事のなりゆき

日々のなりゆきを語ります

29年目の夏・・・15話

2012-07-31 19:19:19 | Weblog
「勝つんじゃないんだ。負けなければいいんだ。やっとわかった」そんなセリフを残して、佐藤監督は北信越大会秋季大会へチームを導いた。彼の中でなにかがひらめいたのだろう。たしかにその時の明訓は負けなかった。気負いもあまり感じなかった。北信越大会でも負けなかった。初戦金沢商業に12対0の圧勝、信州工業(現東京都市大学塩尻高校)に6対3、決勝では福井商業に7対2で敗れるものの、翌春の選抜高校野球大会に県勢としては1984年の新津高校以来14年ぶりの出場を決めた。新潟県チームの選抜出場は、1976年の糸魚川商工(現糸魚川白嶺高校)が一回戦で茨城県の鉾田一に1対0で敗退、そして1984年新津高校が金足農業に7対0で敗れている。初戦を突破するどころか、新潟県勢は選抜大会でホームベースを一度も踏んでいないという不名誉な記録が残っていた。選抜切符を手にした明訓ナインは「歴史を変える」を合言葉に春の甲子園の土を踏んだ。結果滋賀県代表の比叡山高校に負けたものの、5対2と歴史を塗り替えた。そんな明訓ナインのはつらつとした姿を大阪府交野市の自宅のテレビ見ていたのが阪長友仁だ。彼の将来の夢は旅客機のパオロット。しかし野球が大好きで、甲子園の土を踏むことも夢みていた。そんな彼の目に留まったのが、明訓高校だ。甲子園に一番近くしかも勉強もしっかりできるという彼なりの条件に当てはまることで、という明訓野球部の門を叩いた。「故郷に錦を飾る」を合言葉に阪長は必死になった。そして3年の時に甲子園出場というチャンスに恵まれた。明訓の甲子園はこの時は6年ぶり3回目だった。この間、中越が1994年と1996年の2回、ミラクルと呼ばれエースを擁した上村の六日町が1995年に初出場、また1997年には日本文理が初出場、1998年には11年ぶりに古豪新発田農業が出場した。1994年には中越が3回戦まで駒を進める大活躍を見せたが、その後は一回戦の壁を破ることが出来ずにいた。
今となって振返ると、この6年間が佐藤監督のスランプ時期かもしれない。勝てなくなった。春の地区予選で思わぬ敗退を経験。シードを取ることもできなかった。「野球の下手な佐藤です」が当時の監督のキャッチフレーズ。それほどまでになにか戸惑いがあった。これまで以上に苦しい予選になった。「甲子園監督」という重荷をこの時ほど感じたことはなかったと口をしたこともある。勝って当然という厳しい評価が常について回る。無意識ながらどうしても勝ちに行く野球に少しずつ、シフトしていった。持ち前ののびのび野球が「らしくない」萎縮した野球に気持ちが傾いていった。「甲子園出場」という過去の経験が焦らせた。
そんな中でつかんだ甲子園切符。佐藤監督にとってこの甲子園切符は初出場の時よりもうれしかった。そしてチームにとっても価値あるものとなった。この時から佐藤監督の口から「鍋理論」という言葉がさかんに出るようになる。鍋に例えたチーム作り。佐藤監督の哲学だ。
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29年目の夏・・・14話

2012-07-30 17:07:02 | Weblog
1993年県勢として9年ぶりに初戦と突破した明訓だが、この突破は明訓だけのものではなく、新潟県の高校野球レベルを引き上げる原動力になったとみるべきだろう。この年が新潟県の高校野球を語る一つの節目になったといってもいいかもしれない。
 翌年の1994年第76回大会でも新潟県チームが甲子園をわかした。新潟南が1989年、高田工業が1990年、その後明訓、長岡向陵、そして再び明訓と定位置を譲っていた中越高校が1994年に6年ぶり6回目の甲子園出場を果たした。好投手穐谷を擁しての甲子園出場だった。中越高校はそれまで過去5回、いずれも一回戦を突破できず、苦しんでいた。中越高校の鈴木春祥監督は1965年に中越の保健体育の教員として赴任し、野球部の監督に就任した。スパルタ教育で選手を鍛えあげ、13年後の第60回大会に甲子園初出場を果たした。しかし広島工業に2対0、その後も1983年には広島商業に5対4、1985年の志度商業には6対4、1986年の日南は7対2、1988年倉敷商業には4対0と中越にとって一回戦の壁は厚かった。小生も1986年の第68回大会の時は帯同した。チームのまとまりもよく、決してレベルの低いチームという印象派なかった。しかしゲームになると人が変わったようにどこか萎縮するようなところが見受けられ、本領を発揮できずにズルズルと点数を許してしまうようなそんなゲームが中越の甲子園でも戦いぶりだった。新潟県内で見せるような攻守のバランスと試合巧者ぶりを甲子園でなんとか見せて欲しいというのが、県民の願いでもあった。
 そんな県民の鬱憤を晴らしてくれたのが、1994年の大会だった。一回戦香川県代表の坂出商業を2対1で破り、念願の初戦と突破した。試合後監督就任30年目にして手にした初戦突破に感想を聞かれ鈴木監督は「長かったです」と話した後、号泣した。30年という思いが一気にあふれた瞬間でもあった。鈴木監督が流した涙は県民の涙でもあった。これで勢いづいた中越は次の相手優勝候補の埼玉県代表の浦和学院にもサヨナラ勝ち。3回戦は長崎向陽台には敗退したものの、中越という名前を甲子園ファンに刻み込んだ大会になった。スパルタから選手の自主性を重んじた指導方法に変えた、結果が初戦と突破にきっかけになったと鈴木監督は当時の朝日新聞記者に回想している。


