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第24回「奈良歴史地理の会関東支部」の講演会(平城京を語るシリーズ)は、講師:白石太一郎(元奈良大教授)現大阪ちかつ飛鳥博物館長を招いて
テーマ『高松塚と平城京』についてお解説をしていただいた。
横口式石槨の変遷として、「キトラ古墳」-「マルコ山古墳」-「石のカラト古墳」そして「高松塚古墳」を例にあげて、その副葬品・出土品・壁画から又、文献資料の『続日本紀』などから高松塚古墳の被葬者を「石上麻呂(いそのかみまろ)」ー養老元年(717)死亡ーとして、平城京遷都後の古墳であると解説したのです。
(石室の保存改修工事中の高松塚古墳・2005.8)
壁画の人物の衣装や持ち物から時代を考察、文武天皇を支え717年に77歳で亡くなった「左大臣正二位石上朝臣麻呂」の可能性が高いとしている。
(高松塚古墳壁画・東壁・飛鳥資料館HPより)
講演が終わってから、奈良大希望者による懇親会が行われた。
白石先生は『考古学概論』レポート添削の苦労話や、高松塚保存管理に対する感想などを述べておられた。
(懇親会場での白石先生を挟んで善さん・右と学友)
「桜が咲いた埼玉県」で行われた、約60名参加の懇親会は、先生のお話や久しぶりに会った学友達との懇親に花が咲きました。
「奈良歴史地理の会関東支部」は、中々活発な活動をしているのですね!!
羨ましい限りです。
今回の白石先生の解説では、
高松塚のような墳丘墓は『喪葬令』に三位以上では、「墓を営すること得」とあり、
高松塚が、石上麻呂のほか、「キトラ古墳」が右大臣阿部御主人(あべのみうし)ではないか。
また、藤原不比等は、多武峰に埋葬されたことなど歴史と現実はおもしろいですね。
奈良歴史地理の会関東支部では、代表の野崎奈良大名誉教授がお元気なので、奈良とのつながりができます。
白石先生の二子塚古墳の講演会の話をしておきました。
ありがとうございます。
白石先生は、「備後二子塚古墳」の
発掘調査指導委員をされていました。
その経緯は、良く知りませんが、
何か関係があるようです。