事のなりゆき

日々のなりゆきを語ります

新たなバリューの発見・・・

2014-05-28 18:04:09 | Weblog
調査と取材はどうちがう。いきなりの質問に小生答えに窮したことがあった。論文を書くために最近外に出るが、取材ではなく調査と言うようになった。単なる言葉を違えて使っているだけに過ぎない。考えてみれば、取材と調査というちがいがメディア表現と論文表現のちがいではないかと最近気がついたような気がした。まだはっきりとはわかっていない。
 メディアがニュースに載せるには必ず、バリューを求められる。ニュースとはなにか。記者であれば、必ず上司から問われる。バリューは常に変化する。一日の中でも午前と午後では変わる。非常に複雑だ。一番旬を選んでニュースとして送り出せることが大切だろう。逆な見方をすればバリューがなければ、伝達する意味がなくなる。ではあらためてニュースバリューとはなにか。難しい問題だ。1994年に日本新聞協会がまとめた「新編新聞整理の研究」によれば、「一般性」「人間性」「社会性」「地域性」「記録性」「国際性」と定義されている。小生はなんとなく感覚として定義づけをしているが、言葉にするとこの6つにあてはまるのかもしれない。一つ付け加えるとしたら「時代性」だと思う。バリューには賞味期限があると思う。
 話を最初に戻すと、調査と取材のちがいだが、調査にはバリューはあまり関係ない。関係ないというよりも、時代性が関係ないというべきかもしれない。「いま」ということにこだわれなくても5年後10年後に社会的に重要なこともある。時代性にこだわるあまりなにか大切なことを逃してしまうこともある。またバリューがないからといって、重要ではないということにならない。これも5年、10年経った後になってから社会な影響力を持つものになる可能性もある。
 災害報道において、異常状態を報道することが災害報道であるかのように勘違いする向きもある。それは一時でしかない。災害情報の価値は時間とともに落ちてくる。むしろ災害という元々異常な状態になっていれば、正常な状態であることこそが「異常」という考え方がある。壊れた建物よりもその隣で壊れなかった建物の方に「異常」がある。陸前高田の奇跡の一本松がいい例だろう。たった一本残った松にバリューがあった。
 問題なのは、バリューの見極めではなく、バリューに関係なく調べるという姿勢である。小生、バリューという認識が染みついているがために、小生どうしても目先のバリューを追いかけてしまう。調査してみて、バリューがないという判断はそれはそれでりっぱな調査結果である。そこがなかなか頭が反応しない。もちろんそこから論をスタートさせて、さらになぜバリューがないのかという論証は必要になるが、バリューがないからと言って調査しないということではない。口で言うのは簡単だが、染みついたものを払しょくするのは簡単ではない。ふとそう思う。
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性悪説・・・

2014-05-27 15:43:10 | Weblog
性善説に立つのか、それとも性悪説に立つのか。AKBの握手会で事件が起きた。誰もが思ったに違いない。いつか起きるのではないのか。イベントを主催するときのセキュリティは性悪説に立つのが基本と教えられたことがある。小生は事業を担当している時の話だ。そうでなければ警備はできない。警備は何かが起きるという前提にたたなければいけない。なにもないという前提には立たない。至極当たり前の議論である。しかしそれを性悪説には立てない。そこが要人警護とはちがう。最初からお客さまを疑うような警備体制は敷けない。だからプロが必要になる。警備陣には元警察官らプロと言われるような人が警備に加わっていたようだが、それでも事件が起きた。
 いつもながら小生は思うのだが、こうしたことは必ずどこかで兆しがあったと思われる。今回が初めてではないと考えられる。怪我をするような事件は今回が初めてかもしれないが、「あの時・・・」というようなことはあったはずだと思う。これだけの数をこなしていれば、どこかで事件になるような、なってもおかしくないような、変質者のような人間がなにかをしようとしたとか。今回の逮捕された容疑者もおそらく安易に事件を起こせると思っているふしがある。それはなぜか、どこでそういう情報があったのか、そこに問題があると思う。
 主催者側は偶発的な事件のように感じているかのように報道されているようだが、毎回きちんとしたセキュリティの点検がなされていれば、防げたのではないか。そういう意味では性善説に立ちすぎたと、ふと思う。
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怒ったの・・・

