の中でまざまざと見せ付けられている。   自分の考えのみが正しいと考えるから他がゆるせなくなる。善も悪も無い、人それぞれの立場や考え方、環境で善悪の尺度などどうにでも変わってしまう事を理解する事だ。   右があれば左もある。自分が左だと思っていても、自分を右だと見る人もいる。   相手の意見が気に入らないと潰しに掛かるのではなく、お互いが共存できる道を探すことが重要なのである。   理不尽に身にふり掛かってきた災難を腕力ではなく、理智を持って対処し、粗暴な行為を抑え諭すこと、それが少林寺の拳士に求められる拳の用い方であり、誰もが行なえるためにも理の活用の重要性を説く理由なのである。 力愛不二という考えかたについて  力は理智を表わし、愛は慈悲を表わしている。理智と慈悲、力と愛、この相反する二つのものの調和、統一された状態こそ。人間生活の思想や行動の中心でなくてはならないと云うのが、少林寺拳法の第二の特徴であり、考えかたなのである。   さて、これを「力なき正義は無力であり、愛なき力は暴力である」とばかり解することが多いが、さらに深く考え、我々の日常にあてはめて考えるのならば、次のように解釈してみればよいだろう。   力とは自分に対する信頼であり、責任感を貫き通す真の勇ましさに他ならない。この力が自分に機会という場を導き出す事になる。与えられた機会の中から努力し、一つ一つ着実にこなしていく事で、他者からの信頼を得る事になる。   ただし、力だけでは世の中に通用しない。それ以上に必要なものがある。それが愛である。愛とは他人を愛する事と同時に、他人から愛されるだけの魅力を持つという事、求められるという事でもある。自分に与えられた機会をただこなすだけではなく、魅力のあるものに仕上げる事が出来る人間こそ真の信頼を得ることが出来る。   この力と愛を一つにした行動こそ、社会に求められ、自分の道を開くものである。力に任せた惰性な行動や、求められる事を見抜けないような意識の低さでは駄目だということである。   自他共楽、『 半ばは 自己の幸せを  半ばは 他人の幸せを  』という開祖のことばが答えを示している。 修羅(シュラ)の道と阿羅漢(アラハン)の道 人間の脳には二つの心が同居している。よくドラマやアニメなどでおなじみの天使と悪魔のささやきがこれで、人間を始め動物が持ち合わせている本能の働きと、人間しか持ち合わせない、理性の心の働きの二つのことである。中国では前者を魄(ハク)後者を魂(コン)として区別している。我々の行う修行とは本能の働きを抑制制御し、ダーマの分霊として備わる魂を養うことなのである。   我という字は手と戈の二つの文字が合わさって出来た会意文字。つまり我とは手に戈を持った状態であり、これを行使する心の持ちようで善にも悪にもなりうるのであるから、苦悩の根源である欲求つまりは本能の働きを修め、より理性的な行動を心がけなければならない。人の霊止たる、我の我たる真諦を極め人間は何のためにこの世に生を受けているのかを悟らなければいけないのである。   行という字は、人が人をおぶって向かい合った姿からできている。我々の行いが世のため人のために役立たなければ意味がないのである。自己確立は自他共楽のためであり、決して自己満足で終わってはいけない。己の強さを誇示しようとして他人を傷つけてはいけない。傷つけるものは傷つけられる。悪因があれば必ず悪果がもたらされるのが道理。これはまさに修羅の道。武の意義をはきちがえたものの行為である。二つの戈を止めるという意義を片時も忘れずに己を修め、己に克ち、人をいかして己も生きる済世利民の道、つまりは阿羅漢(仏)の道というより険しく遠い道を我々は選んでいるのである。利己的で安易な道に流され本道を見失ってはいけない。 欲こそ苦悩の根源 生の意義を自覚せよ 三宝印   我々の人生は悩みの繰り返しではないでしょうか。若い人であれば恋愛の悩みというのもあるだろうし、受験生には将来の悩みというのもあります。そんな君たちに知っておいてほしいことがあります。それはどんな人も必ず死を迎えるということです。  皆はまだ若いから死について考察したことなどないと思います。あるとすれば自殺したいと漠然的もしくは衝動的に思ったくらいではないでしょうか、私の言う死にたいする考察とはそういうことを言っているのでは在りません。生きたいという誰しもが持つ生存欲の果てに待つのは必ず死であるという矛盾が苦悩を生み出すのであり、死を認め人生の意義を知ったとき人は苦悩から開放されるということです。すべての悩みは事実と期待が矛盾することに始まります。