事のなりゆき

日々のなりゆきを語ります

2008-12-31 09:17:26

2008-12-31 09:17:26 | Weblog
前の晩泡盛を飲み過ぎたかと思いきや体調はよく、やっぱり泡盛は私にはあうようだ。沖縄に来てすっきり晴れたことがない。毎年曇り。せっかくのエメラルドグリーンの輝きが鈍って見える。小雨の中国道58号を北上する。昼食場所を探す。条件はレンタカーが止まっていないところ。地元の人が来そうなところに入りたい。名護の手前でよさそうなステーキハウスを発見。レンタはなし。地元の車のみ。難点はクラウンなどの高級車ばかり。高いかも。メニューを見てびっくり。ロブスターが3500円。ステーキが1500円。結局ランチステーキとガーリックチキン。でも4000円。最高級の店に入ったようだ。おいしかったけど。先が思いやられる。
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2008-12-30 08:19:01

2008-12-30 08:19:01 | Weblog
正月恒例の沖縄旅行を今年も不景気のさなかといいながら決行しました。雨雲の中を潜り抜け、さほどゆらされることなく那覇国際空港に降り立つと、まるでビニールハウスの中に入ったような湿気に包まれた。精一杯の薄着をしてきた私たちの想像をはるかに越える暖かさというより熱さが歓迎してくれました。気温は23度。体温調節がうまくいかずなんだか肩こりが始まった。季節の変わり目を一瞬にして味わう。空港ビル内を歩く人たちはほんどが半袖だ。ここが沖縄を実感した。旅行のスタートはいつもハプニングだ。それがたまらない。なんだかたのしくなってきた。
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グッジョブ。

2008-12-26 16:48:26 | Weblog
けさは朝から雪。久しぶりの雪景色。マンションの玄関を出てみると、車をジャッキアップしてタイヤを交換している人がいた。あたたかい日が続いていたので、油断をしていたのだろう。雪の影響で道路は大混雑していたが、バスはどういうわけか空いていて、座れた。一番後ろに腰を降ろすと、隣の20歳くらいの男が前座席に頭をつけたまま動かない。寝ているように見えた。さすがにきょうは雪で思うように進まない。慎重な運転が渋滞をよんでいるようだ。10分くらい経ったころ、隣の若者が急に立ち上がって、バス停で降りようとした。寝ていて乗り過ごしそうになったのかと思ったが、若者は運転手さんにトイレに行きたいと申し出たようだ。慌ててポケットから出そうとした財布からは小銭が2~3枚も落ちた。ただならぬ事態をほぼ全員の乗客が気がついた。しかたがなく女性が小銭を拾った。気分が悪くなり、もよおしたのかもしれない。運転手さんは「もう少し行くとセブンイレブンがあるから、もう少し我慢して」と言い、すぐにバスを発車させた。そしてなんとセブンイレブンの前でバスを止めた。「こんなところでしか止まられないけど、ここで降りて」と停留所のない場所でドアを開けた。若者はセブンイレブンに駆け込んだ。停留所以外の場所で止めて、乗客を降ろすのはおそらく違反行為だろう。しかし、あの雰囲気から見ての判断は、英断と感じた。小林秀信さんグッジョブ。
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自然をいじっちゃいけなかったんだよ。もうすんだ話だけど・・