2014-05-22 10:50:39 | Weblog
小生もデスク時代に原発裁判を扱ったことがある。しかしニュースバリューは低位だった。設置許可をめぐる裁判だったが、国の判断を覆るような判決がでるはずもなく、いわゆる原発反対派の社会的運動の一環という見方しかしていなかった。もちろんそうした運動を否定するものではないが、ニュースとしての価値は低かった。社内においては原発に対しては賛否あったので、小生のニュースバリューに否定的な記者も何人かいた。それはそれでバランスが必要なのでいいが、バリューを決めるのはデスクなので、様々な意見交換があった。
 小生の持論をこれまで何回も繰り返し書いてきたが「東日本大震災で日本は変わる」である。災害に対するものだけではなく、そのほかの芸術や文化などすべての価値観が変わると思っている。小生の人生観も変わった。もし東日本大震災がなければ、まだ会社にいたのかもしれない。そんな人たちにこの3年間に数多く会った。
 きのうの大飯原発運転差し止め判決もそんなことをうかがわせるような内容だった。小生が一番この判決で驚いたのは、これまで司法がまったく手をつけなかったところまで判断したことだ。それはなぜか。樋口裁判長は判決理由の中で福島原子力発電所の教訓を入れ込んでいる。例えば、「原発技術の危険性の本質、被害の大きさは、福島第一原発事故を通じて十分に明らかになった。その後、大志原発で具体的な危険性があるかどうかの判断を避けることは裁判所に課せられた最も重要な責務を放棄するに等しい」と書いている。後段の「裁判所に課せられた最も重要な責務」とこの原発再稼働問題を判断することは司法にとっても非常に重要なことであると、強い決意を表している。このことはおそらくこの後の裁判にも影響すると思われる。さらに樋口裁判長は結論で国富(国家の富。国全体の富。一国の経済力:広辞苑第版)にまで触れている。

「関電(関西電力)は原発の稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、裁判所は極めて多数の人の生存そのものにかかわる権利と電気代の高い低いの問題を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断したりすること自体、法的に許されないことであると考える。コスト問題に関連して、国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ運転停止によって多額の貿易赤字が出るにしても、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると裁判所は考える。また、関電は原発の稼働が二酸化炭素排出削減に資するもので環境面で優れていると主張するが、原発でひとたび深刻な事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいもので、福島第一原発事故は我が国が始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原発の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いだ」

 「甚だしい筋違い」と非常に厳しく、まるで子供を怒っているかのような文章であり、言い方を変えれば「まだあなたたちはそんな議論をしているのか」と言わんばかりだ。そして、
関電が主張する「原発の稼働が二酸化炭素排出削減に資するものという」が、いかに古臭い、レベルの低い議論にしか聞こえないのは小生だけだろうか。あの福島第一原発の事故の恐ろしさ、そしていまだ避難をせざるを得ない人たちを思えば、もう少し気の利いた主張ができないものかとあきれる。ふとそう思う。
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33年前の春・・・

