五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 其の参拾弐

2005-09-20 22:58:51 | 玄奘さんのお仕事
其の参十壱の続き

■凝然さんは、こう紹介しています。


問う。何故に法相宗と名くるや。答う。諸法の性相を決判するが故に、法相宗と名くるなり。汎く此の宗を言えば、総じて四名あり。一には唯識宗と名く、此の宗の大意唯識を明すが故に。二には応理円実宗と名く、一切の法門皆理に応ずるが故に、三には普為乗教と名く、五乗を摂するが故に。四には法相宗と名く、其の義前の如し。

この四つの名称以外にも、護法宗や慈恩宗という名前も有ります。これは玄奘さんの先生の先生に当たるダルマパーラ(護法)の名前に由来するものと、玄奘さんの一番弟子だった慈恩大師の名前を取ったものですから、明らかに後代の御弟子さん達が先達を尊敬すると同時に他の教団に対して誇る気分から出て来たものでしょう。文献には「玄奘宗」という名前は無いようです。勿論、「三蔵宗」などというものも有りません。三蔵というのは玄奘さん以外には全て天竺から来た学識豊かなお坊さんだけに与えられた尊称です。空海さんが日本に帰る時に頂いた書状の中に三蔵の尊称が付けられていたそうです。

■「諸法の性相を決判する」というのは難しい言い方ですが、元々は『解深密経』第二巻の『一切法相品』から取られた名前で、諸法(一切の存在)の理性(無為法)と事相(有為法)をきちんと区別(決判)するという特徴を示す名称です。「理性」という用語は明治時代に欧米から導入された哲学用語に流用されてしまいましたから、仏教論書を読む時に混乱してしまいますが、仏教の方が先に使った用語です。勿論、意味は西洋哲学とはぜんぜん違います。

■諸法(一切の存在)は無常なのですが、どうしても諸法の実性(真如)という永久不滅の超越的な存在を考えないと、人間の思考は混沌としてしまうので、「理性」「実性」のような凡人には認識できない宇宙の秘密が追求されるようになるものです。こうした人間の頭脳と言語が持っている癖を、徹底的に批判して捨て去ろうとしたのが「中観哲学」と呼ばれるナガールジュナ(竜樹)の思想なのです。そして、その言葉で言葉の矛盾を抉り出して批判するというアクロバットを少しでも分かり易くしようとする努力の中から、「唯識思想」が出て来ることになります。そこで問題になるのが、中観から唯識に移行する時に、中観に抵触するような過誤が発生していないかどうかという事なのです。

■「有為」というのは、サンスクリタという梵語の訳語で、変化を被る物を意味します。原始仏教では「五蘊」ですが、世界の存在を吟味し尽くそうとした倶舎宗では七十五法のリストを作って、その内七十二種類の存在が有為だと判定されています。玄奘さんが学んだ唯識では世界を構成している存在は百種類とされて、その内九十四種類が有為だと言われています。私たちが見たり触ったりする物は、すべて作られたり生まれたりして出現して、それが暫らくの間は安定的に存在しているように思えます。しかし、それはやがて変質し続けている事が明らかになる時がやって来て、どうしようもなく消滅してしまいます。これを並べると「生・住・異・滅」という順番になります。

■有為は無常で一瞬たりとも停止しないので、「有為転変」という言い方をします。御経から取られて日常会話に用いられていましたが、最近の日本語からは消えつつあるようです。脇道に逸れますが、貴重な古人の知恵が詰まった大切な言葉をぽいぽい捨てている一方で、怪しげな詐欺話に飛びつく日本人が増えるのは本当に困ったものです。

其の参拾参に続く

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