2008-12-25 13:28:37 | Weblog
1986年1月26日午後11時ころ新潟県西頚城郡能生町(現糸魚川市)柵口で幅200m、長さ1800mの国内最大の雪崩が発生、死者13名、負傷者9名、全壊家屋8棟、半壊2棟など大きな被害が出た。一報を受けた私は新潟市から車を飛ばし、取材に向かった。現場に着いたのは深夜2時ころだった。地元消防団や警察官らが雪崩で生き埋めになった人たちの救出にあたっていたが、視界をさえぎる猛吹雪で作業は難航していた。土地勘のないわれわれ取材班にとってはどこに家があったのか、どのくらいの家が雪崩で押し流されたのかが全く見当もつかないくらいだった。現場はただの雪原にしか見えなかった。ただ、ところどころに屋根らしきものが転がっていたり、雪原の上から家の柱と思われるような木が突き出ていた。
 雪崩は雪面をすべる表層雪崩であることが後にわかった。一週間前に雨が降り、その後急に冷え込んで大雪となっていた。その降った雨粒が凍って滑車のような役割を果たし、新たに積もった雪面をすべり落したというものだ。運よく難を逃れた人の話では「ヒュー」という音がしたあとに「ドーン」と雪が家の中に入ってきたと証言をしている。雪崩の専門家によれば雪崩の速さは200kmとも300kmともいえるほどの速さだという。逃げる間などはない。
 それからおよそ10ヵ月後、息子さんを失った遺族を訪ねた。年末の番組でその年の事件事故を振り返るという企画のためだ。息子さんを失った遺族に直接電話をするとためらいながらも取材を許可してくれた。雪崩から家を建て直さずに別の集落に暮らしていた。訪問してすぐに私は仏壇に手を合わせた。そしてぽつりぽつり小さな声で話し始めてくれた。「ヒューと音がしたと思ったら、雪が・・・」目を大きく見開き、天井をにらみつけるように話す。一言一言かみしめるようにゆっくりとその時を振り返った。そしてちょっと間があった。「・・・その瞬間思ったんだよ。あの木を切ってはいけなかったんじゃなかったかって・・・」数年前スキー場を作る時に樹木を伐採をしたらしい。その人は反対した。でも観光客も来るし、地域のためになるからとそれ以上は反対はできなかった。「もう済んだ話だけどさ。やっぱり自然をいじっちゃいけなかったんだよ・・。あの音からすぐに雪が来た時におれはほんと思ったんだよ」何回も何回も繰り返した。そして最後に「昔の人はさ・・・・息子は二人作っておけっていったんだ・・・・。なにかあるとさ、欠けるからってさ・・・・」そう言って、肩を落とした。あれから23年。いまだにあの時の顔は忘れられない。
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弁当忘れても、傘忘れるな。

2008-12-23 11:11:39 | Weblog
1983年5月、入社試験を受けるために生まれて初めて新潟駅に降り立った。試験は午後のため、日本海を見ようと歩いた。地図では海は近いはずと思いきや、1時間ちかく結局歩いたようだ。天気がよく、島が見えた、後になってわかったことだが、佐渡だった。
 その年の冬は豪雪だった。東京生まれの私にとって雪はごちそうだった。冬の遊び道具だった。でも住んでみるとそんな気分は吹き飛んだ。来る日も来る日も除雪。車の除雪。足はいつもびちゃびちゃ。いやになった。夜になるとまた降ってきた。そんな中、仕事も多忙だった。12月には総選挙いわゆるロッキード選挙があった。金権政治を批判し、野坂が新潟3区から立候補した。取材は連日連夜、早朝から深夜におよんだ。ホテルには泊まらず、毎日長岡に通った。よく居眠り運転をしなかったと思う。全国が注目する舞台で取材をしているという充実感が私を支えていたかもしれない。雪もすごかった。3区は豪雪地帯が多いので、よけいに取材は大変だった。東京キー局からは雪をからめた映像を要求されただけに、雪原を走り回り、雪道を突っ走った。そして投票日の12月18日。即日投票で夕方から各局選挙特番を編成している。われわれは長岡から中継。田中事務所のガードが固く、中には入れてもらえず、外で待機し撮影してきた素材を本社に送るという作業を強いられた。30分立っているだけで、頭の上に雪が積もる。選挙中継なのか、豪雪中継なのかわからないほどの大雪になった。今でも電灯に灯され、オレンジ色に反射しながらゆっくり落ちてくるひとひらの雪が目に浮かぶ。
 この時の選挙で田中角栄が22万票という今でも伝説に残る得票数を得た。もちろん野坂は惨敗。見る影もなかった。新潟にとって雪とはなんなのか、冬の生活がどんなに大変なのかを垣間見た選挙でもあった。
 あれから4年間は豪雪が続いた。本当によく降った。新潟市内でも3月まで地面が見えないほどだった。しかし、最近は本当に雪が少なくなった。生活が楽になった。豪雪地帯でも雪は少ない。今年も雪が少ない。スキー場が今でも草原だ。景気の悪さとのダブルパンチで悲鳴を上げている。
今朝も天気がいい。こんな時期に散歩できるというのは本当に珍しいことだ。左には飯豊連峰がきれいに見える。半分くらいが雪に覆われている。新潟市内がこんな近くに山に囲まれているのかと思うほどだ。右側には弥彦山が見える。雪はほとんど見えない。雪がない生活は助かる。こんな天気が続いたくれればいいと思いながら、家から弥彦山を見るともう雲の中だった。弁当忘れても、傘忘れるという言葉はまだ生きている。午後からは雨になりそうだ。
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最後の力が芸術を作ってきた