2014-05-21 09:49:03 | Weblog
修士の同級生と一献やった。同級生は、今年の新入社員だ。お昼頃まで寝ていた生活から、いまは毎朝5時半に起床し会社には7時30分に出勤するという社会人になっていた。小奇麗なスーツに真っ白なワイシャツがなんとも新社会人らしかった。小生も新入社員だったころがあったと彼の姿を見て思い出した。もう33年も前の話だ。大昔の話だ。あまり覚えていないが、なにかやらかしてやろうと思っていた。新聞社の広告部に配属になり、腐っていたから余計にそう思った。仕事といえば毎日毎日コピー取りばっかりだった。先輩から言われたものをコピーする。会議資料が多かった。その資料は売上数字がびっしり書いてあった。最初は何が書いてあるものかわからなかったが、慣れてくるにしたがって徐々にわかるようになった。考えてみれば、その資料を見ることができるという権限が与えられたようなものと思うようになった。3枚コピーするところを4枚コピーして一枚自分ようにストックした。わかるようになると、おもしろい資料であるし、それなりに重要だった。こんな資料を新人とはいえ、小生にコピーさせるというのは無防備だと思った。資料が集まるようになって広告部の内部が非常にわかるようになった。あの人はいつも予算が未達だとか、あの人は今場所を担当しているとか、とても新人とは思えないほど内部事情に精通した。結局半年後に小生は営業マンとして外回りをやるようになったが、その時の資料が非常に役にたった。
 なんでも一生懸命にやっていれば必ずどこかに面白さが見つかる。習うより慣れることで克服できるものもある。時間がかかるものもある、時間をかけなければいかないものもある。最初はみんなわからない。でも徐々にわかるようになる。あせらずに毎日積み重ねていくことが大事だ。短距離競争ではない。マラソンだと思えばいい、20年30年走り続けるマラソンだ。途中で休むことも大事だ。途中で横道にそれることもたまにはあってもいい。
 なんだか自分に言い聞かせているかのように、ちょっと先輩ぶって話してみた。
そんなこんなの夜だった。
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山頂を見上げていてはため息ばかり・・・

2014-05-16 17:12:58 | Weblog
金曜日のこの午後3時ごろが一番のんびりする。一週間の疲れとレポートがひと段落するからである。博士後期課程といえども、毎週授業に追われている。授業といっても聞く授業ではなく、自分で発表するかもしくは相手の発表になにか論評を加えるという授業である。つまり常に授業はデスカッションすることが求められる。だからデスカッションするだけの材料を持っている事を常に求められる。授業は一週間に3コマしかない。4人生徒の授業が1つ。二人授業が1つ。もう一つは先生とのマンツーマン授業だ。マンツーマン授業は雑談から学術的な話からいろんな話をする。地方自治制度論の授業である。小生の記者時代の話がいつも話の中心になる。問題は残りの二つである。二人授業は二週間に一回、レポートが求められる。4人授業は本読み授業で、一回の授業で二人ずつレジュメを発表するので、結局二週間に一回発表が回ってくる。早い話毎週発表があるというわけだ。こうした授業形態は一学期だけなので、あと2ヶ月だろうが思った以上にたいへんだ。最近は夜寝ていてもレジュメやレポートの文章が思い浮かぶときがある。忘れてしまわないうちに、と思って起きてメモすることも珍しくない。でもこうした強制的な忙しさは、頭をフル回転させるいい機会なので、レポートは精一杯書くことにしている。知っていることはできるだけ時間を惜しまずにすべて書くことにしている。今日発表したのは、先日郡山市でフィールドワークしたものを一万字でまとめた。本題はコミュニティFMや臨時災害FMの話だが、東日本大震災で壊れたコミュニティを再生するために「方言」を積極的に活用しているという話まで枝を伸ばした。となれば方言の研究書も読む必要があった。でもそれはそれで楽しい。いまは方言ブームであるし、昔のように方言が伝達するだけの道具から「心理的なメッセージの提示に重心を移してきている」という発見まで行き着いた。
だれでもいきなり論文は書けない。千里も一歩からである。だからこそ与えられた機会、訪れた機会を見逃さずに捉えることが大切である。一歩一歩、歩いていけば必ずゴールにたどり着く。山頂を見上げるばかりでは、ため息しかでない。ふとそう思う。
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方言の力・・・

