五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の四拾七

2006-07-07 06:26:59 | 玄奘さんのお仕事
■494年という年は南北の王朝が好対照を見せる年でした。南朝の斉では明帝が即位した年に当たりますが、この皇帝は病的に猜疑心が強く皇族を次々と殺害し始めたので王朝内は疑心暗鬼に満たされて混乱し、国内も不穏な空気に包まれます。同じ年の末、北朝の北魏は皇太后が死去して親政を開始した孝文帝が古都洛陽への遷都を実施しています。平城(大同)郊外の雲崗石窟に劣らない龍門石窟の造営が始まり、ますます仏教は盛んになるのです。宋雲や慧生などの僧が仏典を求めて中央アジアに派遣される一方で、洛陽と長安周辺には中央アジアからやって来た1万人以上の外国人僧が暮らしていたとさえ言われる6世紀前半になると、菩提流支(ボーディルチ)、勒那摩提(ラトナマティ)、仏陀扇多(ブッダシャーンタ)などの名僧が北魏に『金剛経』『入楞伽経』『深密解脱経』などの新経典や、『十地経論』『法華経論』『無量寿経論』などの重要な論書をもたらして翻訳したのです。

■共食いを始めた南朝の斉王朝は502年に梁に取って代わられるのですが、その初代皇帝の武帝(蕭衍)という人は熱心な仏教信者であったので、即位して5年ほどで儒教式の官制を改変してしまいます。527年(この年に日本では九州で磐井の反乱が起こります)の4月27日に中国史でも他に例を見ない椿事が起こりました。見事に国内を安定させた梁の武帝が、分別盛りの63歳という年齢で家出をしたのです。正確には「出家」です。皇帝が僧ではなく「三宝の奴」という教団組織の最下層に位置する雑役夫となって寺で暮らそうと宮殿を逃げ出してしまったのでした。日本でも剃髪した天皇は何人かいらっしゃいますし、平の清盛や戦国武将の中にも僧形となった人物は存在しますが、梁の武帝の場合は本当に身分を捨てて寺の雑役夫になってしまったのです。

■武帝は統治者としては有能だったらしく、こんな大騒動を後にも更に3回も起しても国内が乱れる事は無かったそうです。幸か不幸か北魏では内輪揉めが起こったので南朝の梁に攻め込む暇が無かったようです。しかし、その度に皇帝が飛び込んだ寺に対して莫大な布施をして身請けするので、国庫の富は失われたと言います。皇帝は本望だったかも知れませんが、梁の国力は明らかに低下したのでした。この武帝に関して、非常に面白い遺跡が残っているそうです。


……中国の南部、いまの福建省は泉州市にある開元寺の西塔第四層南面に彫られているレリーフ……右に向って合掌してる僧侶の姿があるが……さいわい、この僧の背後上方に銘があり、「唐三蔵」の三文字がいまでもはっきり読み取れる……三蔵法師玄奘であると断定してさしつかえない。この「唐三蔵」の像と仏龕(ぶつがん)を挟んで向かい合っているのが……この人が天子である事を示している。冕(べん)と呼ばれる頭上の冠と身にまとう日月竜鳳を縫い取りしたコン衣……冕をかぶったときは笏(しゃく)を手にして臣下の朝見に臨むが、この天子も笏を持ち、さらにお経の折本を重ねている。お経の右半分には観音菩薩の像が描かれ、左半分には「般若心経」の四字が刻まれている。……この天子は、右上に刻まれた銘によれば「梁武帝」である。梁とは、西暦502年から557年まで存在した南朝の一小国で、武帝はその初代皇帝として502年から549年まで在位した蕭衍である。……梁の武帝は6世紀前半の人であり、三蔵法師玄奘は7世紀前半に西天取経の旅をした人である。


これは集英社が出版した中国の英傑シリーズ第6巻『三千世界を跋渉す 三蔵法師』の冒頭からの引用です。著者は言わずと知れた中野美代子さんですから、この文章の後に葉、同じ西塔の東北壁面には中野さんお得意の孫悟空の前身と言われる行者姿のサルが彫られているという話が続いているのです。

■歴史上は100年を挟んで接見など不可能だった二人が出会い、玄奘さんが出来たての『般若心経』の新訳を梁の武帝に献上する。唐の時代に建立された開元寺に聳(そび)える塔の壁面に、当時の民衆が望んだ名僧と名君の出会いが描かれているという事なのでしょう。後に道教のエッセンスを縦横に混ぜ合わせた奇書『西遊記』に玄奘さんを引っ張り出してしまうくらいですから、この程度のお遊びは許容範囲内という事なのでしょうが、梁の武帝が最も深く帰依し研究したのは、当時請来されて翻訳されたばかりの『涅槃経』だったのです。この『涅槃経』というお経は、1960年代のハリウッド映画が次々に制作した宗教大作映画にそのまま使えるような、壮大な物語を含む釈尊の最期を語りつくした物なのですが、この中期大乗仏典に分類されるお経には、「不滅の仏陀」や「如来蔵」が語られている点が重大な意味を持っています。玄奘さんが命懸けで学んだ唯識論と、梁の武帝が信仰した如来蔵思想が合致するのかしないのか、これは大きな問題となるのですが、その深刻な話はもう少し先に行ってからにしましょう。

■先行王朝の斉が内部抗争を始めた隙を衝いて梁を建てた武帝は、機を見るに敏、人望の厚い文武両道に秀でた人物とされていまして仏教を熱心に信仰して在家信者としての戒律を厳守する姿勢からも「菩薩大皇帝」とも称されたのだそうです。そこまでは結構な話なのですが、先に書いた通り、釈尊を見習って王の位を投げ捨てて出家するような人でもありましたから、南朝の黄金時代を自らが築き上げ、また自らの信仰によって国を混乱さえて斜陽化させた人でもあったのです。在位50年の間に首都建康には700以上の寺院が犇(ひしめ)いていたそうですし、僧尼の数は10万を超えたとも言われています。皇帝自身が『涅槃経』を中心にして大いに仏教を研究して数百巻の著作もし、同泰寺という寺に出掛けて仏典講義までしたそうです。

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