五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事  参拾九

2006-04-16 10:16:59 | 玄奘さんのお仕事
■焉耆国から西南に200余里(1里は450メートル)、小山を越えて河を二つ渡って更に行くこと700余里で屈支国に到着です。ここがクチャ国、鳩摩羅什さんの生まれ故郷であります。鳩摩羅什さんは父上様がインド人でもありましたし、二番目の子を生んだ後の母上様は俗世を悲しんで夫の反対を押し切って出家してしまいます。7歳になっていた鳩摩羅什さんも母親と一緒に出家し、毎日経文を千偈ずつ暗誦して周囲を驚かす神童ぶりを示したと伝記は言います。尼になっていた母上と一緒に、説一切有部が盛んに研究されていたカシミールに9歳で留学して盤頭達多という先生に小乗の指導を受けて『阿含経』を熱心に学びます。まだ少年だった鳩摩羅什さんは異教徒と議論して相手を論破したのだそうですから、玄奘さんの青年時代に似ています。

■12歳になってクチャ国に戻ってからも中央アジアの名刹で修行を続け、カシュガルでは阿毘達磨を学び、仏陀耶舎という高僧から『十誦律』を受け、ヤルカンドの王子だった須利耶蘇摩(スーリヤソーマ)からは『中論』『百論』『十二門論』を学んでいます。後に半分強制された仏典の漢訳は大乗仏典ばかりでしたが、鳩摩羅什さんの学識は小乗系の学識に裏打ちされていたのです。その点は玄奘さんも、熱烈な大乗仏教の信仰を持ちながらも小乗系の経典と論書をとても熱心に学んでいたので、両者の思想には共通するものが有ったかも知れません。但し、翻訳に関しては鳩摩羅什の流麗な意訳と玄奘の正確無比の逐語訳と好対照を成しています。

■玄奘さんよりは小規模ではありますが、鳩摩羅什さんも当時の最高レベルの仏教理論を学んで祖国に戻って来ます。20歳になって具足戒を受けて正式な僧侶となるのですが、いよいよ信仰を深めた母上様は単身でインドに旅立ってしまいます。その時に、東への布教をするように告げて行ったのだそうです。布教の時期を見ながらクチャ国でも衆生の教化に努めていた時、すっかり有名になった弟子を訪ねて盤頭達多先生がやって来たそうです。小乗の先生だった盤頭達多さんは大乗系の学問を積んだ弟子の鳩摩羅什さんに論破されてしまい、何と弟子としての礼を取るようになったのでした。こうして鳩摩羅什さんの名はシルクロードを通って遠方にまで轟いたわけですが、戦乱に明け暮れていた中国にもその噂は流れてしまったのでした。玄奘さんは稀代の英雄太宗によって唐が最盛期を迎えつつあった時期に帰国し、翻訳作業をまんまと国家事業にするのに成功しましたが、鳩摩羅什さんは不運でした。時は五胡十六国の動乱期でした。匈奴、羯、鮮卑、テイ、羌が五胡ですが、テイと羌はチベット系と言われています。吐蕃王朝が出現する前のチベット族は相当に乱暴で凶暴だったようです。仏教が広まってからも元気な部族は多いのですが……。

■先回りすると、五胡の鮮卑が北魏を建て、それが西魏と東魏に別れてそれぞれが北周と北斉とになり、北周の将軍だった楊堅が台頭して隋の高祖になるわけです。しかし、鳩摩羅什さんが生きていた頃の鮮卑は居住地のモンゴルから南下して万里の長城を各地で乗り越えて北辺に部族ごとに展開していただけでした。四川の山岳部から駆け下りて来たのがチベット系のテイ族で、西域の入り口から成都までを抑えて前秦という国を建てました。当時の国王は符堅で、仏教を信仰していたそうです。道安というお坊様を知恵袋にして、自国を仏教国にしようと考えていました。西暦382年、この符堅王が天下統一を夢見て南の大国東晋に大軍を派遣しようとしたのでした。東晋は法顕さんの故国ですし、書聖の王義之や詩人の陶淵明が活躍した国でした。

■前秦の符堅は、南征軍に出撃準備をさせる一方で、後顧の憂いを絶つ為に西域へも予防的な攻撃を命じるのですが、この時に僧の道安から聞いていたクチャ国の名僧鳩摩羅什を招く計画も盛り込まれていたのです。血生臭い時代なので、招聘と言うよりも拉致誘拐作戦です。命令を受けた驍騎将軍呂光は7万の軍を率いてシルクロードを西進し、クチャ国の王白純に降伏を勧告しますが、クチャ国は西方の獪古(かいこ)王に援軍を頼んで頑強に抵抗します。鳩摩羅什さんは戦乱が収まるのを一心に祈っていたことでしょう。しかし、クチャ国は敗れて王は殺されてしまいます。呂光軍を見送った後の符堅王は、自称100万の大軍を率いて南下を開始しますが、前秦と東晋の国境とされていた淮水を渡ったばかりの肥(三水付き)水での合戦で大敗するのが383年の事です。前秦はこの大敗から立ち直れず、同じチベット系の羌族姚氏に攻め立てられ後秦の版図に呑み込まれます。


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