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29年目の夏・・・13話

2012-07-27 17:03:28 | Weblog
「お酢を飲むと体が柔らかくなる」。これは本当だろうか。小生も子供のころに聞いたことがある。佐藤監督にも聞かれたことがある。答えは「イエス」だ。極めて非科学的なことだが、実は科学的な根拠に結びついた答えでもある。つまりお酢というとんでもないものを飲んでまで、体を柔らかくしたいという「氣」があれば、お酢を飲む以外にどこかでその人は努力をしているだろう。だからお酢が体を柔らかくする直接の原因にはならないけれど、そのくらいの「氣」があればなれる、というのが答えだ。この答えの種明かしは「氣」だ。気は中を締めずに中が開いた「氣」を使う。
 この「氣」の話はなかなか興味深い。日本語の中に「氣」という単語は多い。「氣持ち」「氣を配る」「氣色わるい」「氣がない」挙げればきりがなく、いろんな場面で無意識に使っている単語が「氣」だ。小生も「氣」と意識している。「やる氣」があるない。「やる氣」とはなにか。どんな「氣」なのか。
 チームの「氣」をどのようにコントロールするのか。「氣合いを入れろ」という言葉も「氣」を合わせることだ。どのようにして「氣」を合わせるのか。佐藤監督はそうした「氣」ということにものすごくこだわった。野球技術もさることながら、そうした精神面での研究にも非常に熱心だ。「氣」の場所を探ることで、今戦術的に何が有効なのか、相手チームにとって今何が一番有効なのか、「氣」の研究はそうした戦術を考える上で重要なポイントになる。「氣」がそぞろでは動くべきではない、「氣」が整っていれば、積極的に動いた戦術をとれる。また試合全体の「氣」というものもある。勝機かもしれない。勝氣。当て字にかもしれないが、勝つ氣だ。目には見えないが、しかしその「氣」のパワーが思った以上に、予想以上に力を発揮する。監督曰く「氣」は使ってしまえば、再生しなければいけない。再生する場所が必要になる。たくさん「氣」を持っている人間は「氣」をたくさんの人に配れる。ところが「氣」を作る場所を持っていなければ配る「氣」がなく、「氣」がきかない人間で終わる。選手の「氣」を再生させていく器量も監督は問われる。
 甲子園で「氣」を集め、合わせ、爆発させることができるのか。いま佐藤監督は静かに「氣配」をうかがっているのかもしれない。
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29年目の夏・・・12話

2012-07-26 17:07:01 | Weblog
止まらぬ涙というのはこのことを言うのだろう。佐藤監督は人目を憚らずに頬を伝わる涙を拭おうともせず天を仰いだ。勝利の涙ではない。充実感、達成感から湧き出てくる感激が涙となって流れ出た。ぬぐうよりも人を気にするよりもその感激に浸りたかった。このために苦しい日を乗り越えてここまでやってきた。その結晶をぬぐうのはもったいないと思う気持ちがあった。
 今年限りで引退を決意したとき、どこのチームとの対戦が最後になるのか、最後はどんな終わり方になるのか、イメージがあった。やはり中越とやりたい。あのユニフォームと戦いと密かに思っていた。それが運よく叶った。しかも決勝という大舞台だ。この上ない喜びだ。新潟県で戦う最後の相手が自分をこれまで成長させてくれた「CHUETSU」だったことに違った面で本人の中に感激があった。
 きのうのインタビューで佐藤監督は「若いころ、中越に勝てるようなチームを作るために努力してきた。その恩返しのつもりできょうはがんばった」と嬉しさを語った。中越があるから、新発田農業が居たから、また明訓が成熟期に入ると今度は文理が立ちふさがった。様々な壁を乗り越えて、明訓はここまで成長してきた。佐藤監督はつねにライバルに恵まれてきた。その壁にいつも負けずに戦ってきた。
 今年の大会は優勝候補の明訓が予想通りに優勝したが、今の新潟は下剋上だ。明訓といえども一回戦では辛くもサヨナラ勝ちを収めた。負けてもおかしくない試合だった。また優勝候補ナンバーだった文理が巻に敗れるという波乱もあった。こうしたことが新潟県の野球を強くさせている。お山の大将として安心した試合ができるほど今は甘くはない。拙攻、拙守を繰り返せば負けてしまう。PL時代の清原が甲子園で勝つよりも大阪予選の方がきつかったと話したのを聞いたことがある。今の新潟も大阪ほどのレベルはないが、県大会を勝ち抜くのは大変だ。だからこそ甲子園でも十分戦えるのだ。
 「甲子園は狙っていけるところじゃない。ふさわしいチームに招待状が届く」。佐藤監督のくちぐせだ。今回はどうだろうか。もちろん招待状をいただいた。がしかし今年はひょっとすると甲子園から呼び出され、今一度日本一になるチャンスを与えてもらったとも言えるかもしれない。戦いはこれからだ。
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29年目の夏・・11話