2008-12-20 12:21:55 | Weblog
ある雑誌から執筆の依頼がきた。光栄なこと。だが、テーマはコンプライアンスについて。これが問題だ。確かに私の肩書きはコンプライアンス推進部長。依頼されても仕方がないところ。依頼を受けてから一週間。悩みに悩んでいろんな紙に走り書きをしながら構想を練っている。去年も同じようなテーマだったというので、編集長に見せてもらったところ、おもしろくない。これではだれも読まない。これを私が書いてもおそらく「らしくない」。そこでどうしたら「らしい」原稿になるのかを思案中という訳。しかし、そういうは言うものの、法律的な要素の強いテーマでもあり、砕きすぎると本筋から離れてしまうようで、バランスがわからない。
 先日大学教授と飲んだいる時に教えたいけど、教えられないことがある話を聞いた。それは悩んで、悩んで最後に出てくるいわゆる火事場のばか力と言う感覚。その現象を理論的に説明したいというのだ。その教授は映画の専門家で雑誌への出稿が多い。その日も締め切りに追われていたが、編集者にうそをついて飲みにきてしまったというのだ。もうちょっとで力が出る。もう少しなんだ。としきりに日本酒を煽りながら熱弁する。
 教授曰く、世界中の作家、世界中の芸術家はこの苦しみと闘い、最後の力で作品を仕上げ、世に作品を残してきたに違いないと言う。
 結局、感覚を教えるのは無理という結論に達した。修羅場をくぐりながら、その感覚は本人が身に付けていくしかない。
 私の締め切りは来月下旬。当分悩みは続く。最後の力を今から期待しながら、走り書きを続けるしかない!!
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逝ってしまった迎人⑤

2008-12-18 16:49:54 | Weblog
2006年の年賀状にこんな一枚があった。【昨年はお心遣いありがとうございました。おいしいお米でした。私は肺がんになってしまい、今年も戦いの一年になりそうです。どうぞお身体を大切にして幸福な年になりますように・・】迎人からは何通かはがきを頂いているが、「迎人」と書かれていないのはこれが初めだ。冗談かと思えるくらい冷静に「肺がんになってしまい・・戦いの一年」と書き綴っている。すぐにでも電話をして確かめたかった。しかし、それはできなかった。美瑛からは足が遠のいていた。行きたいと思いながらも、時間が経つにつれて美瑛が遠く感じていた。とは言え、盆暮れにはお互いの特産品を交換していた。新潟からはお米や枝豆。美瑛からはアスパラやじゃがいもが季節のあいさつとして送られていた。
気にはなっていたものの、本当のことを聞けずに時間は過ぎていった。そして、突然2006年11月19日。喪中のメールが入ってきた。年賀状をもらって、わずか8ヶ月。8月5日55歳で永眠したとのこと。肉筆ではないので、ご主人の心情を伺うことはできない。ペンションについては、当分の間は喪に服し休業、来春に新たな気持ちで営業を再開します。と書かれてあった。どんな気持ちでこのメールを打ち、またこの8ヵ月間をどんな気持ちで過ごしてきたのかと思うと、すぐにでも電話を掛けたかったが、やっぱりできなかった。かける言葉見当たらない。やっと実現した夢をこれからもっと膨らまし、美瑛のため北海道のため、癒されたい旅人のためにもっともっとやりたかった迎人の心情を思うと、なんとも言えない言葉にならない、残念な気持ちでいっぱいになった。
 電話をしたのは、春になってからだった。電話口に出た時にご主人は涙声になっていた。「以前来てくれた人からの電話に出れば、いつも涙が止まらなくて・・」と声を詰まらせた。「つらいです。特に同じような年齢の夫婦を見ると(涙が)止まらなくて。だめですね。弱くて俺は・・・」そしてペンションについて「私はできません。ここは迎人の思い出ばかりでいるだけでつらい。子供たちも同じようで・・・。貸そうと思っています。ここから離れたい・・・」。「また連絡します。お元気で」と私はそれしか言えなかった。言葉が出てこなかった。
今連絡は取り合ってはいない。ペンションは別のオーナーが経営している。しかし、ホームページの表紙には迎人の名は消えていない。みんな心の中でもまだ「迎人」だ。


