五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の弐拾八

2005-08-21 12:08:41 | 玄奘さんのお仕事
其の弐拾七のつづき

■玄奘さんがブッダガヤーに十日間も滞在していたのは、ここが御釈迦様が悟りを開いた物語のクライマックスの舞台だったからでした。金剛座が置かれている菩提樹から見て、東の方に尼連禅河(ニランジャナー)が流れています。但し、乾季に行って見ると白い砂の川床が広がっていて水は一滴も流れていない風景に出会います。この河の更に東に前正覚山と呼ばれる岩山が見えます。玄奘さんは「鉢羅笈菩提(プラグボディ)山」と記録されていますが、この岩山に御釈迦様は六年間も籠もっていたと言われているのですが、一体何を口にしながら命を保ったのか心配になるような岩山です。野生の猿が住み着いているので、僅かに木の実が手に入ったかも知れませんが、恐ろしい食生活を想像しないわけには行かない場所です。現地を訪ねて、急斜面に付けられている細い道を上ると、小さなチベット式の寺が建っています。その中が祠(ほこら)のような空間になっていて、御釈迦様が瞑想していたと言われている場所です。玄奘さんもこの空間に足を踏み入れています。

■ここで瞑想していた御釈迦様に天からの声が聞こえて、金剛座の有る場所に向う事になるのですが、立ち去ろうとする御釈迦様を竜が引き止めるので、影を残して納得させたという伝説が有るそうで、法顕さんははっきり見えたと記録していますが、玄奘さんは、今でも偶に見る人がいるらしいとしか述べていません。こうした話も、それが見えたからと言って、特別に仏教の理解が深まるというものでもないでしょうから、見えなかった物を見えたと書かない玄奘さんの態度を大切に思う事にしましょう。

■骨と皮だけになったと言われる御釈迦様の姿を刻んだ仏像がガンダーラで造られました。目が落ち窪んで肋骨が浮き出ている凄まじい坐像で、皮膚に浮き上がった血管もリアルで圧倒される迫力が有ります。あの岩山で六年間も断食修行をしていた体で、尼連禅河まで歩いたというだけでも驚異的な生命力と体力ですが、御釈迦様はその河を渡ってスジャータという名の娘さんから乳粥を布施されて健康を回復するわけですが、そうした物語の一つ一つを思いながら玄奘さんはあちこち歩き回ったようです。それはきっと、自分が本当に釈尊が生きた場所に辿り着いた事を確認しながら、確かに釈尊が経典に記録された通りの生涯を送った事を噛み締める体験だったのだと思います。御利益目当ての観光旅行とは訳が違う真剣な巡礼体験だったのでしょう。玄奘さんは、こうした仏跡を巡る体験をナーランダー僧院に入る前に、是非ともしておく必要が有ったのに違い無いのです。それは信仰心と正確な経典理解を求める学問の志を更に固める儀式のようなものだったのでしょう。

■頃合も良く、ブッダガヤー滞在十日目に痺れを切らした四人の高僧がナーランダーから玄奘さんのお迎えにやって来ます。玄奘さんは急かされるように皆が鶴首して待っているナーランダーに向って歩き出しますが、僧院の有る村に入ると二百人以上の僧侶と千人以上の信者が待ち構えていました。幟旗と飾り傘を立てて、人々は手に手に花やお香を持っての大歓迎だったそうです。大変な騒ぎの中で僧院に入った玄奘さんは、海外からの留学生も含めて常時一万人を収容していたナーランダーに迎え入れられたのでした。やっと辿り着いたナーランダー僧院は、仏教以外の書物の研究も含めて、論理学、数学、医学、音韻学などインド文化の粋を集めた総合仏教大学としてその名を知られていました。

■ここに集まった秀才達の中でも、経論二十部に通じている者は千人、三十部に通じるのが五百人、五十部となると僅かに十人と玄奘さんは記録していますが、御自身はこの十人の筆頭になります。玄奘さんの明晰な頭脳の為せる業なのですが、ナーランダー僧院で学ぶべき目的が密出国以前に固まっていた事が大きな理由なのです。玄奘さんが求めた答えは、当時のナーランダー僧院の最高レベルの研究者達だけが知っている最も精妙で難解な理論だったので、短期間の内に僧院のトップ・クラスになるのは最初から分かっていたようなものなのです。玄奘さんは大乗仏教の分岐点に出現した天才でした。玄奘さんが持ち帰った仏教理論は唐の仏教界に大きな衝撃を与えましたし、そして奇跡的にその法統が日本に伝わって正確に理解されたのです。玄奘さんはナーランダーにシーラバドラという高僧が居る事を知った時に、国禁を犯して旅立ったのでした。この人物を知らなければ、玄奘さんはインドへの旅をしなかったはずです。

其の弐拾九につづく

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