五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 番外(1)

2006-01-17 01:39:15 | 玄奘さんのお仕事
■長長と拙ブログを放置しまして、御無沙汰を決め込んでおりましたが、気が付きますれば(新暦ではございますが)年も明け、世は季節はずれの「初春のお喜び」を形ばかり交換して、年末年始の帰省ラッシュと「ゆうたあん」ラッシュの決まり事を終えたのでございます。旧年中は、初めて本を出すなどという大それた暴挙を企んだせいで、すっかり当ブログから遠ざかったおりました。毎日、アクセス履歴を拝見する度に、実に手堅い訪問者が確保されておることに、恐れ戦(おのの)くのと同時に、玄奘三蔵様の不滅の(ちょっと仏教にはそぐわない表現ですね)魅力を改めて思い知るのでありました。

■仄聞(そくぶん)しますれば、年明けから、どこぞの民放テレビで『西遊記』をドラマ化して毎週放映する由、是は是は、何たる仏縁かと驚いている次第でございます。年末に中野美代子先生の御著書を入手しまして、『西遊記』を改めて考える時を楽しみましたが、『西遊記』と玄奘さんの御仕事とは、まったく関係の無い事だと、幼少の折には懐かしき東映動画の『西遊記』を、貧しい両親の懐具合も考えずに、テレビじゃあるまいし、「毎日」映画館に連れて行け!と駄々を捏ねては映画の全盛期を楽しんだ文字通りの「餓鬼」であった我が身を恥ずかしく思うのでありました。手の付けられなかった乱暴猿だった小生が、不思議とあの東映動画を暗闇の中で引率者がビックリするほど大人しく見詰めていたとの目撃情報を聞いて育ちました。

■孫悟空のアクションに見とれていたのなら、映画館の椅子に飛び乗って奇声を上げて手の付けられない欄某狼藉に及んでいたに違いないのに、何故か、うっとりと銀幕を見詰めていたのは何故だろう?とつらつら考えまするに、どうやら場内に鳴り響く玄奘さんの「これ、悟空や…」という残虐なアクション場面には、まったくそぐわない温かなお言葉に聞き惚れていたものと、勝手に解釈しておる次第でございます。論より証拠に、巨匠・手塚治虫がテレビでアニメ化した『悟空の大冒険』を小学生の頃に見る機会に恵まれたというのに、確か、野沢那智さんが頼りなく間抜けな演技で玄奘さん(らしき)貧相なお坊様の役を熱演したおられるのに反応して、「これは『西遊記』ではない」と脳髄の奥で逸早く判断していたようです。後に手塚先生が大作『ブッダ』や『火の鳥』を完成するとは思いもよらない愚かな思い出であります。

■その後、芸達者な堺マチャアキさんが孫悟空を演じ、後に借金大魔王になってしまった岸辺シローさんが沙悟浄で、西田敏行さんが体形を活かした猪八戒、そして夏目雅子さんが玄奘さん(らしき僧)を演じるテレビ・ドラマが制作されましたが、何だかその前に作られた御茶ノ水製の『水滸伝』をなぞる様なユニークな、でも仏教の香りのほとんどない喜劇が人気を博したのでした。その頃は、学校生活が矢鱈に忙しくて夜の8時や9時のドラマなど観ていられない状態でもあり、ビデオも無い頃ですから、時々横目で眺めては、ゴダイゴが演奏した番組用の音楽を楽しんだのでした。高峰三枝子さんが雲間の観音菩薩を演じていたようですが、その後の丹波哲郎さんが作った映画?の影響なのか、記憶が逆転して登場シーンの有難みが少なくなっているような気もいたします。

■『大唐西域記』を本気で映画化するとなれば、チンギス・ハーンの生涯を再現するよりも遥かに難しいでしょうし、『リトル・ブッダ』のようにややこしい場面はCG処理で切り抜けよう、という卑怯な真似は出来ますまい。日本が、現代の中国とインドとの友好関係を画策するのならば、本気で『大唐西域記』を全10篇の大作長編映画にでもして製作すれば良いものを…などと新年から夢想してしまいます。今回のテレビ・ドラマはNHKが拝んででも紅白歌合戦に出て欲しい愛嬌は有っても音痴なアイドル・グループに所属する、異色の近藤勇を演じた若者が孫悟空を演じる由。未見ながら、『忍者ハットリくん』の実写映画で主演を勤められたとも仄聞しますから、くれぐれも「ハットリくん」と孫悟空の違いを演じ分けられる事を切に念願するだけでございます。

■中野美代子先生が、丹念に解きほぐして下さったように、『西遊記』は何処まで行っても「道教」の物語、それも実に良く出来た謎を鏤(ちりば)めたパズルの楽しみに満ちている物語です。オリジナルの『大唐西域記』を映像化したならば、道教臭い場面は玄奘さんが帰国した後の苦労話の背景として取り入れられる事でしょう。『西遊記』の玄奘さんは、ここぞ!という時に『般若心経』を唱えたり、観音菩薩と交渉したりするので、一見仏教風なのですが、キョンシーを倒す道教の道士さんのイメージで描かれているようです。『西遊記』は道教のエキスで構成されている孫悟空を筆頭にした三匹の「妖怪」の物語に終始します。キントン雲という夢の輸送装置を持っているのに、わざわざ徒歩や馬に頼って天竺まで行くのは阿大切な「修行」なのだ、と玄奘さんはどんな作品に出て来ても、この台詞を強いられるようでございます。

■しかし、実際の玄奘さんは、膨大な経典と各種の仏具を持ち帰るのに、当時の最有力かつ最も効率的な方法である象やら駱駝やらを駆使しておられるのですから、仮にキントン雲を操る孫悟空のような弟子が得られたら、さっさとそれに乗ってナーランダー学院に赴いて、思う存分に勉学に励んだに違いないのです。大々的に宣伝しているようですが、おそらく最新のテレビ・ドラマ『西遊記』を見る事は無いだろうと思います。ブッダガヤに繁茂し続ける菩提樹の木を象の背に乗って眺めている猿(孫悟空)の絵を、チベット滞在中に何度も目にしていた経験から、道教で飾られてしまった『西遊記』とはまったく別の、歴史的な大動乱を見事に自分の務めを果たしながら生き抜いた玄奘さんのお仕事を、今年も追い続けようと思います。

■だからと言って、テレビ・ドラマを排斥する心算は毛頭ございません。『西遊記』に描かれる玄奘さんは、いつも清楚で気高い姿で登場します。「どこで袈裟を洗濯したんだ!」などとは言わずに、ドラマはドラマとして楽しんで頂きながら、本当の玄奘さんは身一つでタクラマカン砂漠を越え、パミールの難所を越えて行った事を頭の隅に置いておかれれば、大いに奇奇怪怪のドラマを楽しんで、玄奘さんのサバイバルの奇跡から、玄奘さんが求法の旅から生還した由縁を考える便(よすが)となれば、これも仏縁というものでございましょう。合掌

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