(ホームページの表紙から抜粋)
キガラシの花をご存知ですか
菜の花に似た緑肥になる黄色い花です
スズランの甘い香りが漂う頃、田園にも本格的な夏が来ます
馬鈴薯の白、ラベンダーの紫、人のこころを和ませ、その香りに癒されます
いきいきした向日葵の黄色には、活力が湧きます
風にそよぐ麦を見ていると、トゲトゲしたこころがまあるくなります
やがて、山葡萄の葉が真っ赤に染まり、木々が黄金色に変わると美瑛は秋色に移ります。
その風景は、しっとりとした貴婦人のようです
そして、真っ白な冬、ふわふわの雪に寝ころんで、ダイヤモンドダストと戯れる
白と氷の世界
これからの彩りを十勝岳と真っ青な空が見守っている美瑛
こころのやさしさとみずみずしさを取り戻してくれる美瑛
感動と勇気をくれる美瑛
あなたも一度訪ねてみませんか
きっと心のごちそうに出会えます
                  迎人
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逝ってしまった迎人④

2008-12-15 18:15:39 | Weblog
我が家に一冊の脚本がある。真っ黒の表紙に銀文字で「今日 悲別で」とある。その脚本の最終ページには倉本聰氏直筆のサインがしてあり、2001、1と黒のサインペンで少し斜めに記されている。21世紀初日のサインだ。もちろん我が家の宝物だ。これは倉本氏との思い出とともに迎人の思い出でもある。
2000年12月31日の美瑛は暖かった。雪が緩んでいた。一滴また一滴と屋根からのしずくが真下の雪原に穴を開けていく。「ぽた」。早春の音がしていた。「今日 悲別で」はご主人と行った。偶然席が取れたのだ。そんな電話を迎人からもらっていた。生で演劇を見る機会はほとんどない私だが、生の迫力に圧倒された。特に富良野塾の生徒たちは自給自足で演劇を学んでいる。そういったハングリーさというか必死さというのが伝わってきて、見入るというより演ずる塾生に飲み込まれたかのような錯覚に陥った。演劇は年をまたぐ設定になっているため、終わった時にはすでに21世紀になっていた。そこで終演後に倉本聰氏のもとへ走り、サインをねだったのだ。それほどミーハーではないと思っているが、その時は倉本氏に有無も言わせずにサインをねだったことを覚えている。ペンションに帰ってみると年越しそばが用意されていた。迎人の心遣いがうれしい。ご主人の出身地は十日町だ。だから妻有そばと説明してくれた。 その夜は深夜までいろんな話をした。倉本聰のサインを私はみんなに見せびらかし、自慢した。そんな話をしながら家族のように新年、新世紀をそばをかこんで祝った。そばを食べてみんなが健康で長生きできますようにとみんなで祝ったはずだった。しかしそれが迎人との最後になってしまった。
迎人の声が聞こえそうな・・。
富良野塾の起草文
 あなたは文明に麻痺していませんか
 石油と水はどっちが大事ですか
 車と足はどっちが大事ですか
 知識と知恵はどっちが大事ですか
 批評と創造はどっちが大事ですか
 理屈と行動はどっちが大事ですか
 あなたは感動を忘れていませんか
 あなたは結局何のかのと云いながら
 わが世の春を謳歌していませんか
                     倉本聰
(富良野GROUPホームページより)