2012-07-25 17:38:45 | Weblog
とうとう明訓が今年のてっぺんに登った。小生は授業があり、まったく戦況を見ることができなかった。授業の合間に教授の目を盗んで携帯で試合経過を見ていた。これまでは順調だっただけに今日の試合は少し不安な要素もあった。しかしそんな心配はまったく無用だったようだ。
 あれはたしか平成7年の秋だったと記憶している。明訓が秋の県大会で優勝し、北信越大会に出場した。北信越へ行く前日に佐藤監督と一献傾けた。その時、佐藤監督は「やっと野球がわかった。勝つんじゃない、負けなければいいんだ」と小生に興奮気味に話した。小生、なにかをつかんだと思ったのだが、行っている意味が難関だった。
この時期明訓は甲子園で初戦を突破し、しかし二戦目の横浜商大高に10対0で負けていた。とはいえ、野球部全体に勢いがあり、監督自身も今までにはない手ごたえを感じていた。勝つんじゃない、負けない野球という哲学とも思えるものはどこから生まれてきたのか、それを知る由はない。推測でしかないが、初戦と突破した原動力は勝つという力みではなく、負けないという考えが根底にあった攻めだったかもしれない。明訓は北信越大会で金沢商業に12対0の大勝、準決勝信州工業に6対3で勝ち事実上の選抜甲子園切符を手にした。決勝で福井商業に7対2で敗れたものの、県勢としては1984年の新津以来の選抜出場になった。あの時に話した「やっとわかった」が事実上の甲子園の出場宣言だった。
 佐藤監督の口癖は「甲子園は行くところじゃない。甲子園から招かれるところだ。そのために日々精進する」だ。選手たちにもその教えが行き届いている。勝つことではなく、自分たちが甲子園からの招待状をもらえるような努力をすべきという考えだ。
 では今年はどうだったのか。春にあった時に甲子園の話をした。その時は今までにはない言葉で表現した。「行きたい」だった。今まで「行きたい」という言葉は聞いたがなかった。甲子園は行きたい場所ではなく「行かせてもらえるかどうかは、甲子園が決めるからだ」。少し宗教的だが、目標に向かってただひたすら野球に打ち込むという姿勢がチャンスを生み、結果をもたらすということだと解釈できる。
 始めて「行きたい」と漏らす中でどんな戦いをするのか注目していたが、見事招待状が届いた。最後の甲子園になる。また戦いが始める。まだ佐藤和也監督にはやらなければいけないことはたくさん残されている。そのために行く甲子園である。
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29年目の夏・・・10話

2012-07-24 15:49:27 | Weblog
高校野球は一発勝負。負ければおしまいだ。これが大きなポンイントだ。やり直しがきかない。このプレッシャーと高校生は必至になって戦わなければいけない。監督も一回限りの勝負をしなければいけない。高校野球のおもしろさ、厳しさはこの一回限りということに尽きる。この一回限りというところで判断が狂う。
 ピッチャーの系統タイミングの難しさはここにある。一回限りだから、負けたら終わりだから、勝たなければいけないから、だから難しい。
 今年文理が予想に反して、ベスト16で敗退した。おそらく巻高校は一回は勝てても、2回は勝てないだろう。文理も一回は負けても2回は負けないだろう。ではなぜ負けたのか。小生試合を見ていないので詳細は分からないが、あれだけの素晴らしいピッチャーを持っていながらと言うかもしれないが、もし田村だけ、波多野だけということになれば展開はかわっていたかもしれない。でも練習でお互いに切磋琢磨してこれたということを考えれば、二人いるということがマイナスだったという言い方をしてしまえば乱暴かもしれないその一方で、「おまえしかいない」という全責任を与えていたら、結果はちがっていたのかもしれない。そしたことの論理が難しいのも一回限りということから導く難しさかもしれない。
 松江第一の野々村監督は8回1死2塁で好投していたエース土井を下手投げの山内に突然代えた。目先を変えるつもりだったのかもしれない。この系統は一回限りからこそ起きる判断ミスだろう。このタイミングを佐藤監督はずっと待っていた。明訓の勝機はここにある。勝ちに来たところ迎え撃つ。佐藤監督の思う坪だった。相手が自ら隙を作ってくれた。
代わった山内はまったく制球難。3連続四死球で1点。さらに暴投で1点を許した。土井の好投をフイにしてしまった。客観的に見れば明らかに疑問が残る系統だった。しかしこれが甲子園であり、一回限りという厳しさだと言える。結局明訓はエース渡部の好投もあり、3対1で念願の一回戦を突破。新潟県勢としては9年ぶりとなった。
 試合後佐藤監督は初戦を突破できた喜びはもちろんあったが、それ以上に甲子園での采配の難しさと怖さを学んだ。
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29年目の夏・・・9話