2014-05-13 15:41:40 | Weblog
方言学の本を読み始めた。東北地区を勉強するためだ。方言にはどこかあこがれがある。その地域独特の共有財産のような気がするからだ。中学生との時に北海道の稚内から転校生が来た。どこか言葉が違っていた。興味が湧いていろいろ聞いた覚えがある。でも彼はどこかで言葉のちがいを劣等感に思っていたようだ。だから必死になって東京言葉を話すようにしていたように感じた。それはかえっておかしかった。その笑いに彼は反応した。今思えば、いじめや差別のように感じたかもしれない。小生にはそんなつもりはなかった。
 災害は人に危害を与え、災害が大きくなるとコミュニティを破壊する。コミュニティの破壊とはなにか。最近ずっと頭に中にあって、考えていた。修士論文の時に「校歌を合唱して地域の人が涙ぐんだ」と書いた。「なぜ」という質問が担当教官から来たということを書いた。情緒的にはいくらでも答えを出せるが、理論的に説明するのは難しい。小生が思いついた答えの一つに、校歌はコミュニティの共通ソングと考えた。大災害で破壊されたコミュニティにおいて校歌は正常時を思い出す共通ソングもしくは、地域共通の懐古ソングなのである。この歌を歌うことで一体感が出る。その懐かしさや災害によって失われた悲哀が涙となって表れると解釈した。
 方言はその地域限定の言葉である。東北や関西など大雑把な地域区分も成り立つが、その地域では非常に細かく言い回しが微妙に食い違う。新潟県においても、新潟弁という大雑把な方言はないに等しいが、東西南北で微妙に言い回しが違う。いわゆる方言は「お国言葉」でもある。地域限定であり、言葉には生活習慣やその地域のしきたりなど様々な要素が言葉として表現されている。
東日本大震災において、場所によってはこの「お国言葉」が失われつつある地域もある。特に原発事故で避難を余儀なくされているところでは、町が消滅するという危機もある。となれば、当然のことながら失われるのは風景ばかりではない。言葉もなくなる。全国各地に避難している人たちからはその地域の「お国言葉」が語られなくなるという恐れがあるというわけだ。話者の消滅である。あるラジオ局ではそうした危機を乗り越えようと、1年前から方言番組を放送している。その番組では方言のみで話し合うのである。地域の再現であり、地域の習慣、しきたり、そして風景をよみがえさせる番組である、とも言える。地域を忘れないために、言葉を残そうという番組である。
小さな局だからできることもある。聴取者が近いところにいる。ふとそう思った。


