またまたネット接続が出来ずニュースを読めなかったので読書に時間を充てられた。今回は読書からの感想です。これは田中惣五郎『吉野作造』の紹介ではなく、むしろ私の勝手な読み方の雑感に類するものであることをお断りしておきます。
●「警官が打ち毀し衆に紛れて背中に判を捺し、後で逮捕した」--米騒動一揆
大正時代は明治や昭和に比べどこか分らない、つかめないところがあった。いったい日本のファシズムはどのようにして大衆を捉えていったのだろう?民権運動家が日本ナショナリズムに包摂されていったのはなぜなのか?どんな論理があったのか?ロシアでは世界初めての社会主義国が成立し、日本の魚沼では米一機があった、私の生まれた山梨県市川大門町(歌舞伎の市川團十郎の生まれたところ)でも打ち毀しが起こり、子供の頃に近くのおばあさんから、「警官が打ち毀し衆に紛れ込んで、打ち毀ししている皆の背中にペタペタとハンコを押して行って、後で逮捕した」と教えてくれたのを覚えている。農村は疲弊して反体制のエネルギーは津波のように高まり押し寄せたが解決の道筋が明らかでないまま、関東大震災に襲われる。
●打開策が分からぬまま軍はクーデター計画へ、革新官僚は「満州国」建国へ
反体制運動として政党では日本共産党などの指導者は獄中にあるなかで、時代閉塞を打ち破る方途が明示されないまま、軍では昭和の5・15、2・26などの未熟なクーデターとして顕現化する温床を用意した。一方、高級官僚では「革新官僚」が台頭して、それはやがて満州(中国東北部)に重工業を基幹産業とする人工国を創り、本土より近代的な国家を創る運動として流れがあったのではないか。
吉野作造に代表される民権主義者が日本型ナショナリズムに捉えられていく様はどのようなものだったのかなどの関心から、もう一つは満州は革新官僚(吉野作造の実弟の吉野信次や彼の部下だった岸信介など)にとって、飛躍した言い方をするなら、国内では不可能な革命の土地としての位置づけがあったのかもしれないーーと想像していたりしていた。ゾルゲ事件の尾崎秀実は自分自身をマルキストだと思っていたらしいが、その彼が満州国に特別の思いを寄せ、国内では不可能な革命の橋頭堡を満州に求めていたのではないか?ーーなどの空想じみた思いが強まっており、何らかのヒントが潜んでいるかも知れないとの二つの関心から、田中惣五郎の『吉野作造』(1958年7月 未来社刊)を鎌倉中央図書館から借りてきた。
●吉野作造の資質はジャーナリストとしての論評が真骨頂?
田中惣五郎の同著は「ブルジョアジー」だの「ブルジョア民主主義」だの当時の歴史学会の流行のためか、思潮のためか、何とも肌合いが違うなァーーという感じを持ちながら読み進めていったのだが、いくつかの貴重な発見が有った。吉野作造は本人の資質だろうが誠実に時代の事象と向き合って多くの発言をしており法学者と言うよりジャーナリストの感じを私は強く受けた。作造は20代半ば頃の国家観がヘーゲル張りで国家精神の発露として明治政府を捉えようとしていた。しかし明治憲法の枠内ではあるが、民主的条項の擁護者として育っていく。自身の精進と、もう一方で大衆のエネルギーの高まりをそのまま受け入れた真摯な人権論者(ヒューマニスト)として徹したことを、あの時代では稀な勇気と覚悟と誠実さを知った。そして大衆のエネルギーの横溢がどれほど膨大なものであったかも理解できたように思う。そして結論めくが以下のようなことを発見した。
●なぜ、膨大な反戦エネルギーが体制に吸収されてしまったのか?
