五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の四拾八

2006-07-08 09:29:15 | 玄奘さんのお仕事
■そんな大檀那だった武帝ですから、海のシルクロードを存分に活用して東南アジア経由で名僧を招聘しようと熱心に動いたのでした。インド情報が集まる扶南国まで来ていた真諦さんの高名は梁にまで達し、同時に武帝の信仰心は扶南まで聞こえていたというわけで、真諦さんは膨大な経典類を持って広州に上陸したのが大同12(546)年のことでした。そこで2年を過ごした真諦さんは、漢訳仏典の実情をつぶさに知ろうと情報を集めたはずです。インドと中央アジアを介して陸路で結ばれた北朝の北魏と、海路で結ばれた南朝の梁、はなはだ不便な分裂状態ではありましたが、貴重な仏典の翻訳情報は案外と自由に行き来していたようです。

■南北に分裂した不便を象徴するのが、梁の武帝が熱心に学んだ漢訳『涅槃経』の成立史に現われています。


412年 法顕が『涅槃経』の一部分に当たる6巻を持ち帰る。
414年 曇無讖(ダルマクシェーマ)北涼で『涅槃経』漢訳に着手。
421年 曇無讖、西域に不足原典を求めて30巻を漢訳。
5世紀半ば、南朝宋の慧厳らが法顕訳と曇無讖訳を36巻に整理合本。


こうした出現したのが『南本涅槃経』で、この出来たばかりの漢訳を梁の武帝は熱心に研究したという次第です。『涅槃経』を伝えた曇無讖というお坊さんの生涯も厳しいものでした。彼は200年も前に玄奘さんが歩いた道を通ってやって来たのです。伝説によりますと、インド中部に生まれたのが385年で6歳にして父を失い、母親が毛織物をしながら育て上げ、達磨耶舎という徳の高い小乗の僧に頼んで弟子入りさせてもらったのだそうです。10歳になるかならない頃から小乗仏教を理解習得し、大乗の師も得て20歳の時には大小乗の経典の文言200万以上を学び終えたと言われます。

■ここからが困った話で、厳しい修行を重ねた結果、神通力を身に付けた曇無讖は超能力者として有名になります。更に学ぼうと大乗経典を背負って西北インドに向いますが、そこは小乗の地であったのでパミールを越えてシルクロードに入り、クチャ国を経由して河西回廊の北涼に達しました。そこで沮渠蒙遜という王の帰依を受け、持参した未訳の経典を翻訳するのですが、その中に『大般涅槃経』の最初の10巻が含まれていました。全3万5000偈で構成されている大きなお経なので、中央アジアに自ら出掛けたり、インドに使いの者を派遣したりしてやっと30巻を漢訳したのですが、その分量はまだ1万偈だったのでした。これを『北本涅槃経』と呼びます。梁の武帝が愛読したのはこの曇無讖の訳業に法顕の翻訳とを合わせた南本でしたが、完全なる翻訳を熱望していた曇無讖は原本全巻を入手すべくインドへの旅を決意します。

■しかし、運の悪い事に北朝の統一を着々と進めていた託跋氏の北魏が、北涼の曇無讖の活躍を知り占領したばかりの長安に招こうと使者を送って来ていたのです。北涼の王・沮渠蒙遜は、曇無讖の念力や呪術の力を恐れる余り敵対する北魏に渡すのを躊躇します。しかし日の出の勢いの北魏を怒らせるのも得策ではなく、王は悩みます。そんな時に曇無讖はインドへの旅を願い出たのですから、不慮の事故によって死亡という筋書きが直ぐに出来上がります。王は出発を快諾し多額の旅費を援助して送り出しながら、手下に先回りさせて謀殺してしまったのでした。49年の生涯だったそうです。

■そんな悲劇が残した『涅槃経』を熱心に読んでいる梁の武帝を頼って、いよいよ真諦さんが建康に到着したのが太清2(548)年の事でした。玄奘さんが生まれる54年前に、南から最新の唯識論がやって来たのです。但し、それはヴァラビー派の教えでしたが……。勇んで乗り込んで来た真諦さんは、南北に分断されていた国情の悲しさで北朝北魏が東西に分裂し、南朝の梁を巻き込んで小さな『三国志』が再現されつつあった事など知る由も無かったのでしょう。何としたことか、真諦さんは頼りの南朝梁が滅亡するという悲劇を目撃する事になってしまったのでした。嗚呼

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