五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

神様の話

2005-07-03 09:01:49 | 法話みたいなもの
今回は連載中の「玄奘さんのお仕事」から横道に反れ、神様について考えてみたいと思います。

■国内問題だった靖国神社が、国際問題になって議論百出の状態で収拾が付きません。当事者の靖国神社は宗教法人ですから、議論がどんなに大きくなっても、国会やら外相会談やらの舞台に引っ張り出されることは無いので、参拝問題や合祀問題に関して一切の説明をしません。「公式参拝」と言い出した政治家も、「それは問題だ!」と騒ぎ立てて国内では非難の声が盛り上がらないからと言って、北京に御注進に及んだ新聞社も、どちらも靖国を政治問題に変えてしまった責任は同じです。

■国内問題に限定して靖国神社を考える場合には、この神社が非常に新しい魂鎮めの施設である点が重要で、それは明治維新をどう考えるかという大問題に直結しています。司馬遼太郎さんが『坂の上の雲』という長編小説を書いたら、明治時代を賛美する日本人への応援歌だと思って多くの人が読み耽りましたが、書いた御本人は当惑していたと言われています。明治時代の日本が置かれた厳しい立場とそれに耐え忍んで苦闘する歴史群像は、読んでいるだけで消耗してしまうほどです。ここから明治の日本人は立派だった、と感動することも出来ますが、過酷で悲惨な時代だったなあ、と苦い思いで懐古するのも可能です。幕末を描いた司馬作品に比べて、読者本人も主人公と一緒に動乱を走りぬけるような感覚は湧かないのが『坂の上の雲』という小説の特徴のような気がします。

■明治の日本をどう乗り越えるのか、という問を自分に課す日本人はとても少ないようです。明治時代は賛美すべきもの、と始めから決められているようで、マルクス主義史観を学んだ人は、ブルジョア市民革命段階の限界を理由にして、次の社会主義革命を急ぐ為の踏み台と考えるのでしょうが、多くの日本人は広いアジアで唯一近代国家を曲がりなりにも完成させた偉業を感謝と感動を以って記憶しています。明治の偉業を軍事面で支えた人々を顕彰しようとするのが靖国神社ですから、明治政府が成立した戊辰戦争という日本版南北戦争内戦の戦死者7751人を弔う目的で「東京招魂社」が建立されました。官軍と賊軍という乱暴な対立軸が設定された戦争ですから、錦の御旗の下で死んだ者だけが弔われています。

■「日本人は、すべての死者を神・仏として拝む民族」という主張を良く耳にしますが、少なくとも靖国神社は戊辰戦争の官軍と大日本帝国側で戦死した者という厳格な線引きが守られている施設です。それゆえに、長らく陸軍省と海軍省が所管していたのです。ですから、靖国神社は宗教部門を担当する軍事施設の一部で、戦死者を「神」として祀るという表現がいつ出て来たのかは分かりませんが、皇室内部では違う解釈をしていたと思われます。しかし、西欧のキリスト教のように信仰内容や解釈によって大規模な殺し合いが起こる国ではないので、軍部と皇室との「神」に関する解釈が違うのではないか?とは誰も問わなかったようです。それこそ、「触らぬ神に祟りなし」です。

■キリスト教徒のマッカーサー元帥が「靖国爆破」を考えたのは、日米の間に有る「神」の考え方の違いが原因でしょう。人類が「神様」を発見(発明)して、大きな木や岩、山や海などの印象的な自然物を神様とする文化は世界中に現れたのですが、その後の歴史は各民族間で大きく違います。「姿形も名前も無い唯一の存在」としての神様をユダヤ人が考えた時から、今のキリスト教・イスラム教が広まっている地域の神様は独特の進化?をしています。仏教が広まった地域でも、死者と仏様は厳格に区別されているのが普通ですから、日本は世界中でも珍しい宗教観を伝承しています。「神と仏はどう違うの?」と問われて、明確に答えられる日本人はほとんどいないのではないでしょうか?そもそも、そんな事を問う日本人がいないでしょうなあ。