大衆の反戦闘争のエネルギーが体制に吸収されてしまったのはなぜか?以下は、『吉野作造』の要旨ではない。田中惣五郎の『吉野作造』から勝手に私が得たものに過ぎない。
①当時の前衛と自任していた日本共産党が「理論・戦略は遠望して高く 闘争は大衆に密着して低く」(理論や戦略は敵を研究して的を絞らなければならないが、最初からそこに的を絞り課題を設定するなら、運動の後方にいる一般大衆が支持できない恐れがあり、一般大衆の課題の水準で問題提起をしなければならない。運動は常に先頭を走る一団と後方に位置する一団が生まれる。先頭集団は後方の水準に問題提起は迎合すると言う意味ではなく、運動の水準はマッチさせなければならないーーと私は考えている)が出来なかったこと。この原因は「福本イズム」という頭デッカチの理論、「統一のための分裂」と称する自称マルキスト学者の屁理屈によって大衆の要求に沿い、エネルギーを汲み上げなかったこと。
②当時の野党が普選実施の勢いを駆って議会で民主主義的要求を達成することを、ブルジョアデモクラシーと軽蔑して熱心ではなかったこと。支配的思想としてアナルコサンジカリズムが強く、議会では革命、つまり政権交代は出来ないという誤謬認識し、直接行動(これはぜんぜん具体的な行動提起ではなく政策にならない原初的な、極めてプリミティブな、いうなれば勢いに過ぎない、早い話”空騒ぎ”に過ぎなかった)で満足していたこと。
③治安維持法の強権的な暴力の威力を十分理解できなかったこと。言論の自由、結社の自由が奪われると政党政治の基盤が失われる。議会が形式化、形骸化するのは当然だ。安倍内閣が特定秘密保護法で国民やメディアの目を塞ぎ、TPP交渉では実態を国会に明らかにしないで”大筋合意”してしまった。これは強権的ではなくソフトに見せながら言論の場を奪ったものだ。民主主義を根底から覆すものだ。
④当時の労農大衆が「反共」か「容共」か「中間派」かの3派に分裂したこと。目前の改革がメインテーマでなく共産主義に対する是否がメインテーマになってしまったことで、統一して戦うことが出来なくなってしまった。こんにち民主党の岡田委員長が日本共産党の「戦争法案廃棄のための国民連合政府」提案に「ハードルが高すぎる」としたのは、「反共か容共」かの選択構図への誘導入り口だ。私は5年ほど前、北京で岡田氏の講演を聞いたことがあるが、世間的で政治家としては大成を期待できないと感じたことがあった。この議論は共産党と組むか離れるかを迫る、主要な敵は誰であるかを避けた議論だ。細野や前原が民主党の解党を提案する情勢だが民主党は大義は何処にあるかーーが分からなければ解党せずとも崩壊するに違いない。
⑤政権側(絶対主義的天皇制と言ってもいい)が「万世一系」「東亜の解放」「五族協和」の宣伝戦に圧勝し思想動員に成功したこと。これは世界史的にもまれなほどの完成度だった。日本と言う国が徳川末期のペリー来航時代から攘夷勢力が開国派に転じ、日清、日露戦争で列強諸国に認められるほど、強兵であったのは、「滅私奉公」「一億玉砕」の思想動員にほぼ完全に成功したことに大きな理由がある。
⑥治安維持法のもと警察国家と後の大政翼賛会に見られるように政党政治を根絶し、思想的にも体制的にも一般庶民を隅々に至るまで監視、動員できたこと。異見は窒息させられたこと。これは国民同士が監視しあい、こっそり告げ口する密告社会が網の目のように張り巡らされた結果だ。日本人はこういう細かいところが上手だ。
以上の原因で太平洋戦争に労農運動は圧殺され一般市民は動員されて、戦前の反体制エネルギーは吸収され、戦争遂行のエネルギーに転化されていった。さらに加えるなら
⑦良質、健全なリバティーを重視する民主主義政党が育っていなかったことも、決定的な要因だろう。戦前の絶対君主制の日本的特質がここにあるように思う。ヨーロッパのように絶対君主制は日本では徳川幕府末期からの開国と富国強兵策への短時間内での強行のなかで国策は支配体制側から主導され、反対派はその都度弾圧された。明示の国会開設を求める自由民権運動を巧みに処したのが伊藤博文の明治憲法だった。
●明治の自由民権運動は「明治憲法の3勢力の並立温存とその上に立つ鵺としての明治天皇構造」で流産した
そのキモは統帥権と元老・枢密院・内務大臣に代表される宮廷派と高級官僚の3勢力とそれらの上に君臨する絶対天皇制という”鵺(ヌエ)”だ。吉野は晩年「明治文化研究会」を立ち上げたが、その真意は本人に言わせると「どのように洋学を吸収したのか」ということになるが、私には強権的にはどうにもしようがない吉野が文化領域で挑戦したのが明治文化研究会創設のように見える。そこで「万世一系」への問題提起、国体への根本的な疑問ではなかったか?