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逝ってしまった迎人③

2008-12-12 10:49:40 | Weblog
 ペンションの魅力の一つに料理がある。だからペンションオーナーに料理人が多い。迎人のペンションで一人の料理人と出逢った。付き合いは今でも続いている。なぜか私は彼のファンだ。きっかけはチーズだった。彼はみんなが食べ終わる頃、調理場から出て来てワゴンに20種類くらいのチーズを大理石の板石に乗せ、食堂内を自ら売り歩く。別料金だ。いくら食べてもいいが、2千円する。彼は一つ一つのチーズを説明しながら進める。私はあまりチーズは得意ではないが、彼に興味を持った。なぜここで、どうしてチーズなのか。饒舌とは言えないセールストークだが、なにか朴訥とした雰囲気に私はひきつけられた。チーズが食べたいというより、話がしたいという理由で2千円を出したのかもしれない。「チーズが苦手なんだけど」と切り出すと彼は待ってましたとばかりに「これならば初心者向けです」と皿に盛ってくれた。確かにいけた。赤ワインとの相性もよかった。「次はこれです」ともう少し香りの強いものを進める。ヤギ系だ。腐敗臭が鼻を突く。「上級者用です」。「だめ」。そんなやり取りの中から彼の身の上を聞いたことがあった。愛媛県出身。家は有名な料亭らしい。反発からか彼は和食ではなく、洋食の道を選ぶ。20歳の時に単身で渡欧する。スイス、フランス、ロンドンを渡り歩き腕を磨いた。なぜかは知らないが、北海道に降り立った。札幌、函館、トマムを渡り歩いた。そして8年前、迎人のペンションでシェフの職に就いた。どうやらチーズは渡欧の時に修行したらしい。私はそのチーズ知識を本に書いて欲しいと頼むほど、興味深かった。「いやいや、そんなこと」と笑顔を作るだけにいつも終わっていた。以来チーズには一目置いている。彼は今、富良野でレストランを経営している。2年ほど前に彼のレストランを訪ねた。自慢のチーズをご馳走になり、貴重な赤ワインの封を切ってくれた。その晩は久しぶりの再会に酔いしれた。「初対面は強烈な印象でした」と彼は私の印象を語る。同じような感覚で知り合ったのかもしれない。それも迎人が誘ってくれた運命のいたずらなのかもしれない。と今ふと思う。
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逝ってしまった迎人②

2008-12-10 15:57:41 | Weblog
北海道を旅する人は夏派と冬派に分かれるかもしれない。夏は開放的で、大地や草原に包まれているかのうような快感を味わえる。一方の冬は生命の危険さえ感じられるほどの厳しさに襲われ、人間の小ささ、自然の驚異を感じざるを得ない。美瑛には通算すると冬に訪れた回数の方が多い。そういう面では私は冬派かもしれない。車での渡北は無理なので、あまり気が進まないが飛行機を利用する。千歳に降りると、ピリッとする寒さが北海道に降り立った、らしさを感じる。レンタカーに乗り、札幌へ行くと千歳とは雪の量が違う。さらに北上し旭川へ行くと雪の量に加え、気温がまったく違う。千歳よりも札幌よりももっとピリっとする。真冬だと日中でもプラス気温にはならない。夏は砂埃が舞う国道沿いも冬には雪煙が舞い、前の車を見失う。美瑛は雪に覆われ、動植物が眠りについているかのうように静寂が保たれていた。車から降りて、1~2分歩いただけで、体温が奪われる。迎人のいらっしゃいの声で、生命の危機さえ感じる脅威から開放される。そして玄関入ってすぐのところには大きな薪ストーブが芯まで冷えた身体を暖めてくれる。ペンションの中はいつもポプリの香りがする。迎人の心遣いが感じられる瞬間でもある。以前聞いたことがあった。ペンションの中で一番こだわったのが、風呂だという。それぞれの部屋にも風呂はもちろんあるが、もうひとつある。それは貸切風呂で、使用中の木の札を入り口にぶら下げておくだけで、貸切に出来る。20畳もあるだろうか。タイルはまぶしいほどの白。正面は一面ガラス張りで夏ならば草原、冬ならば雪原が一望できる。建物がまったくないから覗かれる心配がない。暗くてジメジメ雰囲気はなく、開放的で心から温まれる空間だ。しかもジャグジーがついている。この空間に入りたいがために来るという旅人もいるという。迎人のこだわりがうれしい。
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おじい、おばあもテキパキ