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友の人生に思いを馳せる・・・

2014-05-08 18:18:49 | Weblog
小生が県政記者クラブにいた時、彼はとなりの席であった。日本経済新聞の記者だ。当時新潟日報を抜いて、特ダネを取るというのは至難の業だった。確認したわけではないが、どこかの記者が特ダネを翌日紙面で書くことがわかると、夕方になって日報へ県庁職員が通報するとまで言われていた。県紙に恥を欠かすなと言わん張りだったようだ。そんな中でも彼は日報を抜いて特ダネを量産していた。県政記者クラブでも数少ない特ダネ記者だった。日経の強みは県庁取材ではなく、企業取材からネタをつかむことだ。経済界は様々なネタを持っている。県庁のネタはトップダウンで流れるが、企業情報は縦横無尽に交錯する。金融機関、株屋、不動産関連会社など。日経記者はそこにすべて網を張る。日経支局長は赴任すると、一部上場企業や金融機関の本店支店くまなくすべてにあいさつ回りをする。相手も日経新聞となれば一目置かざるを得ない、どこでどうつながっているのかわからないからだ。支局長ばかりではない。記者も企業回りを丹念に行う。県版に社長インタビュー記事が掲載されていることが多いのもそうした背景がある。
 彼はその中でも人一倍企業回りをしていたと思われる。日経は人数が少ないが、一人の記者がものすごく記事を書く。彼も毎日本当によく記事を書いていた。彼が書いていると、日報の記者がそわそわしていた。なにを書いているのか。彼は県庁内部に情報を確認することもあるが、日報に悟られないようにする。締め切りぎりぎりまで待って確認したり、日報ルートに載っていない幹部を捕まえたりと様々な工夫をしながら、特ダネを狙っていた。書かれる方も日経ならば仕方がないと納得するようだ。もちろん次の日に日報が追いかけてくれる。中には日経をうまく使うような企業もある。まず日経に書かせて、その次にとぼけて日報に書かせるといった手の込んだ情報操作を行うこともある。一部上場の企業だったりすれば、株価にも影響するので情報操作も手が込んだ手法を使わざるを得ない。日経もそこは了解済みだ。持ちつ持たれつの関係だ。
 日経は新入社員をまず東京で鍛える。朝毎読とはちがう。そしてある程度取材のイロハがわかった段階で地方に出す。彼の振り出しは政治部であった。いきなりの政治部はかなり将来有望な記者の証しである。県政クラブは3年くらいと思うが、卒業し古巣の政治部へと帰った。時々署名記事を見ていた。自民党もしくは官邸担当で小生には順風満帆にように見えていた。休みには古町のなじみの店にもお忍びで来ていたようだ。
 先日、彼の名前が日経本紙に載っていた。死亡記事だった。数年前体をこわしたとは風の便りでは聞いていた。が、それにしても。県政記者クラブにいた時はあこがれの的であり、何回か一緒に呑み行った時も彼の取材術を聞いた。「そんな風になっれればいい」といつもあこがれながら聞いていたのを思い出す。呑み屋のママさんにも評判がよかった。
 東京でどんな運命を辿ったのか、いまは知る由もない。どこか無理があったのか、彼のことだから弱音を吐けずに頑張り通したのかもしれない。
 ふとそう思った。小生と同じ年であった。

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未だ続く・・・

2014-05-05 07:21:36 | Weblog
年齢は、75歳か76歳くらい。仮設住宅に一人暮らしの男性だ。家族の消息はわからない。毎日死ぬことしか考えていない。きょうは死ねなかった。でも明日は必ず死のうと毎日思っているが、なかなかその思いを遂げることができない。そんな時にラジオをつけた。自分の町のことが流れてきた。3年も見ていない風景がよみがえってきた。思いを遂げることができずにまたきょうも夜が明けた。またラジオをつける。聞きながらまた故郷の風景を思い浮かべる。ふと今を忘れていることに気がついた。あすも聞きたいと思った。明日のことを考えている自分が不思議だった。ラジオ局は目の前にある。昔スナックのママが自分で作ったCDを思い出した。タバコのにおい、町のにおい、酒のにおい、いろんな匂いがその歌には詰まっている。久しぶりに聞いてみたいと思った。ラジオ局のドアを開けてみた。思い切った。元気な声の通る女性が出て来た。ラジオから聞いたことのある声だった。
「これ]。
CDを差し出した。
「リクエストですか」
うなずいた。
毎日ラジオ局には通うようになった。
もう死ぬことはとりあえずやめることにした。
 
 土曜日に論文調査のために福島県のラジオ局に行った。あまり報道されないが、被災地では前途を悲観しての自殺者は減るどころか、増えている。この町では震災による死者は16人だが、自殺などの関連死は240人にのぼる。
上記の話は実話で、今でも毎日ラジオ局に来るそうだ。小学校の先生をしていたらしい。死のうと毎日思っていたと話してくれたのは、もう一年も前だが、家族のことは一切話さない。リクエスト曲はいつも演歌で、スナックのママが自費で作ったCDがお気に入りだ。音楽を聞くのではなく昔を思い出したい、昔に戻りたいということなのかもしれない。
 被災地にはまだ厳しい現実がある。被災地の小さなラジオ局であっても人の命を救うことができると話を聞かせてもらった。メディアの役割はなんだろうか。
 ふとそう思いながら帰途についた。

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