2012-07-23 18:13:34 | Weblog
2年ぶり2回目の甲子園切符を手にした明訓の対戦相手は、島根県代表の松江第一高校(現開星)だ。甲子園での闘いは情報戦と言われる。徹底的に相手チームを分析する。ありとあらゆる資料を取り寄せてチームを解体する。それは甲子園に出ていなくても佐藤監督は今でもその情報収集は続けている。佐藤監督は日体大の出身。日体大出身で高校野球の指導者は全国津々浦々にいる。先輩後輩を頼りに資料を取り寄せ、調べる。だから選手はちがうが、次に出場した時でも過去の分析が残っている。選手はちがっても同じ監督であれば、チームの癖など共通点はある。常に毎年、甲子園に出場してもしてなくても甲子園に出ているチームの資料は集めている。テレビ局が戦力分析をするわけではないが、紹介程度ということで、この時松江第一を取材した。小生たちが持っている資料は朝日新聞社が発行している雑誌でしかない。顔も名前もわからない。練習風景もキャッチボール程度、またバッティングもトス程度の取材だが、なにもないよりはいい。そんな程度だった。ちなみに長岡向陵と当たった星稜高校はまったくの取材拒否だった。それはそれで仕方がない。松江第一、取材をさせてくれたのはいいが、異常な警戒だった。当たり前といえば当たり前かもしれない。少し滑稽だったのは、試合ユニフォームでの練習だったが、ちがう人のユニフォームを着ていた。始めはわからなかったが、後になって左のはずが右だったりとまったくちがうユニフォームを着ていることに気がついた。エースがわざと補欠の番号ユニフォームを着ていた。それだけ情報戦には気を使う。
 佐藤監督が取り寄せた資料を分析検討すればするほど、松江第一の戦力は明訓より上だった。しかし佐藤監督には思うところがあった。それは相手監督がまだ甲子園での試合を経験していないことだった。佐藤監督は2試合目。たった1試合しかちがいがないが、その差は大きかった。
 試合は互角に進んだ。明訓は初出場とはちがって落ち着いた試合運びだった。5回に待望の先取点を取った。しかし松江第一もすぐ後に追いついた。まさに一進一退の試合だ。決着は後半にもつれ込んだ。佐藤監督の思い通りの試合展開だ。
 明訓の勝機は8回裏に来た。状況は1死2塁。ここで松江ベンチが動いた。佐藤監督が心の中で「しめた」とつぶやいた。このときをじっと佐藤監督は待っていたのだ。相手がじれてくるのを待った。予選とはちがう。おそらく松江第一は島根県大会を継投で乗り切ってきたにちがいない。、終盤だからという根拠のみで動いた。佐藤監督はこれまで自分なりのシミュレーションをして来て出して答えは、甲子園と予選とは違う。予選と同じ戦い方で勝てる試合を逃したケースを何回も見てきた。話も聞いてきた。初出場にはそれがわからない。甲子園は甲子園の戦い方がある。それが今までに出した結論だった。
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29年目の夏・・・8話

2012-07-22 11:25:17 | Weblog
文理が負けた。自他共に優勝候補ナンバーワン、ファンの中にはすでに甲子園でどこまで勝てるのか、「あのときの再来か」と値踏みをしていた人もいたのかもしれない。田村、波多野の2枚看板は新潟県内ばかりではなく、全国にも名を轟かせていた。それだけに甲子園で投げさせてみたかったという興味は、負けてしまったもののいまだに残念だ。負けてしまった文理のことをどうこう言う前にまずは勝った巻高校をほめるべきだろう。抽選後、文理を倒すべく練習を重ねてきたにちがいない。今は情報戦なので、文理と対戦した関係者からありとあらゆる情報を仕入れて、作戦を練ってきたと思う。見事にその効果が本番で的中した。努力のたまものだし、文理の選手らは着ているTシャツに書かれている言葉通り「才能の差は小さいけれど、努力の差は大きい」。お株を奪った形になった。まさに努力をすれば、不可能はないということを証明してくれた。
 25年ほど前、小生はニュース企画で県内の高校野球108校を取材した。ほとんどの監督さんと話す機会に恵まれた。当時は中越高校、新発田農業の独壇場で毎年のようにどちらかが甲子園切符をつかんでいた。それがなにか当たり前のような感じだった。指導者である監督さんの中にも「うちは甲子園と無縁ですから」と本気で小生に話しかける人もいた。小生その人の前で憤慨したこともあった。それだけ甲子園は目標ではなく、夢の夢という存在だった。若手の監督も多くはなかった。野球経験のない監督さんもいた。その中で若手の第一人者として孤軍奮闘していたのが、佐藤監督だった。しかし中越、新発田農業という大きな壁を打ち破れずにいた。
 いま新潟県のチームは甲子園でも侮れない存在になった。以前は抽選で新潟県チームを引くと拍手が起こるほど、弱いチームというレッテルが貼られていた。北信越でも同じような評価だった。でも今は違う。文理、明訓はいまではマークされるチームとなっている。県外チームからの招待試合の申し込みや練習試合の申し込みも多いと聞いている。ではなぜここまで存在感を上げてきたのか。もちろん両監督さん、両校の関係者の努力はいうまでもない。しかし小生は思う一つの考え方は、今年のように優勝候補筆頭、甲子園出場まちがいなしと言われた文理でさえ、ひとつ間違ってしまえば負けてしまう。そんな新潟県内のチーム力の底上げが、結局は文理や明訓の力を引き上げてきたと考える。中越、新発田農業の2強の頃はここまでの底上げはなかった。それだけに甲子園に行っても弱かった。一進一退という厳しい試合を予選は経験できなかった。我慢や微妙な駆け引きを経験することなく、甲子園での戦いを強いられた。今はちがう。1回戦から油断できない状態にある。今年、明訓の初戦も危なかった。新津との初戦を観戦した人の話では、すばらしいチームと絶賛していた。しかし事前の予想には新津高校は上がっていない。今はそれだけどこのチームも必死になって甲子園を狙っている。といえるのかもしれない。それがまた文理や明訓などの強豪チームを育てている。
 逆の相乗効果ということもある。文理のあの決勝戦、そして去年の明訓のベスト8。そうした同じ新潟県内の仲間が全国で活躍する姿を見ることで、自分たちもがんばるといういい循環になっているという言い方もあるのかもしれない。
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29年目の夏・・・7話

