■
537年 西魏・東魏が軍事衝突。西魏が優勢で候景が管理していた 河南を得る。
547年 東魏の実力者高歓が死去し、候景は梁に亡命。梁の武帝は 候景を重用して東魏の南下を牽制させるが逆に大敗を喫す。 敗走中に武帝の甥の蕭淵明が東魏の捕虜となる。
548年 東魏と梁との和平交渉が進み、蕭淵明の身柄送還が議題と なって、逆賊候景の引渡しが交換条件になるとの噂。
国境を守っていた候景は先手を打って手下1000人と反乱を 起して南下を始めると、続々と不満分子が合流して建康到 着時には10万の兵力となっていた。建康包囲戦始まる。
549年 3月、一時的な講和が成立するも候景は建康の包囲は解かず。
同月、候景は建康を占領して丞相に就任し武帝を幽閉。
6月、武帝死去。候景は幼少の皇太子蕭綱(しょうこう)を 簡文帝に即位させる。
550年 6月、東魏の実力者高洋が若干21歳で皇帝から禅定を受けて 北斉を建てる。
551年 候景は簡文帝を弑し、自ら梁の漢帝を名乗る。
552年 武帝の第7子蕭繹(しょうえき)を擁立した陳覇先を中心と する遺臣が候景を倒す。
557年 11月、候景の乱と西魏の侵攻で梁国内は荒廃する中、梁最 後の皇帝敬帝から武将陳覇先が禅定を受けて陳王朝を建て る。
■梁の武帝が死去したのは86歳の時だったとされています。この老皇帝の招きで真諦さんが建康にやって来た時は、既に候景の反乱が始まっていた事になります。来訪早々に首都攻囲戦に巻き込まれ、目前で老皇帝が拘束され幽閉されるのを、一体どんな思いで見ていたのでしょう?とても翻訳事業に着手など出来ないと思った真諦さんは、おそらくは船に積んだままの経典類と共に長江を下って海に出て、現在の上海を迂回して南下、杭州湾に入り込んで富春江(浙江)を遡り、富春(富陽)に難を逃れたようです。恐るべき執念と言うべきか、真諦さんはこの富春での避難生活の中で『十地経論』を翻訳します。事件の中心にした候景も仏教を信仰していたらしく、簡文帝を弑して漢帝を名乗った後、真諦さんに建康に戻るように要請しています。
■腐っても鯛と言うことなのか、真諦さんはこの招聘に応じて552年に建健に入り、金陵正観寺で『金光明経』を訳了。おそらくその翻訳の最中に候景が倒されているはずですが、554年には予章(江西省南昌)に移動しています。それからも各地を点々としながら広州まで南下し続けます。自分を招いた武帝も梁も失われた後、陳覇先(陳の武帝)が建国した翌年、558年の7月に予章に戻りますが、南朝の混乱と荒廃は凄まじいものだったはずです。扶南と梁との間で交わされた外交交渉によって、文化大使のような国賓待遇で招かれた我が身が、醜い政権争奪の修羅場に投げ込まれてしまったのですから、既に外交的な意味などまったく無くなったわけです。意志堅固で頑強な肉体を得ていたにしても、齢(よわい)60になる我が身の置き所が無く、扶南と梁の援助で集めて持参した膨大な経典類を守りながらの流浪生活には耐えられなくなるのは当然のことです。
■真諦さんは、「楞伽修国」に行くんだ!と言い出したそうです。末法の世とされた時期に起こった戦乱の中、各地から命懸けで優秀な若者が真諦さんの名を慕って集まっていた頃のことです。真諦さんが行きたかったのはシンガポール辺りではないか、と想定されているそうですが、「楞伽」はスリランカの古称でもありますから、ベンガル湾を囲む港を経由してスリランカへ、そしてインド西岸を北上して故郷の西インドに帰ろうとしたと想像する方が、真諦さんの絶望感に近づけるような気がします。そんな真諦さんの心情は百も承知の上で、愛弟子達が留まって新しい経典の翻訳を続けるように懇願します。554年に混乱を避けて都建康を離れてから、真諦さんは一度も都には戻れませんでした。戦国時代の呉の都建業が造られてから歴代5王朝が都を置いた場所が荒れ果ててしまったからかと思ったら、梁の後を継いだ陳王朝もこの建康を都にして復興が始まっていたのです。
