プチ帰省も終わり、いま上り電車に揺られているところである。
最近は、親の衰えを確認しに帰るようなところがある。特に父親の衰えは顕著で、定年を迎えてからしばらくは、アップダウンの多い道のりを、一時間コース、余力があれば二時間コース歩くのが普通で、山道を外れて道なき道を平然と歩いていたのに、七十を越えたあたりから、太った影響もあってか、足下が少しずつおぼつかなくなってきている。車の運転や重い荷物を持ち上げたりするのは、まだ問題ないが、いまのままだと、それも近い将来できなくなるだろう。
人間は、何もできない状態で生まれてきて、様々な事を努力で習得し、老いていくにしたがって、またできることがなくなっていく。わかってはいることだが、それが父親の身に振りかかると、少し愕然としてしまう。そんなはずはないと思っているわけではないのに、誰にでも肉体の衰えは等しく訪れると理解しているのに、対象が父親や母親になると、なかなか受け入れがたい自分がいる。
月イチのプチ帰省は、親の衰えを受け入れ、俺や妻が、いずれ親の介護という問題に直面した時に、動揺することなく対応するために必要な時間でもある。
だからこそ、せめて俺は、病を治して元気でいよう。
最近は、親の衰えを確認しに帰るようなところがある。特に父親の衰えは顕著で、定年を迎えてからしばらくは、アップダウンの多い道のりを、一時間コース、余力があれば二時間コース歩くのが普通で、山道を外れて道なき道を平然と歩いていたのに、七十を越えたあたりから、太った影響もあってか、足下が少しずつおぼつかなくなってきている。車の運転や重い荷物を持ち上げたりするのは、まだ問題ないが、いまのままだと、それも近い将来できなくなるだろう。
人間は、何もできない状態で生まれてきて、様々な事を努力で習得し、老いていくにしたがって、またできることがなくなっていく。わかってはいることだが、それが父親の身に振りかかると、少し愕然としてしまう。そんなはずはないと思っているわけではないのに、誰にでも肉体の衰えは等しく訪れると理解しているのに、対象が父親や母親になると、なかなか受け入れがたい自分がいる。
月イチのプチ帰省は、親の衰えを受け入れ、俺や妻が、いずれ親の介護という問題に直面した時に、動揺することなく対応するために必要な時間でもある。
だからこそ、せめて俺は、病を治して元気でいよう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます