五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

小さな「幸福」論

2005-07-12 17:08:57 | 迷いのエッセイ

■誰でも災厄を逃れて安穏(あんのん)に暮らしたいものです。大病せず飢えたり渇したりすることもなく、家庭円満で周囲とも仲良く暮らせれば言う事は無いのですが、なかなかそれが上手く行きません。人間がひ弱な動物としてうろうろしていた時代が終わって、集落を作り定住を始め、部族集団が成長する頃から、自分達を守ってくれる大いなる力を共有するようになったようです。それを忘れないように物語が作られ、力を象徴する物や場所が聖別されて宗教の原型が完成します。この頃までの人間の願いとはどんなものだったかと考えてみると、狩猟の獲物が途切れない事、水が安定的に得られる事、そして何より子孫の繁栄だったでしょう。『旧約聖書』に書かれている「蜜と乳が流れる大地」と「海辺の砂粒のように、夜空の星のように」子孫が増えて「地に満ちる」ことを保証してくれる神が讃えられます。

■でも、本当に人類が「地に満ちる」ようになった昨今、思い掛けない災厄が起こり始めました。代表的な地球温暖化問題などは、人間が便利で快適な生活を追い求めた結果、エネルギーの過剰消費が地球環境を大きく変化させるほどの規模になったのが原因です。そして、「21世紀は水争いの時代」と予測されるような事態が発生しています。ノアの大洪水を起こすほどに豊かだった地上の水が、とうとう絶対的に不足する時代が始まっているのです。こうなると、営々と人類が良かれと思って積み上げてきた「幸福」自体に問題が有ったのではないか?と反省しなければならないでしょう。

■「幸福」という言葉を、私達は随分と気楽に、時には乱暴に使っていますが、よくよく考えてみるとこの言葉は変な言葉らしいのです。「幸」と「福」を合体させると、良い意味が二倍になるよな気になりますが、この二つはまったく別の意味を表現しているとしたら、意味が二倍になるどころかプラスとマイナスで零になってしまいます。「幸福」に対応するのが「運命」だと或る人が教えてくれました。つまり、「運」と「命」の違いが、「幸福」を考える鍵になるということです。日本語は知らず知らずの内に英語から大きな影響を受けてしまって、大陸から学んで使い込んできた文字文化を変質させているようで、例えば、「幸福」はハッピー(happy)とまったく同じ意味だと思って軽々しく使うようになっています。しかし、少し宗教的な事を考えようとする時に、こうした乱雑な慣習は邪魔になります。

■ちょっと立ち止まって、「福」という文字は仏教寺院の名前に沢山使われているのに、「幸」の文字はほとんど使われていない事を思い出してみましょう。どちらも同じ意味ならば、両方とも同じ位の頻度で使われていても良いはずです。この使い方の区別は、本来の文字が意味する内容の違いから生まれているのです。「射幸心」という言葉が有ります。決して良い意味ではありません。合法なのか非合法なのか分からないギャンブル産業に対する法規制を掛ける時に使われます。朝早くから熱心にパチンコ屋さんの前に行列している方々や、偶の休日に馬や自転車やモーターボートやバイクを熱心に見に行く人達は「射幸心」に燃えています。こうした人達は「福」を求めて集まっているのではありません。

■つまり、「幸」は偶然に手に入れられるラッキーな収穫物を意味するらしいのです。ですから、ギャンブルで儲かった人は「運が良かった」と言うでしょう。「命が良かった」とは言いません。「幸運」というのは、「幸」が転がり込んで来る「運」、つまり偶然を意味します。宗教か似非宗教かの分かれ道がここに有ります。宗教は、「天に福を積む」と表現されるように、人々に「福」を教えるものです。釈尊は、弟子達に「占い」や「呪(まじな)い」を禁じています。それは偶然に起こるかも知れない「幸」を約束する詐欺行為だからです。勿論、人類は気が遠くなるような長い時間を費やして、一種の統計学や確率論を追い求めて占いを研究し続けました。ですから、「幸」を手に入れる確立が若干上がるのかも知れませんが、釈尊が教え続けたのは無知を破って得られる「福」だったと思われます。

