五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の弐拾五

2005-07-06 21:58:40 | 玄奘さんのお仕事
其の弐拾四の続き

■ヴァーラーナスィー(ベナレス)を出た玄奘さんは、「初転法輪」の地として名高いサールナートを経てガンジス河を渡ってヴァイシャーリーに到着します。ここは釈尊在世中は、北のコーサラ国・南のマガダ国に対抗していた部族連合国の中心地となっていた場所でした。釈尊の晩年にはマガダ国の阿闍世(あじゃせ)王の謀略によって連合が崩されて占領されてしまいました。精神分析医の小此木啓吾先生が、フロイトの「エディプス・コンプレックス」に対抗して、日本人用に「阿闍世コンプレックス」を考案したので、少しばかり阿闍世王の名前が流行しかけたのですが、どうも仏教に対する感心が薄い日本なので、今ではすっかり忘れられています。

■ヴァイシャーリーという場所は、釈尊寂滅後の100年目に、僧700名を集めて「第二結集(けつじゅう)」を催したことで、仏教史の中で不滅の名を残しました。第一結集は釈尊が死去して直ぐに開催されて、釈尊を見取ったアーナンダさんが記憶していた説法を担当し、ウパーリさんが生活と教団運営に関して釈尊が定めた規則を担当して、参加者全員が内容を確認した上で筆記さてたようです。これが「経」と「律」となります。一説には、一人の僧侶が釈尊の死去を聞いて、手を叩いて喜んだのを見たアーナンダさんが危機感を抱いたのが、この第一結集を開催する切っ掛けだったそうです。そのお坊さんは、「わーい、口うるさい先生がいなくなったぁ」と言ったのだそうですが……。

■それから100年後、仏教を取り巻く状況が大きく変化したので、教団内が混乱していたのが、第二結集の開催理由でした。紀元前363年頃だと考えられていますが、この会議で出家者の戒律に関する大議論が起こって、最終的には仏教教団を分裂させてしまったのです。どうやら決裂の原因は、布施として現金を受け取っても良いか?という一点であったようです。原始仏教教団の僧侶たちは、本当に乞食同然の生活をしていたので、所有物などほとんど無かったわけで、残飯を受け取る器が一つ、ボロ布を縫い合わせた衣が一つ、毒蛇に噛まれた時に使う薬用の牛糞ぐらいのもので、家族は捨てているから不動産などは無く、勿論、定住する寺院なども無かったのでした。「諸行無常」なので、所有権などは考えようもなく、布施して貰った食べ物も保存してはいけないし、余計に貰ってもいけないと決められていました。

■しかし、折角お坊様が家の前に来て下さったのに、生憎と残飯が無いという時、釈尊が死去した頃から急速に発達した貨幣経済の影響で、「些少ながら」と僅かな金銭を手渡す信者達が現れて来ます。貨幣は腐ることはなく、欲望の対象となって蓄えられるし、当分は使わない分を貸し付ければ利息収入も生んでしまう物ですから、下手をするとお坊さんが、金勘定に熱心になってしまう危険性が高かったのです。財産が生まれれば所有欲という恐るべき「毒」が心に生まれてしまいます。宗教の戒律というのは、世の中の変化に対応しなければならない宿命を負っています。その対応策には二種類有るようで、小さな問題が起こるたびに教団上層部が徹底的に議論を重ねて、戒律体系全体との整合性を保つように判断する作業を続けるのが一つ。もう一つは、伝統的な戒律を実質的には形骸化してしまって、実際の生活方法は臨機応変に、自己判断で済ませば良いとする事です。

其の弐壱六に続く
<

最新の画像もっと見る