■戦乱の中で人心が荒廃したからなのか、かつての仏都が復興する中で頑迷な守旧派が真諦さんの存在を煙たがり、商売敵と思って都への帰還を阻止しようと頑張ったのが、真相だったようです。莫大な援助を受けて育った南朝の仏教ネット・ワークは戦乱の中にでも良く生き残り、真諦さんの弟子の多くが建康に残ったり帰還したりして、新しい陳王朝に真諦招聘を働きかけていたのだそうです。しかし、唯識思想を恐れた守旧派の仏教勢力の巻き返しと暗躍は凄まじく、王族や高官に唯識思想は危険思想だの、邪教だのと吹き込んで回った馬鹿者が大勢いたという記録が有るそうです。こうした愚かな政治劇を遠い南の僻地で真諦さんは手紙や伝言などで知ったのではないでしょうか。やり場の無い怒りや無力感に襲われた事は想像に難くありません。
■広東南部に留まった真諦さんは、560年に2年がかりで訳了した『摂大乗論』を置き土産に、今度こそは帰国しようと言い出します。それを黙って見送る弟子など1人も居らず、帰る!帰らないで下さい!の押し問答を繰り返して更に2年の月日が流れてしまいます。さすがに御弟子さん達も真諦さんの帰国の決意が固いと分かったようで、562年の9月に南に行く船に乗って出発するのです。しかし、秋の台風シーズンに南シナ海に乗り出せば、偏西風に乗る前の若い台風と遭遇するのは現代人の常識です。真諦さんが乗った船は暴風雨に翻弄されながら吹き戻され、3箇月間も漂流して広州に接岸したそうです。真諦さん御本人も、自分が不条理小説の主人公になってしまっていると思ったか、仏教風に因縁と業の深さを悟ったのか、広州の行政官の勧めに応じて制旨寺という所に落ち着いて、翻訳を再開したのでした。この作業を愛弟子の慧(えがい)さんが手伝ったそうですが、一緒に難破船で漂流したのか、師匠が半死半生で漂着したとの情報に接して飛んで来たのかは分かりません。
■568年の6月、真諦さんの根気も精気も尽き果てたらしく、広州の北嶺山という山に入って自らの命を絶とうとします。おそらくは食を絶ち塩を絶ち水を絶っての結跏趺坐、後の即身成仏と同じ流儀で自殺しようとしたのでしょう。師匠が勝手に山に入ってしまったと弟子や後援者は大騒ぎをして、何とかその身を山から下ろして自殺は未遂で終ります。これでやっと雑念を去って翻訳に集中出来るかと皆は期待し、真諦さんも憑き物が取れたように気分も一新して訳業を再開したのかも知れません。しかし、全ての翻訳作業に献身的に関わり、真諦さんが最も情熱を込めて育てた愛弟子の慧さんが、広州顕明寺で『倶舎論』の講義をしている最中に急死してしまうのです。
■享年51歳、568年8月25日のことだそうです。「唯識3年倶舎8年」真諦さんも『倶舎論』の重要性を弟子達に叩き込んでいたことが分かりますが、師匠の真諦さんは悲しみを堪えて弟子が中断した『倶舎論』講義を引き継いで再開したのだそうですが、真諦さんの身も心も限界に達していたようです。この講義を最後まで続けられずに病の床に臥してしまい、翌年の1月早々に入寂したのでした。享年71歳。建国間も無い唐の盛況の中に帰国し、皇帝の全面的な協力を得て大いなる翻訳の業績を残せた玄奘さんの生涯と比べると、真諦さんの翻訳僧としての一生は不運と絶望に満ちたものだったと思わざるを得ません。玄奘さんが生まれる30年前の悲しい御話です。
