「勝つんじゃないんだ。負けなければいいんだ。やっとわかった」そんなセリフを残して、佐藤監督は北信越大会秋季大会へチームを導いた。彼の中でなにかがひらめいたのだろう。たしかにその時の明訓は負けなかった。気負いもあまり感じなかった。北信越大会でも負けなかった。初戦金沢商業に12対0の圧勝、信州工業(現東京都市大学塩尻高校)に6対3、決勝では福井商業に7対2で敗れるものの、翌春の選抜高校野球大会に県勢としては1984年の新津高校以来14年ぶりの出場を決めた。新潟県チームの選抜出場は、1976年の糸魚川商工(現糸魚川白嶺高校)が一回戦で茨城県の鉾田一に1対0で敗退、そして1984年新津高校が金足農業に7対0で敗れている。初戦を突破するどころか、新潟県勢は選抜大会でホームベースを一度も踏んでいないという不名誉な記録が残っていた。選抜切符を手にした明訓ナインは「歴史を変える」を合言葉に春の甲子園の土を踏んだ。結果滋賀県代表の比叡山高校に負けたものの、5対2と歴史を塗り替えた。そんな明訓ナインのはつらつとした姿を大阪府交野市の自宅のテレビ見ていたのが阪長友仁だ。彼の将来の夢は旅客機のパオロット。しかし野球が大好きで、甲子園の土を踏むことも夢みていた。そんな彼の目に留まったのが、明訓高校だ。甲子園に一番近くしかも勉強もしっかりできるという彼なりの条件に当てはまることで、という明訓野球部の門を叩いた。「故郷に錦を飾る」を合言葉に阪長は必死になった。そして3年の時に甲子園出場というチャンスに恵まれた。明訓の甲子園はこの時は6年ぶり3回目だった。この間、中越が1994年と1996年の2回、ミラクルと呼ばれエースを擁した上村の六日町が1995年に初出場、また1997年には日本文理が初出場、1998年には11年ぶりに古豪新発田農業が出場した。1994年には中越が3回戦まで駒を進める大活躍を見せたが、その後は一回戦の壁を破ることが出来ずにいた。
今となって振返ると、この6年間が佐藤監督のスランプ時期かもしれない。勝てなくなった。春の地区予選で思わぬ敗退を経験。シードを取ることもできなかった。「野球の下手な佐藤です」が当時の監督のキャッチフレーズ。それほどまでになにか戸惑いがあった。これまで以上に苦しい予選になった。「甲子園監督」という重荷をこの時ほど感じたことはなかったと口をしたこともある。勝って当然という厳しい評価が常について回る。無意識ながらどうしても勝ちに行く野球に少しずつ、シフトしていった。持ち前ののびのび野球が「らしくない」萎縮した野球に気持ちが傾いていった。「甲子園出場」という過去の経験が焦らせた。
そんな中でつかんだ甲子園切符。佐藤監督にとってこの甲子園切符は初出場の時よりもうれしかった。そしてチームにとっても価値あるものとなった。この時から佐藤監督の口から「鍋理論」という言葉がさかんに出るようになる。鍋に例えたチーム作り。佐藤監督の哲学だ。
今となって振返ると、この6年間が佐藤監督のスランプ時期かもしれない。勝てなくなった。春の地区予選で思わぬ敗退を経験。シードを取ることもできなかった。「野球の下手な佐藤です」が当時の監督のキャッチフレーズ。それほどまでになにか戸惑いがあった。これまで以上に苦しい予選になった。「甲子園監督」という重荷をこの時ほど感じたことはなかったと口をしたこともある。勝って当然という厳しい評価が常について回る。無意識ながらどうしても勝ちに行く野球に少しずつ、シフトしていった。持ち前ののびのび野球が「らしくない」萎縮した野球に気持ちが傾いていった。「甲子園出場」という過去の経験が焦らせた。
そんな中でつかんだ甲子園切符。佐藤監督にとってこの甲子園切符は初出場の時よりもうれしかった。そしてチームにとっても価値あるものとなった。この時から佐藤監督の口から「鍋理論」という言葉がさかんに出るようになる。鍋に例えたチーム作り。佐藤監督の哲学だ。