五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の伍拾

2006-07-12 22:19:51 | 玄奘さんのお仕事
■真諦さんが南朝梁の武帝からの招きに応じて広州で2年を過ごしてから、建康に入ったのが548年だったと書きましたが、その25年前に当たる523年に北魏の北方で不気味な鳴動が起こると、たちまちの内に東西分裂の動きが進み出します。北魏の北には柔然という強大な勢力が育っていましたが、その下で支配されていたトルコ系の突厥族が新勢力として台頭しつつありました。そんな北の内輪揉めに油断したのか、北魏は洛陽に遷都してからは祖語だった鮮卑語も民族衣装も全面的に禁止して急激な漢化政策を断行しつつ、北の故地を忘れ始めていたようです。

■北魏が建国以来、北の守りと頼んでいたのは沃野鎮という要塞都市でした。黄河が北に湾曲するオルドスの北、現在の内モンゴル自治区北西に当たります。北魏建国時の首都は平城(大同)でしたから、この要塞が破られれば即座に首都陥落の危機に直面しますから、この最前線には鮮卑族の選りすぐりと漢族の上流階級の武人が派遣されていたのです。戸籍も特殊で法的にもエリートして厚遇されていたので、士気高く規律も厳格な精鋭部隊が北を睨んでいたのです。しかし、すっかり中原に馴染んでしまってからは野蛮な土地の閑職扱いされるようになり、中央で出世の望みの無い無能な役人や、ひどい時には流刑地代わりに罪人を兵士として送り込むような事態に陥っていました。

■士気が下がって規律が緩めば、左遷された役人がやる事はたった一つです。住民から金銭や労力を搾り取って私腹を肥やし、庶民の不満を極限まで膨らませる事、そして反乱が起こって国内が四分五裂の動乱、その暴動の親分が易姓革命と称して新しい皇帝になる。中華三千年の歴史はその繰り返しです。北魏も同様で、沃野鎮で起こった民衆暴動の頭目は破六韓跋陵(はろくかんばつりょう)という男でした。周辺に設置されていた辺境6鎮が糾合して大反乱になります。混乱は7年間も続いて何とか収拾されますが、暴動の中心人物だった高歓や宇文泰などが隠然たる力を付けて政治に介入するという最悪の小康状態になったのでした。

■その後の北魏は皇帝殺害とその報復の大量虐殺事件などが起きて、仏教王国とは思えない状態が続きます。531年になると、日本でも3月に継体天皇が崩御し、安閑天皇と宣化天皇との二朝併立状態になり、同年5月に南朝梁の皇太子蕭統(しょうとう)が最古の『文選』30巻を残して30歳で早逝します。仏教にも造詣が深かった蕭統が、古代王朝周から梁までに残された名文・名詩800篇を整理し、自ら見事な序文を付けて編纂したのが『文選』です。この文化遺産の出現は後の唐や日本にも多大な影響を及ぼしているのは明らかで、梁という国の文化の高さが偲ばれる話です。

■534年の秋、形骸化していた北魏王朝の中で、高歓が孝静皇帝を擁立して遷都を断行すると、翌年、それに対抗して宇文泰も孝武帝を弑し傀儡の文帝を立てて長安を死守する意志を示します。こうして北朝は西魏と東魏に分裂してしまったのですが、これは南朝の梁にとっても対岸の火事では済まされない一大事を誘発することになります。事件の中心人物は候景という名の武将でした。彼は北魏分裂の動乱の中で頭角を現わし東魏の実質的な支配者となる高歓に仕えていました。分裂後には河南の要衝を管理する大役を命じられるほどの信頼を得ていたのですが、高歓の息子の高澄には憎まれていました。二代目と跡目を狙う大番頭との対立という構図でしょう。

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