五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の四拾六

2006-07-06 00:03:16 | 玄奘さんのお仕事
■東晋の時代から始まった南部開発が軌道に乗って、米作と交易によって門閥貴族が急速に富を蓄えて権力の簒奪闘争が始まります。日本に米作が伝わった歴史も、この南朝の発展と密接に関連しているに違いありません。日本の伝統的な農村風景も、農家の建築様式も南朝の影響が見られる事は明らかです。大和朝廷が成立したのは、正に南北朝時代のことですし、倭の五王が盛んに遣いを送ったのは歴代の南朝でした。

■420年7月、北から逃れて来た東晋は、恭帝を最後に滅亡して、禅譲を受けた最有力の武将だった劉裕は南朝最初の王朝の宋を建てます。劉裕は417年に鳩摩羅什が居た後秦を滅ぼした武将です。そんな宋王朝も60年に満たない内に滅びます。順帝から禅譲を受けたのは蕭道成という政治と軍事を牛耳っていた男で、彼は斉の高帝となります。しかし、たった20年後に斉は滅びます。南朝第二の都市として発展していた襄陽に挙兵した蕭衍(ショウエン)が反乱を起して和帝から禅定を受けたのが502年5月の事でした。この物騒な38歳の男蕭衍が梁の武帝です。

■梁の武帝は東アジアの仏教史に大きな位置を占めることになるのですが、建国した当初は博士を任命し、全国に学館を設置するなど儒教一辺倒の文化政策を断行しているのは面白いところです。仏教を信仰しながら政権当初は儒教を高揚してみせる武帝の手法は、日本の大和朝廷にも影響を及ぼしていたようです。当時の日本は大陸との交流が途絶え、後に遣隋使を頻繁に送るようになる前の孤立状態にありました。そんな日本の窓になってくれたのが友邦の百済でした。朝鮮半島の複雑な政治状況から、百済は南朝の梁との結び付きを強めようと努力したので、梁の時代には朝鮮半島の南朝外交は百済が独占していたも同然だったそうです。

■その梁が建国直後の505年に儒教の「五経博士」を選定しますと、513年6月には百済から姐弥文貴(きみもんき)将軍と州利即爾(つりそに)将軍が日本の継体天皇に謁見しています。この時、段楊爾(だんように)という五経博士を献上しているのです。どうやら、この人は南朝の梁から来た本場の学者だったようですから、国宝級の贈り物と言えましょう。百済はこの人物の価値を、加羅(任那)北部で起こっていた領土争いを解決する切り札に出来ると踏んでいたくらいです。一方の仏教はどうかと言うと、五胡十六国の動乱期の372年に高句麗に伝来、百済には384年に伝わっていました。漢文化至上主義に徹していた新羅は長い間仏教を受け入れようとはしませんでしたが、法興王が528年に仏教を公認します。その丁度10年後の538年10月に、百済の聖明王が大和朝廷の欽明天皇に仏像・経典・僧侶を献上するのです。これを下賜されたのが蘇我稲目で、後の政争の原因となるのは周知の史実です。

■儒教的官僚国家を目指して建国したはずの梁が、突如として仏教国に変貌したのは、おそらく北朝の大事件が影響しているのではないでしょうか?五胡十六国の動乱を平らげたのは鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)で平城(現在の大同)を都とする北魏を建てたのが4世紀末でした。都の平城が万里の長城のすぐ傍というのが北方民族らしいところですが、東隣には高句麗の全盛期を現出させた広開土王が暴れ回っていましたし、北にはそれまでは鮮卑族の支配を受けていた柔然が周辺部族を従えて一大勢力を成し、頭目の社崙は自らを「丘豆伐可汗(きゅうとうばつかかん)」と称し、史上初のモンゴル草原の王者「可汗」を名乗ったのですから、調子に乗って南下する事は出来なかったのでしょう。

