五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の四拾伍

2006-07-05 00:00:31 | 玄奘さんのお仕事
■真諦さんのお話に戻ります。おそらくはナーランダー寺院から分派した唯識思想を学んだ後、或いは学びながらインド各地を歴訪して50歳になっていた真諦さんは海に出ます。13世紀以降、東南アジアにイスラム教が広まる前の広大なベンガル湾とインド沿岸のアラビア海はインド人の海でしたから、西インドからでもガンジス河口のデルタ地帯からでも真諦さんは布教の旅に出発できたはずです。しかし、ガンジス河口まで行くにはナーランダー寺院を通過することになるでしょうから、ナーランダー学派に批判的だったと思われるヴァラビー学派の真諦さんは、西インドから沿岸部を南下してスリランカ経由で旅をしたのではないか、と想像します。

■真諦さんが目指したのは今のカンボジアに有った扶南という国でした。マラッカ海峡も南シナ海も当時はインド人の海だったと考えられます。その証拠にインドネシア各地にヒンドゥー文化の遺跡が残っていますし、ジャワ島のシャイレーンドラ王朝が残したボロブドゥールの立体曼荼羅は最も有名です。一辺111.5メートルの正方形の土台の上に高さ31.5メートル9層の巨大な階段状の曼荼羅には、明らかにインド風のレリーフが巡礼者を案内するようにびっしりと嵌め込まれています。これが造営されたのは8世紀後半から9世紀半ばと言われています。カンボジアがアンコール王朝によって統一されるのはその直後ですが、真諦さんが来訪した頃の扶南国は北インドからやって来たカウンディニヤという人物が建てたインド文化が広まってた場所です。真諦さんの高名はこんな場所にも鳴り響いていたらしく、扶南の王様が招いたとも言われています。後から考えれば、その地で穏やかに布教活動をしていたら、真諦さんの晩年は幸福だったかも知れません。

■6世紀半ばというと、大陸は南北朝の時代でした。遠く3世紀の三国時代に繰り返された戦乱の中で、多くの人が殺害され飢えて死んで人口が激減したと言われていますが、三国時代を征した魏王朝が積極的に北方民族を移入させた影響で、司馬炎が建てた晋は安定を欠いて南に逃れて東晋を立てたのが317年でした。ここからが南北朝時代となって、北朝は五胡十六国の動乱が続いていました。鳩摩羅什さんはその時代に翻弄されて、後秦から北魏へとその身は移されたのでした。一方の南朝は、東晋の都となった建康(南京)の争奪戦が繰り返され、宋・斉・梁・陳と支配者が変遷します。五胡十六国の支配者達も、北を統一した北魏も熱心な仏教徒だったのは有名な話ですが、南朝も負けずに仏教を取り入れようとしたようです。

■東晋時代には法顕の天竺求法の旅が有りましたが、逆にインドからの渡来僧も多かったのです。斉の時代には僧伽婆羅(サンガバルマン)が招かれましたし、梁の時代には真諦さんと曼荼羅(マンドゥラ)が招かれています。その後の陳代にも須菩提が来訪していますが、彼らは全員、扶南で活動している間に南朝の各王朝から招かれているのです。東南アジア地域は上座部(小乗)仏教が広まった地域ですが、インドで大乗仏教が盛んになると、その波は間違いなくベンガル湾を渡りマラッカ海峡を通って北上して行ったのです。しかし、現地のインドで唯識思想が分裂して東のナーランダ学派と西のヴァラビー学派が双璧を成して居たことを、熱心に仏教を導入しようとしていた南北朝時代の支配者達は知りませんでした。

■従ってナーランダー学派の唯識思想は主にシルクロードを通って北朝に伝わり、ヴァラビー学派の唯識思想は海路を取って南朝にやって来ていたのです。この二つの唯識思想が再び激突するのが久方振りに出現した統一王朝の隋でした。二つの唯識思想は同じ物として漢訳されて行ったのですが、その決定的な違いに気が付いたのが玄奘さんだったという巡り合わせになります。

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