■ところが、西太平洋から沖縄までの激戦を体験して、占領軍として帝都東京にやって来たマッカーサーは、「死して後の永遠の生命を約束する」靖国神社を恐ろしげに見ていたはずです。キリスト教徒は教会での儀式や聖書を学ぶことで、救いの神との約束によって「永遠の命」を保証されているので、唯一の神と個人との関係しか有りません。そうした人々の目から見ると、戦死者を「神」だと呼んで厳(おごそ)かに参拝している群衆の姿は奇怪で恐るべきものでしょうなあ。出来れば、民主主義の中にキリスト教を包み込んで日本人に丸呑みにさせたいと思ったとしても無理はありません。

■しかし、長く日本に滞在していた上智大学の神父さんに相談したマッカーサーは、新たな宗教戦争を引き金とした大規模なゲリラ戦や内戦を始める覚悟は無かったので、この問題を封印します。これも「触らぬ神に祟りなし」でした。戦時行為の一部として開催された東京裁判自体にも問題が有るとうすうすは知っていた米国は、冷戦時代に対日戦略を大転換してしまいましたから、靖国神社参拝もA級戦犯合祀も問題視などしませんでした。靖国神社を参拝している日本人よりも社会主義陣営の方が遥かに恐るべき敵だったからです。靖国の境内には「鬼畜米英」だの「臥薪嘗胆」だのの看板は有りませんし、いつかは原爆のお返しをしてやる!などと言う日本人は一人もいませんから、米国は安心していられます。「思いやり予算」なんていうプレゼントも貰えますし……。

■今、盛んに文句を言っている中国と韓国でも、祖先崇拝は盛んですし仏教やキリスト教の信者もいます。しかし、死者を「神・仏」と呼ぶことはないようですし、戦死者は「英雄」や「烈士」として顕彰することはあっても「神」と呼ぶことはないのです。日本人にとっては「戦死者を弔っている」と言うのも「戦死者を神として祀っている」と言うのも、大した違いは無いような気がしていませんかな?このオオラカと言うべきか、暢気と言うべきか、素朴と言うべきか、表現は微妙ですが、乱暴に言ってしまえばイイカゲンな「神様」の扱い方が伝統を、それを知らない異国の人々に説明するのは大変です。

■60年代に世界中を熱狂させたビートルズという英国のロック・バンドが有りましたが、彼らが初めて米国公演に渡米した時、ポール・マッカートニーがインタヴューに答えて「英国での僕たちの人気はスゴイんだ。まるで神様みたいだよ」と、ジョークを言ったのでした。軽いジョークのはずだったのが、この発言が報道されると、全米の道や広場の地面がレコードの破片で覆われたのでした!反抗の世代、伝統に反逆する若者、と呼ばれていたファンが、「神を冒涜(ぼうとく)している!」の叫びと共にビートルズのレコードを叩き割り出したというわけです。政治問題にさえなりそうな勢いだったので、陳謝の言葉を繰り返したり、あらゆるメディアを通して火消しに必死になったビートルズは、ただの田舎者でした。何とか「誤解が解けて」ファン達はレコードを買い直したので、始めから売り上げ倍増を狙った悪質な陰謀なのではないか?などと言う意地悪な人もいたそうです。

■それに比べると、「お客様は神様です。」と三波春夫さんが何百回叫んでも、スポーツ新聞が「神様・仏様・稲尾様」と第一面に書き散らしても、平気で拍手しているのが日本人です。噂によりますと、経営不振で落ち目の新日本プロレスとかいう会社では、怪しい政治家プロレスラーのアントニオ猪木前社長を「神!イノキ!」と呼んでいるそうで、提携しているテレビ局でも実況中に社員のアナウンサーが「神!イノキ!」と絶叫しているそうですなあ。「打撃の神様」を筆頭に、野球界やサッカー界にも「神様」が沢山いるようですが、そのほとんどは日本製のようです。

■少なくとも、靖国神社に祀られているのは、「戦没者」か「英霊」ぐらいに止めておいて、素朴に「神」とは対外的には言わない方が宜しいのではないでしょうか?戦時中は「軍神」などが発明されたりしましたが、余り「神様」を便利に使っては行けません。「神」という日本語は、最高の賞賛の意味しか持っていない場合が多いのですから、これを外国の言葉に直訳するとヤヤコシイことが起こってしまいます。『古事記』以来の伝統は大切でしょうが、文化もグローバル化している時代には、翻訳技術も磨き上げなければならないのです。面倒臭いのですが、仕方ありませんなあ。

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