2008-12-05 18:32:22 | Weblog
福島県に一泊二日で出張した。いつもなら新幹線だが、今回は時間的に余裕があったので、車でのんびりいくことにした。しかも高速道路を使わず、車窓を楽しむことにした。山々の紅葉は残念ながら終わっており、すでに樹木は葉を落としていた。それよりも道路工事ラッシュだった。特に山奥の峠道での工事が多かった。降雪前にやってしまおうということなのか。会議は無事終了、おいしい料理と温泉を堪能舌。さて帰りだがちょっと寄り道し、久しぶりに喜多方に行くことにした。喜多方駅前に車を止め、歩くことにした。平日のせいか、地図片手にラーメン店を探す観光客の姿はほとんど見られない。ならばチャンスとばかり坂内食堂に行ってみることにした。行列のない日はないほどのお店で、特製しょうゆで煮込んだチャーシューとさっぱりとしたスープが人気だ。正午という時間にもかかわず、すんなりと店内に入れた。しかし、中は満杯状態。運よくカウンターの人がすぐに立ったので、席を確保できた。タイミングがよかった。昨晩ちょっと飲みすぎていたため、自嘲して普通盛りにした。料金は前払い制度。私の横がその支払い場所になっていた。この店は観光客ばかりではなく、地元の人が気軽に食べに来る。それだけ、地元でもおいしい店として認知されているのだろう。私の後にも続々と入ってくる。驚くのは地元のおじいちゃんたちほぼ全員が大盛りを注文することだ。いくらなんでも多すぎのではと思うのは余計な心配。残すどころか、スープを一滴も残さずといえば、大げさだが最後まですする姿がここかしこで見られる。さらに食べたらすぐに立つ。迷いもない。すぐだ。その動きは素早い。そして誰かが立てばすぐに誰かがまた座る。私もそのタイミングで座れることが出来た。見事な連携プレー?の回転技?だ。一人の持ち時間は10分くらいだ。私もそのルール?に則り、スープを一滴も残さずに完食。そして水を飲みながらも素早くに立った。その瞬間に誰かが座った。私の連携プレーも見事に決まった。ラーメン、チャーシューは言うことなく美味だったけれど、難点を言えばもっと味の余韻を楽しみたかったな。やっぱりこの店で食べるのは大変だ。
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逝ってしまった迎人①

2008-12-01 19:27:00 | Weblog
「肺がんになってしまったので今年は勝負の年になるでしょう」という衝撃的な年賀状をもらったのは、4年前だ。自ら迎人と称していたペンションオーナーだったその女性はその1年後に亡くなった。旅人とペンションオーナーという付き合いだった。が、なぜか感性を共有したような感覚が今でも残っている。今あらためてここに記したい。
 「まもなく函館港です」という船内アナウンスの声で目が覚めた。深夜の月明かりで不気味に浮かび上がる恐山を見てから船内でウトウトし、いつのまにか眠りについたようだ。
 北海道の友人に美瑛のペンションを予約してもらった。前田真三という写真家に魅せられ、目指すことにした。車でひたすら走ってみたくて、新潟からアクセルを踏み続けた。函館から小樽、札幌とお決まりな場所で休憩しながら、美瑛に向かった。サイロのある牧場、大型のトラクター、幅の広い道路。車窓を楽しんだ。
 迎人称する女性オーナーは笑顔で迎えてくれた。「ほんとに新潟からきたんだね」まだオープンして3ヵ月の新築ペンションだった。オーナーは横浜の出身で大手の化粧品メーカーでは商品開発の部長まで務めたと話をしてくれた。この美瑛に10年前に一目ぼれし、ペンション建設を決めたという。そしてこの年の春に夢を実現させた。食堂からも部屋の窓から見えるのは、地平線まで広がる丘だ。写真でもみているかのような錯覚になり、遠近感も鈍る。倉本聡氏は広大な展覧会場と表現したと聞いた。私は毎日、昼はひたすらレンタルバイクで丘を走り、プロ写真家のような気分で丘や樹木にレンズを向けシャッターを切った。夜は芯からリラックスしてワインに舌鼓を打った。食堂にはテレビも音楽もなかった。ペンションに響く人の声と静けさがなんともいえず酔いを誘う。時間を忘れ、地平線まで広がる丘風景とワインにただただ酔った。それから私は毎年このペンションに通うことこになる。10年も前のことだ。
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