2012-07-20 11:52:31 | Weblog
舞の海がスローVTRを見ながら「ここが我慢のしどころでしたね」と解説をしていた。勝負どころで前に出られずに、引いてしまった力士に注文をつけていた。相撲勘がないと厳しい指摘をする。相撲であれ、野球であれ、どんなスポーツであれ、勝負どころというものがある。その時にどんな動きをするか、それともじっと動かずにいるか、土壇場での見極めが勝敗を分けることになる。
 佐藤監督は、甲子園から帰ってきて自分なりのシミュレーションを繰り返し行った。自分ならばどうする、自分のチーム力ならどうする、いろんな場面を想定しながら、相手チームの力を分析しながら試合を進めていった。そうすることで、勝負勘を養った。しかし勝負勘がどんなに身についても、いざという時に武器になるものがなければ意味がない。守備を強化し、バッティングを鍛えて初めて勝負勘が使える。
 去年の夏、明訓は準決勝で白根と対戦した。結果は9対1の8回コールドで明訓が圧勝した。創部初のベスト4に進んだ白根の勢いを明訓の打撃が阻んだ。そんな新聞記事が紙面を躍った。しかし詳細に試合を分析してみると、実はちがうところに勝負の分かれ目があった。それはバントだった。試合後白根の樋口監督は勝負の分かれ目について「バントで試合の流れが変わってしまった」と汗をぬぐった。スコアボードを見る限り9対1で明訓が打ちまくった印象のあるゲームではあるが、実はそうではない。3対1と2点差まで詰めよられた明訓だが、相手のエースを渡辺をバントが崩した。そして試合の流れが一気に明訓に傾いた。
 今年の初戦、新津戦も同じようなことが起きた。9回裏かろうじて逆転勝ちを収めた明訓だが、勝利を呼び込んだのはバントだった。最後は満塁からヒットでサヨナラ勝ちとなったが、その流れをつかんだのはバントだったのだ。この2試合は偶然バントだが、バントだけではない。試合の流れというものを十分に理解し、勝負どころを見極める。その最善策がたまたまバントというだけにすぎない。時には盗塁、そしてまた時にはまったくなにもやらずに黙って見守るという作戦もある。結果だけを見れば、大差のゲームでもかならずどこかにその勝負の分かれ目がある。
 1993年夏、甲子園2度目に挑んだ佐藤監督の初戦松江第一の試合はまさにその試合勘が出た。相手の監督は初出場だ。苦しくなれば必ず、向こうから仕掛けてくる。そうなればそこに勝負の分かれ目があると佐藤監督は読んでいた。我慢のしどころで動けば、試合は不利になる。甲子園に潜む魔は、そこに隠れている。我慢が最大の戦力になる時がある。
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29年目に夏・・・6話

