五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事  四拾壱

2006-05-03 08:52:54 | 玄奘さんのお仕事

■法顕さんが長安を旅立ったのは西暦399年とされています。その時の年齢が64歳だったという事実が、急速に高齢化し続ける日本に暮らす人々に新たな勇気を与えてくれるかも知れません。法顕さんが長安で修行している間に、今風に言えば国籍が三回も変わったことになります。テイ族の前秦、鮮卑族の西燕、そして羌族の後秦の順番で支配者が入れ替わったからです。異民族の殺し合いを間近に見た法顕さんは仏教をより完全な物に鍛え直さねば衆生は救われない!と考えたようです。戦乱が続く時、支配者は戦費調達の為に重税と苦役を課すのが常ですが、支配者が異民族となったら民間の僅かな富も根こそぎにされてしまいます。これを逃れる最も簡単な方法が出家僧になって仕舞う事でした。私度僧と呼ばれる自称出家者が続々と現われて怪しげな集団を作って勝手な「仏教」を主張し始めますと、王様は税金逃れを禁ずる為に似非出家者を淘汰しようと思いますし、仏教を真面目に学ぼうとする僧達も頼りになる指導者と正確な経典が必要となります。

■こうした時代の要請に応えたのが老齢に達していた法顕さんでした。350年後の日本も同じような状態になり、鑑真和上を招かねばなりませんでしたが、法顕さんが求めたのも鑑真さんが奈良の都に伝えたのも『律』でした。これを授かり遵守する者を正式な僧侶と認める事で、政治も仏教界も秩序を回復することが出来るからです。こうした目的を持って、法顕さんは、慧景、道整、慧応、慧カイという4人の同士と共に、後秦の都となっていた長安を出発しました。それが399年です。鳩摩羅什さんはこの時50歳になっていて、後涼の首都姑蔵(武威)に居ます。401年に後秦が攻め入って、姚興は52歳になった鳩摩羅什を首都の長安に連れて行ったのですから、まるで法顕さんを追い掛けるように後秦は西域に足を踏み入れたようなものです。

■法顕さんが通った行程を示す多くの歴史地図では、長安、隴東、武威、張エキ、酒泉、敦煌……を結んだ線が描かれているようですが、法顕さんは武威(姑蔵)の城市を迂回しているのです。恐らくは後秦が後涼の首都であった武威を攻略する動きを見せていたのでしょう。自分が望んだ訳ではなくとも、法顕さんは後秦の首都の長安からやって来た5人の僧侶の1人なのですから、密偵か隠密と思われれば命の保障は有りません。インドに旅立った母の願いを適えるべく、漢族の地に正しい仏教を伝えたいと熱望している50歳の鳩摩羅什さんが軟禁状態にあった武威の城壁を、64歳の法顕さんは遠くから見たかも知れませんが足を踏み入れる事は無かったのです。シルクロードにその名声が響き渡っていた鳩摩羅什さんが武威に軟禁されている事を法顕さんは知らなかったのか?との疑問も湧きますが、後秦の符堅はこの不世出の名僧を国の宝として厳重に秘匿したかったのでしょう。それ程、鳩摩羅什さんの争奪戦は激しかったという事です。五胡十六国の時代を編み上げた権力者の多くが仏教徒だった歴史の一面を示す話です。

■武威の城壁の中と外に別れていたまま、2人の仏教者が皮肉な擦れ違いを演じたのですが、もしも、法顕さんが出発を2年待てば、武威にいた52歳の鳩摩羅什さんを後秦の王姚興が長安に連れて来てくれたのでした。そして、クチャ国から、鳩摩羅什に『律』を教えた卑摩羅叉(ビマラシャ)や仏陀耶舎などの大家が長安に招かれて、404年には『十誦律』61巻、412年には『四部律』60巻の漢訳が完成したのです。404年と言うと、法顕さんは同道の友人と死別したり離別したりしながら、中インドの仏跡を巡礼して回っている頃でしたし、412年頃はインドからスリランカに渡って最後の仏典収集をしていたのです。法顕さんが難破漂流の苦労の末に山東半島に上陸したのは413年だったそうですが、鳩摩羅什さんは409年に59歳で既に入寂していましたから、御二人は同じ願いを持ちながらも一度も相見(まみ)える事はありませんでした。法顕さんは建康(南京)に落ち着いて、仏陀跋陀羅というインド僧の協力を得て宿願だった訳経が出来ました。しかし、持ち帰った仏典の多くは後代の訳経僧達に残して死去したのでした。法顕さんが訳した『律』はたったの1部だったそうですが、立派に使命を果たしたと言えましょう。

■前秦の符堅が呂光にクチャ攻略を命令した時に、鳩摩羅什を保護して連れ帰る事を進言したのは道安という僧でしたが、この道安さんは仏図澄の高弟でした。仏図澄さんは310年に洛陽に来た西域の名僧ですが、どうやら出身地は鳩摩羅什さんと同じクチャ国のようです。仏図澄さんは、当時の洛陽を占拠していた匈奴を相手に、人狩りや人肉パーティを止めさせたりするのに忙しくて、経典の翻訳どころではなかったそうです。玄奘さんが翻訳をやり直して「新訳」という偉業を達成したわけですが、「旧訳(くやく)」とされた仏典には、その1巻ごとに心動かされるような物語が添えられている事を忘れてはなりますまい。合掌


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