話を元に戻して総じていうなら、戦争勢力との対決点が鮮明でなかったこと。つまり、ブルジョア民主主義(プロレタリア民主主義というものがあるのかどうか分からないが、恐らくないだろう。ブルジョア民主主義と戦闘的左翼は名付けてあなどるほど、民主的権利に鈍感ないしは無知だった)を徹底する闘争目標が、そのように設定されなかったことが大きな敗因の一つだろう。
運動は先進部分もあれば遅れた部分もあるのは当然のことだ。先進部分はこの遅れた部分を基準に闘争を組まなければならない。これは鉄則だ。一部の知識人が頭で先回りして敵が誰か、どのように潜んでいるか、どんな策を弄して弱体化しようとしているかーーをいち早く見抜くことは欠かせないが、運動全般は遅れた部分に合わせなければならない。そうしないと民主的ではなくなってしまう。エネルギーの結集が出来なくなってしまう。この迂回するようで弁証的な思考が必要だ。学者・インテリゲンチャはこれを頭だけでやる。運動の矛盾した部分が理解できない。
挙句の果ては論争して四分五裂してもなお、前衛を気取った先陣争いをし、運動は退潮してもすることになる。戦線よりずっと後方に取り残されても気づかない愚かな手の付けられない救い難い集団と化すのだ。これらの批判にはその時はその時でさらに違う理屈を編み出すだろう。そして「敗北の総括」をして、一部は更に先鋭化して、体制側にまたまた利用されることになる。
●戦前の民主主義的要求が潰えた歴史は厳然として存在する
繰り返すが、当時の主戦場は民主主義の徹底の追求、国会や憲法の民主主義的条項の完全実施とその結果としての治安維持法の廃止だったはずだ。すでに、100年ほども前の事態を今さら指摘するのは、④の「容共」か「反共」かーーの構図に陥ったならこれこそ最大の障害になることを強調したいがためだ。「容共か反共か」の構図に陥らないこと、敵を見失わないこと、敵の打倒のためには統一して当たることーー次の課題は、基本で一致するなら自ずと開かれることを体験するなら、次の課題の設定は困難ではないことが分かるだろう。それが分からないと言い張るなら、その本人には別の意図が含まれていると見なければならないだろう。「将来の課題を明示しないのは無責任」との幹と枝の区別を付けない議論を持ち出すならば別の意図、ためにする議論に違いない。
田中惣五郎の『吉野作造』を読了して、吉野作造が活躍した大正デモクラシーが潰えていく様を理解して、吉野作造の誠実な応対を窺い知ることが出来るが、そのなかで吉野への私の関心は民権主義者がなぜ日本ナショナリズムに包摂されていったのか、どのようにそれは変化したのか、根本に欠けていたのは何かーーを探り出すことが出来れば、と期待したからだ。
ここでは本題ではないが付言すると、より関心を絞った問題である吉野信次(作造の実弟で、「革新官僚」の草分け。岸信介や木戸幸一の上司)に関しては一言も触れていなかった。田中の関心とは異なるので田中は追求していないのだろう。
繰り返すと、当時の反政府運動の下火はなぜか?--田中惣五郎の『吉野作造』は今日の状況の中で教訓を与えてくれる貴重な著作であり、満州事変に続く日本の言論圧殺の最大の転換期で十二分に重い仕事を独り突き進んだ、人道主義に徹した民本主義者・吉野作造という人物の軌跡があったことを重く教えてくれる。
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