合掌
537年 西魏・東魏が軍事衝突。西魏が優勢で候景が管理していた 河南を得る。
547年 東魏の実力者高歓が死去し、候景は梁に亡命。梁の武帝は 候景を重用して東魏の南下を牽制させるが逆に大敗を喫す。 敗走中に武帝の甥の蕭淵明が東魏の捕虜となる。
548年 東魏と梁との和平交渉が進み、蕭淵明の身柄送還が議題と なって、逆賊候景の引渡しが交換条件になるとの噂。
国境を守っていた候景は先手を打って手下1000人と反乱を 起して南下を始めると、続々と不満分子が合流して建康到 着時には10万の兵力となっていた。建康包囲戦始まる。
549年 3月、一時的な講和が成立するも候景は建康の包囲は解かず。
同月、候景は建康を占領して丞相に就任し武帝を幽閉。
6月、武帝死去。候景は幼少の皇太子蕭綱(しょうこう)を 簡文帝に即位させる。
550年 6月、東魏の実力者高洋が若干21歳で皇帝から禅定を受けて 北斉を建てる。
551年 候景は簡文帝を弑し、自ら梁の漢帝を名乗る。
552年 武帝の第7子蕭繹(しょうえき)を擁立した陳覇先を中心と する遺臣が候景を倒す。
557年 11月、候景の乱と西魏の侵攻で梁国内は荒廃する中、梁最 後の皇帝敬帝から武将陳覇先が禅定を受けて陳王朝を建て る。
■梁の武帝が死去したのは86歳の時だったとされています。この老皇帝の招きで真諦さんが建康にやって来た時は、既に候景の反乱が始まっていた事になります。来訪早々に首都攻囲戦に巻き込まれ、目前で老皇帝が拘束され幽閉されるのを、一体どんな思いで見ていたのでしょう?とても翻訳事業に着手など出来ないと思った真諦さんは、おそらくは船に積んだままの経典類と共に長江を下って海に出て、現在の上海を迂回して南下、杭州湾に入り込んで富春江(浙江)を遡り、富春(富陽)に難を逃れたようです。恐るべき執念と言うべきか、真諦さんはこの富春での避難生活の中で『十地経論』を翻訳します。事件の中心にした候景も仏教を信仰していたらしく、簡文帝を弑して漢帝を名乗った後、真諦さんに建康に戻るように要請しています。
■腐っても鯛と言うことなのか、真諦さんはこの招聘に応じて552年に建健に入り、金陵正観寺で『金光明経』を訳了。おそらくその翻訳の最中に候景が倒されているはずですが、554年には予章(江西省南昌)に移動しています。それからも各地を点々としながら広州まで南下し続けます。自分を招いた武帝も梁も失われた後、陳覇先(陳の武帝)が建国した翌年、558年の7月に予章に戻りますが、南朝の混乱と荒廃は凄まじいものだったはずです。扶南と梁との間で交わされた外交交渉によって、文化大使のような国賓待遇で招かれた我が身が、醜い政権争奪の修羅場に投げ込まれてしまったのですから、既に外交的な意味などまったく無くなったわけです。意志堅固で頑強な肉体を得ていたにしても、齢(よわい)60になる我が身の置き所が無く、扶南と梁の援助で集めて持参した膨大な経典類を守りながらの流浪生活には耐えられなくなるのは当然のことです。
■真諦さんは、「楞伽修国」に行くんだ!と言い出したそうです。末法の世とされた時期に起こった戦乱の中、各地から命懸けで優秀な若者が真諦さんの名を慕って集まっていた頃のことです。真諦さんが行きたかったのはシンガポール辺りではないか、と想定されているそうですが、「楞伽」はスリランカの古称でもありますから、ベンガル湾を囲む港を経由してスリランカへ、そしてインド西岸を北上して故郷の西インドに帰ろうとしたと想像する方が、真諦さんの絶望感に近づけるような気がします。そんな真諦さんの心情は百も承知の上で、愛弟子達が留まって新しい経典の翻訳を続けるように懇願します。554年に混乱を避けて都建康を離れてから、真諦さんは一度も都には戻れませんでした。戦国時代の呉の都建業が造られてから歴代5王朝が都を置いた場所が荒れ果ててしまったからかと思ったら、梁の後を継いだ陳王朝もこの建康を都にして復興が始まっていたのです。
