五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事  参拾八

2006-04-12 12:58:46 | 玄奘さんのお仕事
■隋から唐に移る時期に王位を継承した麹文泰は、高祖に対しても抜け目無く臣下の礼を取って、遠いシリアからもたらされた珍しい犬を献上したりしていますし、血生臭いクーデターで即位した太宗にも黒狐のコートを贈ったそうです。東に向って忠勤に励んでいた一方で、反対側の西突厥に対しても手抜かりなく外戚関係を結んでも居ます。文泰さんの曾祖母は西突厥の可汗の娘だったり、玄奘さんが命懸けで挨拶に行こうとしている統葉護可汗の妹を娘の嫁に迎えていたり、文泰さんはトルコ系の血と漢族の血を混ぜ合わせて生き残ろうと必死だったのでしょう。ところが、唐の威光が輝き出すと、動乱の中で廃(すた)れていた旧道を復興させて自国を主要交易路の要衝にしようという、高昌国にとっては決して看過できないトンデモないことを焉耆国の龍突騎支という王様がが思い付きます。

■高昌国の王も焉耆国の王も、共に仏教徒だったのですが、商売と政治となると信仰は一時棚上げになってしまうもののようで、玄奘さんは帰国途中で高昌国の滅亡を知って絶句し、人の業の深さを悲しんだのでした。しかし、シルクロードで生き残るというのは生易しい事ではなく、常に変化する民族間のパワー・バランスを予測して自国の露命を?ぎ止めて置かねば、あっと言う間に砂漠の廃墟にされてしまうのでした。ですから、玄奘さんを大歓迎して莫大な布施と援助をしてくれた敬虔な仏教徒の麹文泰さんも、国王としての勤めとなれば、隣の焉耆国にも心を許さず、時には侵略戦争を仕掛けたりしていました。両国の仲が険悪である事を、玄奘さん御自身も肌に感じたのです。麹文泰さんからの紹介状を提出して滞在許可を貰おうとした時に、木で鼻を括ったような粗略な扱いを受けます。文字通りの一宿一飯の供養をしてよそよそしい態度を隠そうともせず、砂漠を越えて来て疲れ果てている馬を交換したいとお願いしても、「偉いお坊様を乗せるような良い馬は居ません」とにべも無かったそうです。


……王は…勇敢ではあるが、兵略に疎く、自ら兵を挙げる事を好む。国に規律が無く、法も整備されていない。……


■たった一夜の滞在でしたが、玄奘さんも人の子なのか、ややムッとした形跡が見て取れる文章が、『大唐西域記』に残っています。国力から言えば、高昌国の方が上なので焉耆国は「専守防衛」に徹していたと思われますから、玄奘さんのこの書き方は少々感情的な印象が強うございます。玄奘さんが両国を比較して立ち去ってから2年後、貞観4(630)年に麹文泰は状況が悪化しているのを察知して、長安に出向いています。旧道を復活などせずに、現状を維持して貰えれば一層の忠勤に励む事を誓いに行ったのです。しかし、恐るべき侵略のエネルギーを蔵している太宗は、麹文泰さんの必死の願いを冷たくあしらうのです。恐らく、麹文泰さんの外交センスならば太宗が高昌国を唐の直轄領として支配しようとしている事に勘付いたことでしょう。腹を括った麹文泰さんは縁戚関係を結んでいる西突厥を後ろ盾に頼んで、唐に対して叛旗を翻します。焉耆国を攻撃すると同時に、シルクロードを遮断して西方からの人と物の流れを留め、唐から流れ込む物品や亡命者を匿いましたから、太宗はほくそえんだ事でしょう。

■麹文泰さんが頼りにした西突厥は、新体制が整って日の出の勢いだった唐と事を構えられるような状態ではありませんでした。統葉護可汗は玄奘さんを歓待した貞観2(628)年に、叔父の莫賀咄の手にかかって殺害され、亡命した可汗の遺児を担ぐ勢力と分裂状態になってしまったばかりか、アフガニスタン東北部に有った活国でも骨肉の争いが起こったのでした。活国は高昌国王の娘を妻とする可汗の長男咀設度が支配していたのですが、この妻が病没して別の妻が生んだ子供によって咀設度が毒殺される事件が起こったのです。分裂に継ぐ分裂が続く西突厥に唐と戦う力は無かったのです。それなのに、麹文泰は事を急(せ)きました。

■「離間の計」を採ったと思われる太宗は、焉耆国の旧道復活案を支持するように見せかけて高昌国を挑発し、それにまんまと乗せられた麹文泰は、長安から送られた問罪使に対して無礼な事を放言して太宗の術中に嵌ります。


鷹は空を飛び、雉(きじ)は草叢(くさむら)に隠れる。猫は屋根の上で遊び、鼠は穴に隠れるものだから、それぞれが適した生き方をすれば良いではないか?


という意味の独立宣言同然の発言をして問罪使を追い返してしまったのです。唐の皇帝として度量の大きなところを見せておいて、太宗は侯君集を総司令官とする大軍を高昌国に派遣したのは貞観13(639)年の末でした。麹文泰は期待していた西突厥からの援軍が現われないのに絶望して憤死し、翌貞観14(640)年、息子の麹智盛が王位を継承しますが、太宗は地名を西州に変え安西都護府を置いて直轄領としてしまいます。王位を奪われた麹智盛は、長安に強制移住させられ左武衛将軍という名ばかりの官位を与えられて生涯を送ったのでした。

■宿敵だった高昌国が唐の直轄地となった意味を取り違えた焉耆国は、高昌国と同じ轍を踏んでしまいます。西突厥と婚姻関係を結んで唐への朝貢を拒否して、高昌国に続いて太宗の謀略に乗せられてしまいます。安西都護府となった、かつての高昌国から郭孝恪が出陣して焉耆国の王を捕えます。シルクロードの国々が、次々と太宗に飲み込まれて行くのを見たクチャ国は、反唐政策を採っていた国王蘇伐畳の死を契機にして、647年には長安に初めての朝貢使節を派遣します。西域の奥深くにこれだけの圧力を掛けてから、太宗は悲願の高句麗遠征に着手していたのです。しかし、太宗の目は更に西を望んでいましたから、顕慶3(658)年には、クチャ国も唐の直轄領となります。こうした西域への侵略戦争に玄奘さんが勅命に従って提出した『大唐西域記』が利用されたのは間違いないでしょう。

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