五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事  其の弐拾六

2005-07-09 08:26:16 | 玄奘さんのお仕事
其の弐拾五のつづき

■ヴェーサーリーという都市で第二結集が開催されたのには理由が有りました。当時、この町はガンジス河流域で、最も繁栄した商業都市だったのです。従って、お坊さん達の身近で盛んに貨幣経済が活動していたというわけですから、現金のお布施も増えて行きますし、大きな都市の郊外には巨大化した仏教教団が利用する施設が常設されるようになり、組織と施設の管理を任せる俗人達も必要となり、彼らは戒律の外にいますから、給料を信者さん達から貰っていたようです。俗人と言っても、熱心な信仰を持っていたようで、教団に寄進された財産を私物化するような不心得者はいなかったようで、教団の財産はどんどん増えました。富が蓄えられていれば、誰かが融通してくれるように頼みに来ます。こうして教団が金融業を営むようになるわけです。それは中世キリスト教が欧州で大きく発展しながら変質して行った経過と同じですし、日本でも織田信長に攻められた比叡山・延暦寺の歴史にも共通する問題です。

■戒律を厳しく守って生活している僧侶と、それを補助する俗人達とは区別されているので、現金は間接的に僧侶達の生活を支えているとも考えられるけれど、考えようによっては「財布は一つだ」とも言えるわけです。こうした考え方の違いは、インド内での地域差によって大きくなったようです。比較的貧しい南インド地域からは、「伝統的な戒律を厳守すべし」という主張が出ましたし、それに対して貨幣経済が大発展していた北インド地方では、それまでの戒律が窮屈に思える傾向が強まっていました。南インドのお坊さん達が戒律厳守に拘(こだわ)ったのには、別の理由も有りました。

■南インドでは、釈尊と同時代に活躍したマハーヴィーラが開いたジャイナ教や、アーリア人が持ち込んだバラモン教が盛んに活動していたのです。深遠な宗教議論よりも、日々の暮らしの中で目に見える違いが教派間の違いを際立たせますから、仏教のアイデンティティを自他共に明らかにするには他の宗派とは違う戒律を顕示する必要が有ったのでしょう。この第二結集から約500年後に大乗仏教の祖とされるナガールジュナ(竜樹)が出現するのも南インドでした。そして、「南伝仏教」と呼ばれる上座部(小乗)仏教が東南アジアに広まっているのも南インドを起源としています。「第二結集」は仏教が南北の地域差による分裂を決定付け、その分裂から大乗(北伝)と小乗(南伝)という大きな流れが生まれる節目の出来事になったわけです。

■第二結集の場で問題となった議題は10項目だったと言われています。列挙すると、当時のお坊様たちの暮らしぶりが良く分かります。


①病気の時以外は食べ物を蓄えてはならないが、塩もダメか?
②正午過ぎたら食事は禁じられるが、少し緩和できないか?
③托鉢した食べ物を食べ終わった後で、別の物を食べてはダメか?
④定期的に僧院内で行なわれる罪の告白を、別の僧院で行なって良いか?
⑤僧院内の作法規則は先輩が決定し、後輩は従うことで良いか?
⑥釈尊や師匠の慣例を真似して良いか?
⑦飲み残した牛乳がヨーグルトになった物を飲んで良いか?
⑧醗酵した果汁や樹液は禁じられた酒ではないから飲んで良いか?
⑨規定外の敷物を使用しても良いか?
⑩金銭・銀銭を受け取ったり使ったりして良いか?


■釈尊は豚肉料理を食べて死亡したと伝えられていますし、この議題の中にも特に肉食に関するものは含まれていないのは、牛を神聖視する地域から出る残飯を食べていた僧侶達は牛以外の肉が僅かに含まれていても気にしなかったのかも知れません。しかし、その後「不殺生戒」が拡大解釈されるに連れて、肉食全般を禁止するようになったようです。玄奘さんも、絶対に肉を食べなかったと伝えられています。その記録は、唐を出発して間も無く、クチャ国の王に招かれた食事の場でした。クチャ国には高昌国から移り住んだ僧侶達が暮らしていたので、玄奘さんはその寺に泊めてもらっていたのですが、王様に招待されたので宮殿に出向いたのでしたが、用意された豪華な料理は「三種浄肉」を使った物だったそうです。「三浄」とも略されますが、


①自分のために殺すのを見ていない肉「見」
②自分のために殺したとは聞いていない肉「聞」
③自分のために殺した疑いの無い肉「疑」


という「見・聞・疑」に抵触しない肉は食べての良いと、玄奘さんの時代の小乗仏教では認められていたのです。クチャ国の王様は、それを知っていて、玄奘さんの健康を考えて用意させたのでしょう。しかし、玄奘さんはまったく食べようとせず、穀物と乳製品と果物だけを食べたと記録されています。本当に乳製品以外の動物性の蛋白質を摂らずに困難な求法の旅を歩き切ったとすれば、これだけでも仏教の戒律史の一大事だったとも言えるのではないでしょうか?最近の日本では、「生臭坊主」という言葉は死語となったようですなあ。

其の弐拾七につづく

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