五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の四拾参

2006-07-03 15:01:13 | 玄奘さんのお仕事
■さて、三大訳師と尊称されるのは、鳩摩羅什(344~413)、真諦(499~568)、玄奘(600~664)とは前にも書きました。玄奘さんは帰国後に鳩摩羅什さんの業績を強く意識していた事が分かる発言をしているのですが、真諦さんの残した仕事に関しては一切触れていないのだそうです。真諦さんはパラマールタとクラナータの二つの名前を持っていました。5世紀初頭に活躍した鳩摩羅什はいろいろと苦労をしたものの、50歳になってからは後秦の王姚興(ようこう)の庇護を受けて経典の翻訳を続けられました。それに続く6世紀半ばに経典翻訳の台風の目となった真諦さんは、大変な不運の連続を経験しました。その不運の源になったのが良くも悪くも仏教を厚く信仰した梁の武帝でした。7世紀中頃の玄奘さんには唐の太宗が居ましたし、8世紀の中期に活躍した不空を加えて四大翻訳家と言う場合が有りますが、この不空は玄宗皇帝の庇護を受けられましたから、真諦さんの不遇が非常に目立ってしまいます。

■若き日の玄奘さんが当時の仏教思想では最新にして最も深い内容を持っていた唯識論を学んだ事は以前にも書きましたが、洛陽の浄土寺で玄奘さんを可愛がったのが慧景で、師を求めて四川省に行った玄奘さんを温かく迎えて指導して下さったのは道基さんと宝進(本当は上に日が載ります)でした。この三人は全員が靖嵩さんのお弟子さん達でしたが、その靖嵩さんのお師匠さんが法泰さんで、この人は真諦さんの一番弟子として有名な方なのです。つまり、玄奘さんがインドに旅立たず、唐の国内で修行を続けていたら、真諦直系5代目の衣鉢を継いで名を高めたはずなのです。この三人以外にも、長安の大覚寺で指導した道岳さん、「釈門の千里の駒」と玄奘さんを絶賛した法常さんや僧弁さんも皆真諦さんの弟子筋の方々ですから、若き日の玄奘さんは569年1月11日に失意の中で遷化した真諦さんが残した唯識思想に囲まれていたことになります。

■真諦さんは優禅尼(ウッジャヤニー)の出身と伝えられています。そこは現在のウジャイン市で、ジャイプールの真南、アーメダバードの真東に当たるインドール市のすぐ北に位置するインド亜大陸の中心線からやや西に寄った所です。ここからナーランダー寺院までは直線距離で1000キロ余ですが、西のカーティアヴァール半島までなら半分の500キロぐらいです。当時、最先端の仏教思想を学ぼうとする若者ならば玄奘さんも学んだナーランダー寺院か、そこから分派してカーティアヴァール半島のヴァラビーという都市に設置された学府のどちらかが最良の場所とされていましたから、真諦さんはヴァラビーで学んだ可能性が高いと考えられます。

■何処で勉強しようと大きな違いは無いような気がしますが、ナーランダー寺院で集大成されたはずの唯識思想は、単に研究拠点を二つに増やしただけではなかったという重大な事実が有ります。グプタ王朝の全盛期の5世紀初頭にシャクラーディトヤ王からの莫大な寄付によって創建されたナーランダー寺院は、大学者ダルマパーラ(護法)を指導者として組織され、唯識思想を中心として法律・医学・音楽なども含めた学問の総合大学として構想され発展しました。使用されていたテキスト類がほとんど消失してしまっているので、具体的な内容は分からないのですが、イスラム教に席捲されてインド中の仏教大学(寺院)が消滅する前に、ナーランダー寺院からシャーンタラクシタとその弟子のカマラシーラを招いて指導を受けた国が有りました。それはチベットで、10世紀にはナーランダー寺院の学頭を務めたアティーシャも招かれています。

■インド文明の全体系を吸収しようとインドの文字を下敷きにした文字を創り、翻訳を目的とする文法書と辞書まで作ったチベット王国は、当時のインドで学ばれていた学問体系をよく保存していると言えるでしょう。この伝統は遠く日本の奈良仏教へと連なる学問体系でもあるので、チベットに伝えられ今も大切に守られている体系を紹介して置こうと思います。真諦さんの物語は更に先送りです。

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