■北魏初代の太祖道武帝の孫・太武帝が若干31歳で北朝を統一したのが439年10月19日でした。既にこれより20年以上も前に鳩摩羅什さんは没していましたから、この後に起こる惨劇を目撃せずに済んだのは幸いだったでしょう。五胡十六国時代を終らせたと言っても、北魏の内実は不安定で、南朝の宋が3代皇帝劉義隆の「元嘉の治」と称される全盛期を迎えていたのに比して、長安を中心に大規模な反乱が起きるような状態でした。鳩摩羅什さんが育てた俊英が集まっていた長安に太武帝が鎮圧に来襲して、運の悪い事に仏教寺院の中から大量の武器が発見されてしまいます。物騒な世相を反映して自衛目的の武器だったかも知れませんが、若き皇帝は疑念を強めて更に調査をしてみると、反乱にも加わっていたと思われる有力者達からの寄進物が多数見つかります。信者からの布施に違いないのですが、これも反乱軍と結託している証拠とされます。

■側近からの意見も有って徹底的な廃仏が開始され、北魏全土で多数の僧侶が強制的に還俗させられたり惨殺されたりした上に、寺院は仏像・経典と共に焼き尽くされたと言います。これが世に言う「三武一宗の法難」の最初の廃仏事件です。北魏の太武帝の「武」、北周の武帝の「武」、唐の武宗の「武」、そして後周の世宗の「宗」を合わせて「三武一宗」と呼びます。因みに日本の慈覚大師・円仁さんが密教と悉曇を学びに唐国内を旅した時、道教の道士に変装して長安を危機一髪で脱出したという廃仏騒動は、「会昌の破仏」とも呼ばれる武宗が起した廃仏事件の実体験です。中国に仏教が伝わり広まって行く中で起こった反仏教運動の最初が、北魏で起こったというのは注目すべき事でしょう。

■この惨劇の裏側には仏教の隆盛に危機感を抱いていた寇謙之が居ました。彼は土着の民間信仰を道教に仕立て上げて仏教と対抗する中心人物で、北魏の宰相崔浩と眤懇の仲でしたから、仏教の危険性や僧侶や信徒の腐敗堕落を強硬に責める進言を太武帝に続けていたのです。そして、この長安に始まる廃仏運動に乗じて北魏を道教国家にしようと暗躍していたようです。ところが、452年に太武帝が宦官によって暗殺されるという意外な結末を以って史上初の大規模な廃仏騒動は終結してしまいます。その2年前に、廃仏運動を煽っていた漢人宰相の崔浩(彼も宦官)が、皇帝の寵愛に図に乗ったのか、北魏王朝の先祖である鮮卑族を蛮族扱いする『国史』を編纂して太武帝の逆鱗に触れ、崔浩ばかりでなく関係者128人とその一族ことごとくが誅殺(ちゅうさつ)されてしまったのです。

■文字や道教によって官僚機構を支配していた漢族の勢力は一気に減じられたのですが、それを怨んだ宦官が44歳の太武帝を暗殺したというわけです。こうした民族間の憎しみ合いを間近に見ていたのが幼い孫、後の文成帝でした。彼の父は晃(こう)という名の熱心な仏教徒でしたが病弱だったようで、24歳で早世していました。文成帝は祖父の太武帝が殺害された年に第二代北魏皇帝に即位して直ぐに廃仏令を解除します。祖父が漢人官僚を一掃していた事が仏教再興を容易にしたのでしょうが、僧曇曜(どんよう)を責任者にして名高い雲崗の石窟を造営し始めます。曇曜は35年に及ぶ5体の磨崖大仏の工事を監督すると同時に、焼失した経典の収拾や翻訳事業にも力を注いだと言われています。

■「皇帝即如来」の国家仏教を実現しようと、曇曜は遠くガンダーラからも職人を呼び寄せて文成帝の面影を大仏に写しました。この大事業は後に日本の聖武天皇が真似て東大寺の造営が実行されました。文成帝に曇曜が協力したように、聖武天皇には行基菩薩が居たのでした。

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