2012-07-19 16:05:16 | Weblog
一回戦負けという厳しい評価を下されたものの、明訓はこれまでとは違った勢いがついた。オーラというのは大げさだが、グランド内を走り回る選手たちも甲子園を経験していない生徒たちにもどこか甲子園に出場したという誇らしさがあった。伝統というのはこういうことなのかと思わせるものがあった。先輩たちが残したものを後輩が引き継いでいく。伝統というのはそういうことなのかもしれない。次明訓が甲子園に出場した時は今までとは違った野球ができる。そんな頼もしいさも感じさせた。もう「CHUETU」「新発農」のユニフォームには負けない。それが佐藤監督にはたまらなくうれしかった。甲子園効果はこれほどまでに選手たちを変えるものなのかと驚いた。しかしいいことばかりではない。常に甲子園に出場したという見方をされる。これまでに経験したことのないプレッシャーもあった。経験しなければわからない甲子園という大きな看板をあらためて感じざるを得なかった。
 勢いに乗る明訓は翌年も連続出場をかけた。しかし準々決勝で北越に3対4で惜しくも姿を消した。この年は下手投げの竹内を擁する長岡向陵が初出場を決めた。当時は東と西に分かれて一回戦の抽選を行う方式をとっていたが、長岡向陵は北信越で同地区でありながら夏は西と東に分けられる石川県代表の星稜を引き当てた。星稜には松井がいる。もちろん優勝候補ナンバーワンだった。
たまたまこの長岡向陵に小生は同行取材をしていた。まさかの星稜との一回戦だ。当たるなら強いチームと当たりたいとチームメイトは話していたが、強すぎる相手だった。しかし試合日が近づくにつれてエース竹内は調子が上がってきた。前日練習では、松井対策である外角に流れるシンカーが切れていた。勝機ありと思わせるくらいであった。
 小生、松井を見るのは、1年生の時に小林幹英と対戦した金沢市民球場以来だった。体つきはあの当時にくらべひと回り大きくなっていた。そしてなによりも風格があり、オーラがあったのを今でもよく覚えている。前の試合が伸びて長岡向陵対星稜の試合は第4試合、ナイターゲームになった。試合内容はよく覚えていないが、松井の第一打席は今でも覚えている。スタンドはすでに松井にホームランを期待しているようだった。長岡向陵のエース竹内は緊張した面持ちだった。結果はセンターライナー。本当のライナーだった。ものすごい金属音とともにセンターまで一直線に打球がまるで糸を引くように飛んで行った。センターもグローブを出したところにたまたまボールが飛んできたかのような、一歩も動けないようなそんな鋭い当たりだった。甲子園が一瞬静まり返った。金沢市民球場で見た、バットスイングの速さはあの時よりさらに増していた。0対11で敗れた。この後の星稜は今でも語り癖になっている明徳義塾との試合で松井は5連続フォアボール、星稜は2回戦で敗退した。
 明訓の甲子園2回目の挑戦は1993年にやってきた。一回戦の相手は、島根県代表の松江第一(現開星高校)だ。
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29年目の夏・・・5話

2012-07-18 18:51:59 | Weblog
新潟県内で敵なしと言われた、小林幹英が打ち込まれた。カーブでカウントが取れず、ストレートを狙われた。当時スピードガンはなかったが、幹英の速球は140キロ台であることは間違いなかった。しかし簡単に運ばれた。カーブでタイミングをずらすことができなかったのが痛かった。一方の柳ヶ浦の岡村は速球、スライダーとも切れていた。速球対策はどのチームもバッティングマシンで万全だが、切れのあるスライダーはマシンでの練習が出来ないため、当時は非常に有効な球種だった。一枚相手が上手だった。
1回戦で負けたとはいえ、県の代表であり新潟県でナンバーワンのチームであることに誇りを持った。しかし世間の風は冷たかった。1回戦負けという言葉だけがついて回った。
ところで、新潟県のこれまで戦績を振返ってみる。全国すべての都道府県が代表を送り出せるようになったのは1978年、昭和53年からだ。新潟県単独で代表校を出すようになったのはそれよりも4年早い、1974年、昭和49年からだ。去年までの新潟県勢の戦績は17勝38敗だ。1回戦を勝ったのは、このうち2大会しかない。1981年昭和56年の新発田農業が広島商業に3対1で勝ち、2回戦で東海大甲府に4対3、3回戦で愛媛代表の今治西に1対9で敗れた。もう一校が新潟南だ。京都西を4対3、明徳義塾を4対2、しかし秋田代表の金足農業に0対6で敗れた。この明訓が甲子園に初出場した時は、1回戦6連敗中で、小林幹英という好投手を擁し、ベスト8新潟南の林の再来かと県民の期待が大きかった。
 この試合をNHKテレビで実況したアナウンサーが偶然にも新潟県出身の斎藤洋一郎だ。試合直後斉藤氏は甲子園裏の行きつけの新潟県出身者が経営するすし屋に佐藤監督を誘った。「初出場で終わる監督とそうでない監督は会えばすぐにわかる。彼はまた必ず来ると思った」と斎藤氏は当時を回想している。
 負けたはしたものの、収穫はかなりのものがあった。新潟県の野球が通用しないこともよくわかった。なぜ通用しないのか、どうしたら勝てるのか、どんな練習をしていくべきなのか、ヒントは試合の中にたくさん隠されていた。佐藤はむしろこれからが楽しみだった。一つ一つ丁寧に紐解き、じっくりと甲子園野球を身につけていく計画を立てた。野球レベルのちがいを指摘する新潟県人が多いが、それよりも甲子園野球という野球観がちがうと感じた。改めなければいけないのは、野球観であってレベルの低さを嘆くことではないと感じていた。
 