■戦乱の中で人心が荒廃したからなのか、かつての仏都が復興する中で頑迷な守旧派が真諦さんの存在を煙たがり、商売敵と思って都への帰還を阻止しようと頑張ったのが、真相だったようです。莫大な援助を受けて育った南朝の仏教ネット・ワークは戦乱の中にでも良く生き残り、真諦さんの弟子の多くが建康に残ったり帰還したりして、新しい陳王朝に真諦招聘を働きかけていたのだそうです。しかし、唯識思想を恐れた守旧派の仏教勢力の巻き返しと暗躍は凄まじく、王族や高官に唯識思想は危険思想だの、邪教だのと吹き込んで回った馬鹿者が大勢いたという記録が有るそうです。こうした愚かな政治劇を遠い南の僻地で真諦さんは手紙や伝言などで知ったのではないでしょうか。やり場の無い怒りや無力感に襲われた事は想像に難くありません。
■広東南部に留まった真諦さんは、560年に2年がかりで訳了した『摂大乗論』を置き土産に、今度こそは帰国しようと言い出します。それを黙って見送る弟子など1人も居らず、帰る!帰らないで下さい!の押し問答を繰り返して更に2年の月日が流れてしまいます。さすがに御弟子さん達も真諦さんの帰国の決意が固いと分かったようで、562年の9月に南に行く船に乗って出発するのです。しかし、秋の台風シーズンに南シナ海に乗り出せば、偏西風に乗る前の若い台風と遭遇するのは現代人の常識です。真諦さんが乗った船は暴風雨に翻弄されながら吹き戻され、3箇月間も漂流して広州に接岸したそうです。真諦さん御本人も、自分が不条理小説の主人公になってしまっていると思ったか、仏教風に因縁と業の深さを悟ったのか、広州の行政官の勧めに応じて制旨寺という所に落ち着いて、翻訳を再開したのでした。この作業を愛弟子の慧(えがい)さんが手伝ったそうですが、一緒に難破船で漂流したのか、師匠が半死半生で漂着したとの情報に接して飛んで来たのかは分かりません。
■568年の6月、真諦さんの根気も精気も尽き果てたらしく、広州の北嶺山という山に入って自らの命を絶とうとします。おそらくは食を絶ち塩を絶ち水を絶っての結跏趺坐、後の即身成仏と同じ流儀で自殺しようとしたのでしょう。師匠が勝手に山に入ってしまったと弟子や後援者は大騒ぎをして、何とかその身を山から下ろして自殺は未遂で終ります。これでやっと雑念を去って翻訳に集中出来るかと皆は期待し、真諦さんも憑き物が取れたように気分も一新して訳業を再開したのかも知れません。しかし、全ての翻訳作業に献身的に関わり、真諦さんが最も情熱を込めて育てた愛弟子の慧さんが、広州顕明寺で『倶舎論』の講義をしている最中に急死してしまうのです。
■享年51歳、568年8月25日のことだそうです。「唯識3年倶舎8年」真諦さんも『倶舎論』の重要性を弟子達に叩き込んでいたことが分かりますが、師匠の真諦さんは悲しみを堪えて弟子が中断した『倶舎論』講義を引き継いで再開したのだそうですが、真諦さんの身も心も限界に達していたようです。この講義を最後まで続けられずに病の床に臥してしまい、翌年の1月早々に入寂したのでした。享年71歳。建国間も無い唐の盛況の中に帰国し、皇帝の全面的な協力を得て大いなる翻訳の業績を残せた玄奘さんの生涯と比べると、真諦さんの翻訳僧としての一生は不運と絶望に満ちたものだったと思わざるを得ません。玄奘さんが生まれる30年前の悲しい御話です。
合掌