いるま・風の善さん

中高年オジンの趣味と遊びの日記です。

奈良歴史地理の会in浦和by白石太一郎懇親会

2010年04月11日 | 講演会

 第24回「奈良歴史地理の会関東支部」の講演会(平城京を語るシリーズ)は、講師:白石太一郎(元奈良大教授)現大阪ちかつ飛鳥博物館長を招いて


テーマ『高松塚と平城京』についてお解説をしていただいた。


 


 横口式石槨の変遷として、「キトラ古墳」-「マルコ山古墳」-「石のカラト古墳」そして「高松塚古墳」を例にあげて、その副葬品・出土品・壁画から又、文献資料の『続日本紀』などから高松塚古墳の被葬者を「石上麻呂(いそのかみまろ)」ー養老元年(717)死亡ーとして、平城京遷都後の古墳であると解説したのです。



(石室の保存改修工事中の高松塚古墳・2005.8)


壁画の人物の衣装や持ち物から時代を考察、文武天皇を支え717年に77歳で亡くなった「左大臣正二位石上朝臣麻呂」の可能性が高いとしている。



(高松塚古墳壁画・東壁・飛鳥資料館HPより)


講演が終わってから、奈良大希望者による懇親会が行われた。


白石先生は『考古学概論』レポート添削の苦労話や、高松塚保存管理に対する感想などを述べておられた。



(懇親会場での白石先生を挟んで善さん・右と学友)


「桜が咲いた埼玉県」で行われた、約60名参加の懇親会は、先生のお話や久しぶりに会った学友達との懇親に花が咲きました。


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5 コメント

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墳丘墓 (朱雀)
2010-04-12 17:14:55
考古学概論レポートは06年5月に提出していますその時「100mに近い前方後円型の墳墓は残っている姿を目の当たりにすると古墳と言ってもいいのではないかと考えてしまう。古墳時代だけでなく、弥生時代にも古墳と呼べるものがあってもいいのではないかと思う。」と書きましたが。白石先生は「・・・古墳と呼びたいという感覚は理解できます。ただ、・・・定形化した大形前方後円墳の出現を画期とする立場としては、それ以前の墓は墳丘墓と呼び分けて区分しているわけです。・・・」と講評されていました。
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うらやましい限りです。 (流水)
2010-04-12 22:13:30
善 さん

「奈良歴史地理の会関東支部」は、中々活発な活動をしているのですね!!

羨ましい限りです。
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高松塚古墳 (善さん)
2010-04-13 11:36:00
朱雀さんへ
今回の白石先生の解説では、
高松塚のような墳丘墓は『喪葬令』に三位以上では、「墓を営すること得」とあり、
高松塚が、石上麻呂のほか、「キトラ古墳」が右大臣阿部御主人(あべのみうし)ではないか。
また、藤原不比等は、多武峰に埋葬されたことなど歴史と現実はおもしろいですね。
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備後二子塚古墳 (善さん)
2010-04-13 11:41:59
流水さんへ
 奈良歴史地理の会関東支部では、代表の野崎奈良大名誉教授がお元気なので、奈良とのつながりができます。
 白石先生の二子塚古墳の講演会の話をしておきました。
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ありがとうございます。 (流水)
2010-04-13 15:46:48
善 さん

ありがとうございます。

白石先生は、「備後二子塚古墳」の

発掘調査指導委員をされていました。

その経緯は、良く知りませんが、

何か関係があるようです。
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