 
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29年目の夏・・・4話

2012-07-17 12:15:07 | Weblog
監督就任7年目で甲子園出場を決めた。ことごとく先輩監督たちに落とされながらも、ようやく予選を突破した。決勝で勝った時に勝ち方がわかったと佐藤監督は悟った。力の抜き方がわかるまで7年かかったと振り返った。
 しかし初出場の甲子園は甘くはなかった。すべてに追われた。報道対応、後援会対応、練習場手配、資金など枚挙にいとまがない。体制ができていないことも加えて、甲子園出場という大きな功績で、選手、学校、父母会などすべての人たちが浮足立っていた。無理もないことだが、監督は冷めていた。甲子園に出ることが本来の目的ではないはずと毎晩選手にははっぱをかけた。しかし連日の報道、ドカベン高校という名も全国に広がり、新潟県内ばかりではなく、様々な応援団が声をかけてきた。有名になると親戚が増える。監督は苦虫をつぶした。日に日に明訓フィーバーは増していった。
 おまけもついた。開会式直後の第一試合を主将が引き当てた。初出場での初試合が開幕ゲームという、このチームが背負うものは、人を注目させる何かがあるのかもしれないと監督の頭の中をよぎった。調子に乗る半田主将は、初球を打つと断言して話題をさらった。ゲームは予想に反した。ある選手は試合後朝日新聞記者にこう漏らしている。「何が何だかわからないうちに点を取られていた。気が付いたら試合が進んでいた」。初出場チームのほとんど選手、監督が口をそろえる。「なにをやっているのかわからないうちに・・・」と。
明訓は8回にようやく1点を返したが、大分代表の柳ヶ浦に8点を奪われ、1-8の完敗だった。予選で見せた明訓の姿は甲子園にはなかった。しかし冷静に戦力を分析してみれば、明訓の自滅ではない、柳ヶ浦がすばらしかったと言える。エースの岡村克道は低めにキレのあるスライダーを放り込み、ストレートにも威力があった。新潟県にはいない投手だった。その後岡本は東芝を経て、1996年ドラフト6位で福岡ダイエーホークスに入団、リリーフとして活躍。1997年には19セーブ、1998年には21セーブを記録した。2003年には中継ぎエースとして最多の54試合に登板。日本シリーズでは阪神打線も無失点に抑える好投で、日本一にも貢献した。
一方の明訓のエース小林幹英は、専修大学へと進み、4年秋に東都大学リーグ2部で優勝し1部に昇格。卒業時はドラフト候補に挙がるものの指名はなく、社会人のプリンスホテルへ。そして1998年ドラフト4位で広島東洋カープに入団。シーズンの開幕戦で初登板し、8-3で中日の山本昌に勝ち初勝利、セリーグ通算9人目、広島では3人目となる新人投手開幕勝利を記録した。甲子園で負けた開幕戦をプロで雪辱した。
 甲子園に初出場を決めたものの、初戦で敗退。なにかと話題になったこのチームも初日で涙をのんだ。甲子園での勝ちと負け。予選とは比べものにならないこの格差に佐藤監督は、愕然とする思いだった。「これが甲子園か」。初めて味わう甲子園だった。勝利者インタビューを受ける相手チームを見ながら、勝たなければ意味がないとさらなる誓いを胸にした。
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29年目の夏・・・3話 

2012-07-16 10:27:20 | Weblog
節目なんて、その時にはわからず、後になって気がつくものだと思う。その時はただひたすら一生懸命にやるだけだ。
 結局、星稜とは4対2で敗れた。当時の明訓にとっては善戦健闘だった。星稜はその後この大会で優勝して、選抜甲子園でも活躍、松井秀喜が「ゴジラ」の異名で一躍全国的に有名になった。当時松井はサードを守り、一年生ながら4番を打っていた。小生もこれほど早いバットスイングをする選手はあまり記憶がない。これはとんでもない奴はいると当時思ったことを覚えている。松井と新潟県チームとはその後彼が3年生の夏甲子園で長岡向陵と対戦している。4連続四球で話題になったのもこの夏である。
試合後佐藤監督を全国展開するスポーツ記者が取り囲み、来年夏の甲子園は明訓で決まりと小林幹英の力を絶賛した。決まりと言われても、ピンと来るものはなにもない。ただ今は星陵と明訓という文字がスコアボードに並んでいるのがなぜか無償にうれしいだけだった。ここまで来る道のりを考えると長くもあり、短くもあった。
 明訓高校監督への誘いは突然だった。長岡出身であり、まさか新潟のチームから誘われるとは思っていなかった。長岡短大で講師をしていたが、野球には携わってはいなかった。昭和58年夏、明訓は決勝まで登っていた。その決勝戦のテレビ中継解説者だったのは佐藤監督だった。まさかその高校の監督に半年後に就任するとは夢にも思わなかった。運命のいたずらか、としか思えなかった。しかしどこかでこうなるようなそんな気持ちもあった。だから誘いを受けた時はすんなりと返事をした。初めてグランドに行った時のことをこんな風に漏らしている。「一番最初に仕事は草むしりだった。グランドを大事にすることから新生明訓野球部は始まった」と。
 小林幹英が入部し、星陵高校とのこの一戦が今考えてみると、明訓高校野球部の節目だったのかもしれない。では節目は偶然向こうからやってくるのか、待っていればいいのか。そうではない。節目は自分から呼び込むものだと思う。しかしいつくるのかそれはわからない。節目とはチャンスともある意味同義語だとも解釈できるところもある。
 「チャンスは平等にやってくる」と説いたのは当時の伊達公子(現在のクルム伊達公子)の引退会見だった。チャンスかどうかの見極め、チャンスを生かす能力も備えていなければ、チャンスはその場を通り過ぎるだけになってしまう。節目となる時期をじっと待つ。チャンスを生かす能力をじっと蓄える。そしてその時が来たときに一気に事態が動く、動かすことができる。傍目には偶然と思えるかもしれないが、そこまでの準備が必要になる。ことごとくベスト8で、ベスト16で叩かれてきた監督は、あの焼鳥屋で自分なりの秘策を練ってきた。決して愚痴ではなく、決して諦めることなく、自分なりの野球勘、勝負勘を作ってきた。
 冬を乗り切り、新生明訓は夏新しいスタートを切った。夢の舞台へと進んだ。夢が現実になった。しかし現実はあまくはなく、監督には大きな次の大きな試練が待っていた。
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29回目の夏・・・2話

