五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の四拾九

2006-07-11 01:34:29 | 玄奘さんのお仕事
■皇族内の混乱によって梁に政権を奪い取られて斉の国には、文宣王という仏教に熱心な王族も居ました。この人は多くの僧侶と親交を結び、入手可能な経典の内容を詳細に研究した成果を全36部の抄録集を編纂しました。こうした仏教を擁護する政策が梁に引き継がれ、初代の武帝もその子の昭明太子もますます仏教に肩入れしたので、建康には700と言われる伽藍が並んだのでした。入れ物としての寺院には、充実した経典群が欠かせません。徐々に仏教がその壮大な体系の片鱗を現わし始めたのは、経典目録が続々と編纂されたからでした。鳩摩羅什を招くために尽力した道安さんが、道安録の異名を持つ『綜理衆経目録』を作ったのを嚆矢としますが、この段階で後漢から4世紀始めの西晋までに漢訳された500部以上の経典名を整理していたのです。

■続々と請来される新しい経典が増加した南北朝時代にも経典目録は充実し続けます。南朝の宋では『衆経別録』2巻がまとめられ、続く斉の時代には『衆経目録』4巻、そして梁の時代には僧紹が『華林仏殿衆経目録』4巻に加えて、宝唱が『梁代衆経目録』4巻も完成しているのです。その極め付けは僧裕さんが編纂した『出三蔵記集』15巻でした。この労作はそれまでに作られた目録を網羅しただけでなく、2000余部4500余巻の経典の名前と翻訳の経緯や訳僧の伝記まで詳述していたので、過去の目録は全て用済みとなってしまったようです。その証拠にこれ以外の目録は全て消失し、名前が記録されているだけとのことです。従って『出三蔵記集』が現存する最古の仏教経典目録ということになります。北朝の北魏でも、『元魏衆経目録』1巻や『高斉衆経目録』1巻などが編纂されたようですが、現存する物は無いそうです。太武帝の最初の破仏から、その後も仏教擁護と廃仏が繰り返された影響なのでしょう。

■こうした経典のリストが充実していたところに真諦さんがやって来たのですから、自分が翻訳すべき経典の選定は容易だったはずです。先回りして結果的に真諦さんが苦難に耐えて翻訳した経典と論書の名前を確認します。


『金光明経』『無上依経』『仁王般若経』『金剛経』『解節経』……
『十七地論』『決定蔵論』『摂大乗論釈』『仏性論』『中辺分別論』『唯識論』『三無性論』『倶舎論』『部執異論』……


50余部120余巻、これらに伝記や他の書物も加えれば、64部278巻という数になるそうです。三大訳僧とも四大訳僧とも数える時には必ず真諦さんが含まれるのは当然です。経典よりも論書の名前に注目すると、唯識思想の真髄を伝えようとした真諦さんの心が浮き出すようです。しかし、この真諦さんが残した膨大な翻訳を玄奘さんはまったく認めず、全ては不完全な旧訳(くやく)だ、と切り捨てているのは何故なのか?このリスト中、論書の筆頭に『十七地論』を上げましたが、玄奘さんが法を破って命懸けの旅に出発する決意を述べた文章に、こう書かれている理由は何か?


十七地論を取って以って衆疑を釈かんとす。


■真諦さんの漢訳『十七地論』は5巻までしか完成しなかった、という記録が有るだけで、実物は散逸して残っていませんから、玄奘さんが真諦さんの『十七地論』の実物、或いは筆写本を目にしたかどうかは分かりません。『瑜伽師地論』という当時の仏教百科事典とも言うべき全100巻の大著、その第1巻から第30巻までが、『十七地論』と呼ばれる部分です。従って同じ巻の配分ならば、真諦さんは『十七地論』の6分の1しか訳せなかったことになるのです。玄奘さんが『十七地論』の一部を見て『瑜伽師地論』全巻の翻訳を考えたのか、真諦さんの翻訳自体に疑義を感じたのかは判断できませんが、玄奘さんは真諦さんを唯識学の大先輩として強烈に意識していた事だけは確かです。

■若き玄奘さんが良い師に恵まれて唯識思想を熱心に学んだ話は前にも書きましたし、その師匠達のほとんどが真諦さんの薫陶を受けた人々だった事も書きました。つまり、玄奘さんは直接、真諦さんの教えは受けられなかったものの、常に真諦さんの解釈と説明を通して唯識を学んでいたのです。従って、玄奘さんが熟読していた唯識関連の書物は全て真諦さんの翻訳だった可能性が極めて高いのです。その結果、唯識に関するテキストが不完全で不十分だと判断したのですから、玄奘さんは真諦さんの業績を全面的に否定したことになります。そんな玄奘さんの態度を厳しく難詰したお坊さんが居ました。


旧訳による修行がいけないと言うが、貴方も旧訳経典によって出家したのではないか。それならば、貴方も還俗して、もう一度新訳によって出家し直すべきではないでしょうか?


これは法沖という強烈な意志を持つお坊さんが玄奘さんに発した根本的な質問です。さすがの玄奘さんも反論出来ずに沈黙で応えるしかなかったそうです。法沖という僧は、唐の玄宗の頃、勝手に出家する「私度僧」は死刑に処す!という勅命が下った時に、敢然と剃髪して山寺に入って抵抗したという迫力のある逸話を持つ事で有名だった人だそうです。

■唯識思想の最深部に横たわる哲学的な大問題に関しての吟味はしばらく措いて、玄奘さんの苦労に負けない苦難に耐えた真諦さんの翻訳の仕事を振り返って置こうと思います。

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