期待するから失望があるのです。自分の思うままにならないから悩むのです。期待しそれが順調に行っても最後に迎えるのは死、報われない努力。だったら期待するのを止めればいいのです。この世の中は絶えず変化しています。それは生滅を繰り返し、お互いに影響を与え色々な形を生み出し常に変化を繰り返しています<諸行無常>レポートの最初にも取り上げましたがこの宇宙自体がその繰り返しなのです。その中で生・育・死の三つが宇宙の本能としてあると言うお話をしました。そして育こそが生と死の意義だとときました。直接的に育むものもあれば間接的に育むものもあり、良い因子を正しい方法で育成すればそれは次の世代に良い結果や新たな良い因子として継承されるが悪い因子や正しくない育て方をすると淘汰、排除されてしまうという宇宙の法則があるのです。  先日ある拳士が私に質問しました「年をとったり病気をして死んでしまう人がいるのは悪い原因があったんだな~って思えるけどまだ何も汚れていない赤ん坊が事故とかで死んでしまうのはなぜなんでしょう」それは先ほども書きましたが、全てが自分の持つ因や、直接的な縁によって決まるのではなく、縁はお互いに影響しあうものであり、他のものと接したり近づくことによって縁が絡む(生ずる)からなのです。決して前世の因縁(輪廻転生)がもとで死んだのではなく、事故を起こした親には事故をおこした原因があり、また経過(縁)があった結果の事故であり、その人が親であり(因)、一緒にいた(縁)からそのこは死んだのに違いありません。ところでこの親が事故してしまう原因が例えば居眠り運転で、その居眠りの原因がこの子の夜泣きだったとしたらどうでしょう。まさに近づくことで影響しあっていることが想像できると思います。私達は常にいろいろな要因にさらされ、その中で一瞬一瞬を生き抜いているのです。自分の事であって自分だけのことでない、他人のことであって、他人事でない全ての変化は相対的であり関連性の連鎖なのです。<諸方無我>だとするならば、我々は自らによい因と縁をもたらすためにも接する人にもよい因と縁を持たせねばならないのです。半ばは自分の幸せを 半ばは他人のしあわせを考え行動することで周囲を良い因子で満たし、これを直接的に、また、間接的に継承してよりよい世界を作り上げていくものでなければならないのです。そしてそこにこそ安心と安息があるのです。<涅槃寂静>そして、これこそが人間の生の意義であり、イコール宇宙の本能<ダーマ>なのです。 金剛禅と少林寺拳法の原点 開祖の意図したこと  少林寺拳法の原点は単なる武道やスポーツではなく自己確立の為の行であるということ。開祖が戦中から敗戦を迎える中で感じ取った「人の質」の重要さ、そして、この質の向上こそが祖国復興の鍵との信念の中から少林寺は誕生している。  道義も人情も廃れ跡形もなくなってしまっていた当時の日本。正しい事を正しいといえる人間を作ること、自信と勇気と行動力があってなおかつ正義感と慈悲心を持ち合わせた若者を作るために開祖がよりどころとしたのは、釈尊の正しい教え(*1)と達磨の遺法(*2)であった。それは開祖の実体験の中でまさしくこの世の中の無情とそして、相関性を痛感されたからだろう。開祖はこの涅槃寂静を死後の世界ではなく、現世に理想境を建設することと素直に捉え、廃退した仏教を本来ある形に押し戻し、自己確立と自他共楽こそがそれを導き出す唯一の手段であるとした。そのためには釈尊の教えた八正道の実践と真理を導き出すための動功として達磨が残した阿羅漢の拳の復興こそがテーマとなったに違いない。教範の文面や、文の構成、タイトルの付け方からもそれが読みとることが出来る。、開祖の思惑の中では当初から行としての少林寺拳法は確立されており、人集めのためのエサであってエサでなく、それは真意を知って行うことによって悟りが開ける一つの完成された行であることを知らなければならない。ようするに金剛禅とは仏教の始祖釈尊の正しい教えの、少林寺拳法は禅の祖師達磨の遺法に基づく開祖、宗道臣の解釈と実践の形なのである。 *1 釈尊は初法転輪と呼ばれている悟りを開いた直後に初めて行った説法のなかで四宝印(諸行無常、一切行苦、諸法無我、涅槃寂静)と、最期に弟子達に自灯明、法灯明を言い残している。これは金剛禅の二枚看板、自他共楽と自己確立の教えである。 *2 二入四行論といって金剛禅で言う拳禅一如にあたる教え、動功としての阿羅漢の拳は易筋行としての少林寺拳法。 江間氏のレポートより。

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