五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の参拾壱

2005-09-13 21:49:39 | 玄奘さんのお仕事
其の参拾の続き

■鎌倉時代の凝然さんがまとめて下さった説によりますと、


……此の教、三国の次第相承分明なり。如来滅後九百年の時、弥勒菩薩、都(兜)率天より中天竺安瑜遮国に降り、瑜遮那の講堂に於いて、五部の大論を説きたまう。補処の薩捶、位、十地に居す、これ則ち如来在世親聞の所伝、非空非有中道の妙理、諸教の中に於いて、マコトに明鏡となす。瑜伽論の如きは、巻軸百巻あり、諸教悉く判ずるが故に、広釈諸経論と名く。

次に無著菩薩あり、位、初地に居す、慈尊に継いで広く此の宗を伝え、慈氏の教文、コトゴトく委解を加え釈尊の所説、広く論釈を造る。
次に九百年の時、世親菩薩あり、(無著の弟なり)、四善根の中、明得の薩捶、無著菩薩に承け、広く此の宗を伝え、慈氏の論によりて盛んに論釈を施す。……
次に護法菩薩あり、深く世親の論を解し、遠く慈氏の教を弘む。賢劫の一仏、空中に告明し、外道の邪執、口を閉じて唖の如く、異部の小乗、舌を巻いて訥に同じ。……

次に戒賢論師あり、伝法の大将、当時倫を絶し、法相の法門、コトゴトく伝え、一代の教義皆解す。此の五大論師は倶に是れ天竺伝法の匠なり。


■簡単に言ってしまえば、弥勒菩薩・無著菩薩・世親菩薩・護法菩薩・戒賢論師の5人が法相宗の教えを伝えたという御話です。釈尊が寂(じゃく)して900年後というと、正法1000年をあと100年残している時期ということになります。(正像各500年説も有りますが)まだ正法が滅んでおらず、「教・行・証」が正しく伝わっている最後の100年というメッセージが込められた伝説だと思われます。その時期に、弥勒菩薩が兜率天から降りて来られて説いたのが、『瑜伽論』『分別瑜伽論』『大荘厳論頌』『弁中辺論頌』『金剛般若経論』の五部大論なのだそうです。後の事になりますが、玄奘さんは帰国後、647年に翻訳した『解深密経』5巻の第3巻が『分別瑜伽品』で、翌648年の5月15日に『瑜伽師地論』100巻を訳了していますし、10月1日には太宗の希望で『能断金剛般若波羅蜜』1巻を玉華宮で訳了しています。そして、661年には『弁中辺論』3巻と『弁中辺論頌』1巻を訳了していますから、『大荘厳論頌』以外は全部新訳にしていることになるようです。

■凝然さんには悪いのですが、法相宗の伝承は、実はそんなに単純では有りません。凝然さんの『八宗綱要』では、引用箇所の次に玄奘さんに対する称賛の言葉が続くのですが、今は、シーラバドラ(戒賢)先生の思想的位置を確認するのが優先です。ここで、法相宗と言う名称について確認しておきます。そもそも、宗祖や教組と呼ばれるような人達は、自分が会得した教義を他の宗派と区別するような名前を付けないものなのです。古代ペルシアのゾロアスターが光と闇で神の摂理を説いた時に、「ゾロアスター教」と名乗ったわけでもありませんし、カナンの地に辿り付いたアブラハムが「ユダヤ教」を旗揚げしたわけでもありません。ナザレのイエスも、メッカのムハンマドも真の神に対する信仰を説いただけですから、「自分は○○教の教組だ」と言ったわけではありません。仏教史の中でも宗祖と仰がれるお坊さん達も、皆さんが釈尊の教えの真髄を捉えたと考えたのですから、独自の宗派名を宣言するようなことは有りませんでした。

其の参拾弐に続く

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