2012-07-13 16:10:46 | Weblog
行き詰まると駅前の焼鳥屋の暖簾をくぐった。思い通りにできないことに自棄をおこすのではなく、大志をふくらますための酒だった。そのための時間が必要だった。誰かと一緒では大志が愚痴になる。愚痴で終わらせたくなかった。だから行き詰まると一人で酒を煽った。
 一人酒をしていると、いろんなアイディアが浮かぶ。それが楽しくてしょうがなかった。飲みながらメモを書きながら、あしたからのことをいつも練っていた。だから帰るときはさっぱりして、むしろいつの時でも明日が待ちどうしい気持ちで暖簾を後にした。
 夏になれば、焼鳥屋から夜行に飛び乗り甲子園まで行くこともたびたびあった。早朝から4試合見て大阪で一杯やってまた夜行に飛び乗る。そんな0泊2日、炎天下の4試合の強行軍だ。それは甲子園で野球を見るという単純なことではなく、自分がそこにいるというイメージを作りたかった。そのイメージを持ちながら自分のグランドで生徒たちと接したかった。甲子園は自分の大志を育てるための場所だった。
 チームは年々ボリュームがアップしていった。しかしどうしてもベスト8、ベスト4の壁が破れなかった。中越、新発田農業ら強豪が行く手を阻んだ。あの時があったから今があると振り返るが、苦しい時期だった。でも丁寧なチーム作りは徐々に成果が見え始めてきた。
 1990年秋、その日金沢市は雨だった。もう2日も雨が降り続いている。試合が順延になっていた。北信越の秋季大会1回戦の相手は北信越ナンバーの呼び声が高い、山口を擁する星陵高校との対戦だった。こちらは小林幹英。好投手同士の好試合が期待されていた。焦りはなかった。選手たちは落ち着いていた。野球を楽しむ。その場を楽しむ。しかしここで幹英はとんでもないバッターと出会う。日本の野球の歴史を変えた人物との出会いだった。
        
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29回目の夏・・・1話

2012-07-12 19:25:43 | Weblog
この夏、一人の高校野球部監督が28年間の監督生活に終止符を打つ。今年が最後の夏になる。高校野球にとって「夏」は特別だ。四季のひとつではなく、一年間の集大成をぶつける時期を指す。その夏を28回、全霊をかけて戦い、時には敗れ、時には勝利の美酒を味わい、汗と涙をこの28年間繰り返してきた。必ず最後はだれでもあるが、その最後をいつにするのか、最後をだれが決めるのか、彼はこの10年近く、悩んできた。しかし決まっていることが一つある。それはいつまでも今のまま続くということはなく、いつか誰かに道を譲らなければいけないということだ。そのためにずっと彼は「いつ」にするかを考えてきた。先輩を見ながら、友人を見ながら、誰に相談をするわけではないものの、「いつ」について考えてきた。引き際こそが男子の本懐であり、自分らしさとの思いを重ねてきた。
 高校球児にとっての「夏」はどうしようもない現実でもある。これが最後、もうこれ以上はない。土壇場に立たされ、窮地に追い込まれ、誰も助けてくれない、そんな場面に立つこと厳しさが高校球児にとっての「夏」なのだ。だから人々をひきつける感動が生まれ、涙を誘う。究極の判断がその勝負のきびしさでもあり、美しさでもある。そんな「夏」を28回経験してきた監督にとって、「夏」は潔さと引き際を高校生が演じてくれる季節でもあった。28回も高校球児の背中を見てきた。だから自分の番になったら、引き際は「らしく」しようと決めていた。他人から見たとき、唐突感があってもそれはちがう。
 
小生もこの監督にずいぶんお世話になってきた。今でも友人として、人生の先輩としてお付き合いをさせていただいている。今年を最後の夏と決めたことに小生ごときが口をはさもものではない。上記に書いたのは、小生が普段から監督と接してきた雰囲気から小生が勝手に監督の心情を書いたものだ。
 あす以降、どのくらいの規模になるかは不明だが、小生と監督が過ごした25年あまりを少しずつ振り返ってみたい。
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