五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事  参拾四

2006-01-26 20:18:44 | 玄奘さんのお仕事

■前回、唯識思想の分裂に言及しましたが、これをもう一度、唯識思想全体の流れ、特にインドから中国への流れの中に置き直して見る必要が有りそうです。ナーランダ僧院に着いた玄奘さんの活躍に目を奪われてしまうと、個人的な才能を賞揚するだけで終わってしまうのは、玄奘さんの仏教史に占める大きな意義を見失ってしまう事にもなります。玄奘さんをモデルとした『西遊記』では、インドに行く目的は仏教経典のオリジナルを持ち帰る事とされていますから、苦労の末に天竺に到着したら御話はほとんど御仕舞いです。しかし、玄奘さんの御仕事は御経という品物を入手する事ではなかったのです。少しだけ運が良かったら、玄奘さんが必要とするオリジナルの経典は南朝の梁(りょう)か隋の都で入手可能だったのです。

■玄奘さんが命懸けで持ち帰った膨大な経典と同じ物が、シルクロードや海上の交易路を通って伝えられていた可能性がとても高く、もしかすると、その一部を玄奘さん御自身も目にしているかも知れません。何よりも、漢訳経典で我慢できれば、玄奘さんは隋から唐に王朝が変る戦乱の中を逃げ回りながらも、インドにまで出掛けずにあちこちの名刹で学んで居られたのです。旅立つ前の玄奘さんの思想的な位置を確認してみましょう。もしも、玄奘さんが戦乱が治まった唐の都で頭角を表わして唯識の大家として名を残したとすれば、これがそのまま唐の仏教史として通用した筈なのです。多くの人名が並びますが、それらの人々を結び付けて行くのは唯識思想の主要な書物なので、ここで著者と著書を確認しておきます。


弥勒(マイトレーヤ 3~4世紀)
『弁中辺論頌』
『大乗荘厳経論頌』

無著(アサンガ 395?~470?)
『摂大乗論』
『大乗阿毘達磨集論』
『顕揚聖教論』

世親(ヴァスバンドゥ 400?~480?)
『弁中辺論』
『大乗荘厳経論』
『摂大乗論釈』
『唯識二十論』
『唯識三十頌』


■「唯識三年、倶舎八年」と言われるように、唯識を効率良く学ぶには基礎学習としての倶舎学は欠かせませんが、五位七十五法ので世界を解釈する説一切有部の思想に経量部の視点からの批判も加えた『阿毘達磨倶舎論』は、世親の代表作ですが唯識思想そのものとは別扱いすべきなのでここに書いて置きます。幼少期から玄奘さんはこの重要論書を学び尽くし、国法を犯してインドへの旅を決意したのも、この書物で知った須弥山を夢の中でまざまざと見てしまったのが原因なのですから、玄奘さんの御仕事を振り返る時、いろいろな意味で大切な論書なのであります。

■さて、我らが玄奘さんが可愛い小僧さんだった頃の事から話をやり直さねばなりません。隋の煬帝が洛陽で27人の優秀な者に国家資格の僧籍を与えるというので、数百人の修行僧達が押し寄せますが、その中に玄奘さんのお兄さんが入っていました。玄奘さんは洛陽の東、今の河南省の中心部あたりに在った村の名家、陳家の四人の子の末っ子としてこの世に生を受けました。二番目の子が長男で玄奘さんは次男で末っ子、一番上と三番目はお姉さん達でした。お兄さんは長捷(ちょうしょう)という法名を頂いて、一足先にお坊さんになっていましたが、それまで正式な僧籍は持っていなかったのです。そして、玄奘さんが10歳の時に父上が亡くなられたので、お兄さんが修行していた洛陽の淨土寺に引き取られていたのでした。この試験会場で13歳の玄奘さんは、その後の自分の運命を決定する奇跡的な出会いを経験します。

■玄奘さんは御寺で養育されるにはぴったりの性格と資質をお持ちだったようで、悪さなど一切せずに、同年令の子供達と遊び回るのも好まず、お寺に蓄えられていた書物を楽しそうに毎日読んでいたと伝えられます。淨土寺は、仏教以外の書物も沢山所蔵していたらしく、お兄さんの長捷さんは、儒教や老荘思想にも通じている仏教のお坊さんとして有名でした。きっと玄奘さんもお兄さんに「これも面白いよ」などと薦められて一通りは読んだことでしょうが、やっぱり仏教の御経が一番のお気に入りだったようです。恐るべき頭脳を持った陳家の末っ子は、難しい御経の意味を理解した上でどんどん記憶して行くのでした。今だったら小学校高学年なのですから、末恐ろしい話です。

■お兄さんの大切な国家試験に玄奘さんも幼い心を熱くしたようで、とことこ試験会場を覗きに行ったそうです。玄奘さんはその時は、まだ陳偉(偉、正しくは衣偏)という俗名でしたが、試験をする門の前で「お兄さんは合格するかなあ」とでも思って立っていたようです。そこへ鄭善果という老人が通り掛ります。陳偉くんが余りに可愛いので、黙って通り過ぎられずに老人は足を止めて声を掛けてしまいます。「そちはいずこの者かな」から始まる他愛も無い立ち話でしたが、陳偉くんの返事は礼儀正しかった上に、仏教を学ぶ大志を素直に語るものでした。玄奘さんは、立派な服を着た偉いお爺ちゃんだなあ、とでも思ったでしょうが、この鄭善果こそ、煬帝から直々に勅命を受けて僧籍を授ける責任者だったのでした。

■隋の仏教界全体から優駿が集まっている選抜会場の門外でお兄ちゃんを待っていただけの陳偉くんは、役所の中で何が起こっているのかなど、まったく知る由も有りませんでした。きっと、大いに揉めたことでしょう。正式な僧籍授与は定期的に行なわれるわけではなく、国家財政や国際情勢、皇帝の機嫌まで含めたさまざまな事情で何時行なわれるのか誰にも分からないようなものでしたから、今回がダメでも来年に再挑戦するというわけには行かないのです。だからこそ、陳偉くんもお兄ちゃんの長捷さんが心配で仕方がなかったわけです。

■そんな熾烈な選抜を行なう会議の中で、鄭善果老人は、「将来、必ず大物になる」という鶴の一声で27人の合格者リストに陳偉くんの名前を書き込んでしまったのでした。こうして陳家の兄弟は揃って合格し、玄奘さんはこの時に「玄奘」さんになり、正式な国家資格を持ったお坊さんとして長捷さんと共に淨土寺で師匠の道基さんの下で修行を積むことになったのでした。長い前置きでしたが、やっとここで道基さんが登場しました。

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