五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の弐拾九

2005-08-28 18:51:04 | 玄奘さんのお仕事
其の弐拾八の続き

■プラバーカラミトラというインドの御坊さんが居ます。この人の事跡を知ると、玄奘さんの御仕事が少し色褪(あ)せてしまうかも知れません。その理由は、余り仏教に興味の無い人達でも『西遊記』を通して玄奘さんのファンになっているシルクロードが大好きな人達が目を輝かせる「玄奘さんの旅」が、実はこのプラバーカラミトラさんから仕入れた体験に基づく情報に従って行なわれた事が明らかだからです。

■中国の伝記では「波頗(はは)三蔵」と書かれるプラバーカラミトラさんは、インド中央部の出身で、ナーランダー僧院でシーラバドラ先生に唯識思想を学んだ御坊さんなのです。彼は、インド北方で活動している蛮族が仏教を知らない事を残念に思って、仲間10人と一緒に旅立ったのでした。この蛮族こそ、玄奘さんが大変にお世話になった西突厥の人々なのです。『続高僧伝』という書物には、波頗三蔵一行は西突厥の可汗を仏教に帰依させることに成功したと書かれているそうですが、草原の帝国は宗教には寛容である性質を持っているので、一つの外来宗教に帰依することは有りませんから、これは偉人伝に有りがちな「嘘」のようです。突厥は基本的にペルシアに生まれたゾロアスター教を信仰していました。

■しかし、この時の統葉護(トンヤブク)可汗は大変な英傑でしたから、ナーランダー僧院からの賓客たちの利用方法をすぐに思い付きます。まさに「奇貨置くべし」です。西と東に分裂していた突厥帝国は、文化も習慣も漢化されて衰えて行った東突厥に対して、西突厥は正にシルクロードの雄として大活躍していました。玄奘さんが、高昌王城に滞在していた628年に、統葉護可汗は西のササン朝ペルシアに攻め込んでホスロー2世を殺害、その息子のシェ-ローエを王にしてしまうような荒業を見せ付ける勢いでした。こんなに遠い西方遠征が可能だったのは、東側に憂いが無かったからでした。東の大国だった唐は建国間も無い頃で、突厥との外交に苦心していた頃なので、この可汗は625年に唐の姫を嫁にしたいと政略結婚を申し込みます。唐が「遠交近攻」政策を採る事を見越しての不遜な提案ですが、唐の高祖は突厥の東西分断を強めるには良い案だと考えて、この申し込みに飛び付きました。

■高祖の甥で、太宗の従兄弟に当たる李道立という人が代表に任命されて外交使節団が直ぐに派遣されました。仏教が盛んな唐の文化状況を知り抜いていた可汗は、滞在させていたナーランダー僧院からの賓客を答礼の使節団に加えて送り出したのです。恐るべき情報収集能力と分析力、そして決断力を持った可汗だったことが分かります。626年の12月に、西突厥の使節団を伴って李道立一行は長安に戻りますが、この年の8月には太宗がクーデターを起こして帝位を簒奪してしまっていますから、外交政策にも変化が起こっていました。可哀想なのは李道立さんでした。この婚礼が成立してしまったら、東突厥は親戚になった唐と西突厥から挟み撃ちにされるのは分かり切っているので、国境線に大軍を送って暴れ回って、政略結婚に断固反対の意思を誇示します。

■太宗は武勇だけの人ではなかったので、西突厥が派遣した真珠統俟斤(しんじゅとうあいきん)という人の参内を許して、お土産の「万針宝細金帯」という宝飾品のベルトを受け取るのですが、その時に礼儀上、李道立さんが先導役として一緒に参内している裏では、早々と「郡王」から「県公」身分に降格してしまっているのです。つまり、婚姻を結びたいと言う西突厥の外交使節団を手厚く迎え入れながら、婚姻に反対する東突厥の意向も汲んで、交渉の責任者となっていた李道立を罰して、先代皇帝が進めた政略結婚を自分は認めない事を示したということでしょう。凄まじい外交戦略です。

■李道立さんは骨折り損の草臥れ儲けでしたが、この破談によって波頗三蔵さんがややこしい外交仕事から解放されて、僧侶として長安に滞在出来るようになったのですから、玄奘さんにとっては幸いでした。太宗は波頗三蔵さんを、長安の名刹・興善寺に住むように命じています。この寺は、隋の文帝が582年に創建したもので、北インドのナレンドラヤシャス(尊称)さん、闍那屈多、達磨笈多などが御経を訳した所で、外国からの御坊さん達の仕事場でした。波頗三蔵さんが興禅寺に入った頃、玄奘さんは同じ長安の大覚寺に居たのです。既に天竺行きの出国願いを出していた玄奘さんが、この大ニュースを聞いてどうしたかは、分かり切った事です。

■きっと、嫌われない程度にしつこく日参しては、貴重な助言と情報を受け取り続けたに違いないのです。そこで、玄奘さんは少し上達していたインドの言葉を使って波頗三蔵と仲良くなったでしょう。そして、ナーランダ僧院に居る恩師シーラバドラ(戒賢)が『瑜伽師地論』を見事に解釈して講義していることを懐かしみながら、感動的に語ったのでしょう。この時、玄奘さんの最終目的地と会うべき人が決定したのです。そして、それは同時に実は二つに分裂していた唯識思想のどちらを採用するかも決定していたのです。この高度に学問的な選択が、後の中国と日本の仏教界に巨大な影響を及ぼすことになります。

其の参拾につづく

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