五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事  四拾

2006-04-25 12:23:37 | 玄奘さんのお仕事

■クチャを攻め亡ぼしながら故国の大敗を知った呂光は独立を決意します。河西回廊の武威に首都の姑蔵を定め、その版図はカザフスタンのアルマトイに及び、パミール高原・崑崙山脈・祁連山を北の境とする東西に長い長方形になりました。クチャ攻略の隠された目的だった鳩摩羅什の拉致も実行されていたのですが、高名な鳩摩羅什さんを勝手に老僧と思い込んでいた呂光は、御本人を見て「若造」と軽侮の念を持ってしまいます。勝利の美酒に酔い痴れた粗野な呂光は、残虐な悪戯心を起こしてまだ32歳だった鳩摩羅什さんに無理矢理酒を飲ませたり、女性を近付けたりして戒律破りを仕掛けました。最後には、力づくで酒を飲ませた上に一室に監禁し、そこのクチャ国の王女を押し込んでしまうのでした。まったく罰当たりなバカ者です。

■後涼の首都姑蔵には戒律を破ってしまった36歳の鳩摩羅什の姿が有りました。386年の事です。しかし、初代の呂光は建国間も無く死去して甥の呂隆が王位を継いでいた後涼は、401年に前秦を併呑した後秦に攻め亡ぼされてしまいました。後秦の王姚興は姑蔵に囚われていた52歳になった鳩摩羅什を見つけて首都の長安に連れて行きます。後秦という国は黄河中流域を抑えた上に、黄河が北に湾曲しているオルドス地方も加えた大国でした。

■16年に及ぶ河西回廊での幽閉生活の中で、鳩摩羅什さんは漢語を学んだと考えられています。故国が滅亡したのですから、母の願いであった仏教の布教に一生を捧げる決意をしたのもその頃なのでしょう。長安に丁重に招かれた50歳の鳩摩羅什に対して、姚興は国家事業として仏典の漢訳を命じます。409年に59歳で入寂するまでの8年間に、『大品般若経』『小品般若経』『金剛般若経』などの般若経典に始まって、華厳の教えを説く『十住経』、そして日本人にも馴染み深い『維摩経』『妙法蓮華経』『阿弥陀経』などの有名な経典、『中論』『十二門論』『百論』の竜樹三論、何よりも玄奘さんが何度も学んだ『大智度論』『十住毘婆沙論』『成実論』も鳩摩羅什さんは漢訳しています。玄奘さんが最後まで信仰した弥勒菩薩に関する『弥勒下生経』『弥勒成仏経』も訳していますし、『座禅三昧経』『禅法要解』や『十誦律』などの修行生活に欠かせない聖典も訳して下さいました。その数、35部294巻となりました。


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