■「幸多かれ」というお祝いの言葉も、どこか博打の匂いのする無責任な表現です。我が子に「幸」の字を与える親心は、愛情に満ちた不安な気持ちを良く表しています。露骨に言ってしまえば、他人の子供に不幸が襲い掛かっても我が子だけは「幸」と「運」で生き残って欲しいという親心です。釈尊が我が子の誕生を聞いて、与えた名前は「ラーフラ」だったそうです。密教系では目に見えない天体の名前とされて、独特の星占いの重要な要素なっていますが、元々の意味は「余計物」という恐ろしいものです。政治的な意味の有った結婚に気が進まなかった釈尊は、ずっと出家を考えていたので、養育の責任が生ずる我が子の誕生は「幸運」ではなかったと考えられています。

■キリスト教の来襲に対抗して、仏式結婚式などという変なものを発明したお坊さん達もいましたが、出家宗教の仏教が結婚や出産を祝うのは矛盾しています。仏教は釈尊以来、人々の「幸 」について考えた事は無かったのですから、ユダヤ教から生まれたキリスト教に同調など出来ない相談です。慈悲の心で幼い子供達が苦しむ姿には涙を流して救おうと努力する一面は有りますが、キリスト教のように、結婚と出産を奨励して盛大に祝うような事はしません。釈尊の行跡の中に、幼子を亡くして悲嘆にくれる母を救う話が有りますが、子供が生まれた事を喜んだり祝福する話は一つも無いはずです。人は放っておいても「業」によって生まれてしまうものだ、と考えるのが仏教です。化学反応のようなものですから、喜んだり怒ったりする対象にはならないのです。

■サミットの議題になるほどに人口爆発を起こしているアフリカの問題は、実はキリスト教問題でもあるのです。キリスト教が布教されるまでは、それぞれの部族が人口をコントロールする様々な慣習が有ったのですが、それらは全部「野蛮な行為」で神の命令に反している!と言って介入してしまったのが事の発端だと言われています。世界を変えたとまで言われた故ヨハネ・パウロ二世でさえも、人口問題に大しては頑固に保守的でした。それは、古代部族宗教であったユダヤ教の伝統を受け継いでいるからです。我が子、我が孫、我が親族の数が増えるのは誰でも喜ぶ目出度い事です。これが古代国家が出現する時代になると、富国強兵の最大の武器となって更に奨励されるわけです。しかし、これを全人類に対する「福音」だと言い張るのは、地球環境に限界が有る以上は、理論として破綻しています。

■「幸」を追い求める人々の「業」に付け込むのが似非宗教だと書きましたが、行き過ぎた「現世利益」を追求すると信者が貧困に苦しみ、教祖と一部の幹部だけが豊かになるようになります。釈尊は神経質なほど、出家僧が物品を蓄える事を禁じたのは、一つ手に入れると二つ欲しくなるという「業」の強さを知悉していたからでしょう。釈尊は、食中毒を起こした乞食として生涯を閉じましたが、きっと「福」に満たされていたことでしょう。それは一切の「幸」を求めず、「運」の良し悪しに心を奪われることなく「命」に従って修行生活を続けた結果でしょう。

■世間には、子殺しやギャンブルによる借財によって「罪」や「不幸」が満ち溢れています。毎日、この種の悲しいニュースを聞き続けるのはとても残念です。考えてみれば、「幸」を約束する商売が世の中に溢れていて、自分の体形や毛髪を意のままに変えられるとか、手軽に英語が話せるようになるとか、人々の「射幸心」を利用する賢い人々が多いようです。「命」に対して挑戦するのは、結果的に「不幸」になる、とギリシア悲劇の時代から芸術家達が名作を残しているのですが、人の「業」と「無智」は釈尊が絶望したように、恐ろしく根強いのでしょう。

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